第十章 怨念の行き着く先
第十章 怨念の行き着く先
1
身近な人間二人の、立て続けの死。さすがのドリスも、酷く動揺した。
母シャーロットの計らいで、医者のカウンセリングを受けた。不眠を訴えるドリスに、医者は薬を何種類か処方した。
「眠くなる薬は、こっちですからね。普段、急に落ち着かなくなったり、叫び出しそうになったときは、こっちの薬を飲んでください」
飲み間違いに注意しろというわけか。確かに、大事な撮影中に眠くなってはいけない。
「それから、貧血気味だとお聞きしたんで、鉄分補給の錠剤も入れておきました。いろいろありますが、管理に気をつければ、きっと楽になりますよ」
結局、六種類もの錠剤が処方された。どれが何に効くのか、よくわからなくなる。ドリスは薬の管理を、マネージャーのクリスに任せた。
――魔法の粉以上に、効き目があるとは思えないけどね。
ドリスの精神が安定したところで、ローズ殺害計画を本格的に考えなければ。
トニーの代役は、MGMの俳優、ライアン・スチュワートに決まった。三十一歳だが、童顔で、ドリスの相手役には適任だった。
個人的にも、ライアンとドリスは、すぐに気が合った。
「あの愛らしかったドリス・ハートが、こんな美女に成長するとはな」
ドリスは熱くライアンを見詰め、そっとキスをした。
「もう、こんなことも平気でできるぐらいの、大人だわ」
ライアンの心を奪うぐらい、容易かった。ローズ殺害計画を練るにあたり、なんとしても、ライアンの協力が必要だった。
「ねえ、ライアン。私、妹がこの世の何よりも嫌いなの」
スタジオでの撮影が始まり、まったく口を聞かない姉妹を見て、ライアンも納得した様子だった。
「予想はしていたけれど、まさか、ここまでとはね。映画のラストシーンがそのまま現実になったらと思うと、身が竦むよ」
ラストは、互いの恋人を殺された、マギーとペギーの銃撃戦だ。
「そうよ。あなたを殺され、敵討ちに、ペギーを撃つの。本物の拳銃だったら、どれほどスカッとするかしら」
「おいおい、怖いこと言うなよ」
「冗談だと思う?」
ライアンの顔が青くなった。
「本気なのか? う、嘘だろう?」
ドリスは、ライアンの言葉に落胆した。この男、トニーのように簡単には扱えない。いや、トニーとは深い仲になったから、協力も得られた。
クランクアップまで、そこまでの仲になれるかどうか……。
手っ取り早く、他の共犯者を探したほうがいいかもしれない。
2
「俺、夢見てるんだろうか? あの白い薔薇が、俺の手の中にあるなんて」
ドリスは予定を変更した。キスだけで言うなりになりそうな、大道具の男バーニー・ジャクソンを籠絡した。
「俺、ドリスのためなら、何でもするよ! 俺の愛の証だ!」
この男、ドリスが近づいた意味を、ぼんやりとだが、把握している様子だった。ずっと姉妹の様子を見てきた人間だ。何をやれば、ドリスが喜ぶか、よくわかっているはずだ。
「ちょっとした事故が起きればいいな、と思ってるの。たとえば……ローズの頭の上に、ライトが落ちてくるとか、ね」
バーニーは、ぽんと胸を叩いた。
「そんなの、楽勝だよ! 俺はいつも、セットの上で、ライトをあちこちに向ける仕事をしている。ローズの頭の上に、落とせばいいんだな?」
ドリスはここで、思いっきり悲しそうな顔をしてみせた。
「でも、あなたに容疑が降りかかるんじゃないかって、心配。あなたは私の、大事な人だもの」
「大丈夫さ、俺とローズは、何の怨恨もないだろ。事故で済ませられるよ。それに、君が俺のためにアリバイを用意してくれていれば、まったく問題はないさ」
なるほど、アリバイか。天井にいる姿を目撃さえされなければ、こっそり降りて、ドリスの使いに出かけていたと主張すれば、大丈夫だろう。
ドリスはバーニーの団子っ鼻にキスをした。
「無事に誰にも見られないよう、下に降りられる? そうしたら、アリバイは私が作っておくわ」
こうして、バーニーとの交渉は成立した。
その日、ようやく撮影は先に進み出した。しばらくはドリスと新顔のライアンとの撮り直しばかりだったのだが、本日より、ローズとマイケルが加わる。
ルイスが軽い口調で、四人をからかった。
「四人の怨念が、フィルムにそのまま、焼き付くようだよ。撮影前から、こういう雰囲気は、監督としてはありがたいね」
ドリスは殊勝な顔で、ルイスにぼやいた。
「神経は擦り減るけれどね。おかげで薬の量が増えたわ」
「間違えて、眠くなる薬なんて飲まないでくれよ。ローズに背後から、ぶっすりと刺されるぞ」
四人とも、笑いもしなかった。ぜんぜん冗談に聞こえない。
クリスが水を入れたコップとピルケースを持って、駆け寄ってきた。
「ドリス、昼の分です」
「ありがと」
錠剤を四つ、掌に取り、口の中に放り込む。ローズがニヤリと笑い、嫌味を言った。
「姉さん、薬漬けね。これでコカインは、飲まずに済みそう?」
「うるさいわね」
――憎まれ口を利くのも今のうちよ。五分後には、息もしなくなるんだから。
ルイスが、ぱんぱんと手を叩いた。
「皆、所定の位置についてくれ。ローズ、君はこの椅子に座って。ドリスはドアの前だ、いいね?」
ローズがリハーサル通り、背凭れの高い椅子に腰を下ろした。涼しい顔で、脚を組む。ドリスは頭上を見上げないように、気をつけた。
ローズの頭上には、巨大なライトがあるはずだ。アクションの声と共に、バーニーがカメラを落とす……。
バーニーは裏方のプロみたいなものだ。天井にいくつも張り巡らされた梁のどこを渡って降りれば、他人の目につかないか、熟知している。
さすがにスタジオの外には出られないから、しばらくセットの陰でじっとしている。頃合いを見計らい、ドリスに言いつけられた用事を果たし、スタジオに戻ってきた振りをして、近づいてくる。
そのときまでには、ローズの心臓は停止し、バーニーが何をしていたかなんて気にする人間は、一切いなくなる。
――さようなら、ローズ。そもそも、あなたが映画の世界に足を踏み入れなければ、命まで失う結末にはならなかったのよ。
ルイスが声を上げた。
「よおい、アクション!」
3
カメラが回り出した。ドリスは、カメラが落ちてくるのを、今か今かと待った。
突然、ローズが「はくしょん!」と盛大なくしゃみをした。前に屈み込み、椅子から腰を浮かした。
「カット!」
ルイスが叫んだ瞬間、カメラがローズの背をかすめ、背凭れの後ろに落下した。
スタジオじゅうが、静まり返った。ローズの突然のくしゃみに大笑いしようとしたところ、とんでもないものが落ちてきた。笑い顔が、突然の恐怖に固まった。
「ひぃいいい!」
盛大な音が背後にし、自分の置かれた状況を把握するや、ローズは地ベタに座り込み、悲鳴を上げた。
「ライトが落ちた!」
「ローズ、大丈夫か? 怪我はないか!」
ルイスが側に駆け寄り、すぐに天井を見上げた。ドリスも慌てて、天井を見る。バーニーの姿は、なかった。
上手く逃げおおせたはいいけれど。とんだ大失敗だ!
ローズはこのときとばかりに、大袈裟に泣き喚き、ルイスに縋っていた。
「ルイス、怖い、怖いわ! この撮影隊は呪われているわよ!」
呪われている、か。確かにローズの言う通りだ。マネージャーのキャロルが死に、共演者のトニーまで死んだ。
悪魔がスタジオに取り憑いているなら、次は主役のローズかドリスを狙うだろう。
ルイスがローズを抱き締め、背中を撫でて、懸命に宥めていた。
「大丈夫だよ、ローズ。こんなこと、百万回に一回、あるかないかだ。きっと、カメラを吊していた金属のボルトが錆びていたんだろう」
ローズの興奮は、ルイスが宥めた程度で治まりはしなかった。ルイスは一度さっと立ち上がり、皆に向かって声を上げた。
「しばらく休憩だ! 大道具は、すぐに壊れたライトを回収してくれ。ガラスの破片で、キャストが怪我すると大変だから」
「はい!」と元気よく声を上げ、バーニーがモップを持って駆けてきた。無事に一階に辿り着いたようだ。
バーニーは申し訳なさそうな視線をちらちらと、ドリスに投げた。ドリスは、視線を外し、バーニーを無視した。
――使えない男ね! そんなにちらちらと、こちらに申し訳ないような視線を向けないでよ!
ドリスは決して、ローズ殺害を頼んだわけではない。この男が早とちりをして、勝手にローズの頭上にライトを落下させた。
それに、残念ながら未遂に終わった。この男が警察に真相を告白する展開には、ならないだろう。何より、自分が犯罪者となるわけだから。
これでもう、落下事故は起こせない。一度なら事故で済ませられるが、二度、三度と起きれば、誰もが作為と気づく。
トニーもキャロルもいない今、ドリスはたった一人で、ローズ殺害計画を立てなければならない。
――なんてことなの! いったい他にどうやって、ローズを殺せばいいの?
しかし、万策が尽きたわけでもなかった。
4
撮影は一日、休みになった。
ルイスの指示で、セットが徹底的に点検された。カメラが二度と落ちてこないよう、セットで二度と足を踏み外すことがないよう、念入りに確認が行われた。
ローズは恐怖に震えた。これは、二人の人間を殺した罰なのだろうか?
いいや、そんなわけはない。キャロルの死はローズが望んだものではなかったし、トニー殺害に関しても、事故と片付けられた。誰も、ローズを疑っていない。どの作為も、ローズの思い通りにはならなかった。
だから、天がローズを罰するわけはない!
――負けられないわよ。姉さんを地獄に突き落とすまでは!
さて、今後どうしたものか。どうしたら、ドリスを死に追い込めるのか?
そこで気づいたのが、ドリスが常用している薬の存在だった。ドリスは一度に四つも五つも、錠剤を飲んでいる。これらの薬の中に、毒性のあるものを紛れ込ませておけないものだろうか。
ここは、積極性あるのみ! ローズは、ついでの振りをして、ドリスの楽屋のドアをノックした。
「誰?」
「私よ、姉さん」
しばし沈黙があったが、ドアがガチャリと開いた。クリスがホッとした表情で顔を出した。
「どうぞ、ローズ。ドリスはご機嫌斜めだけど、あなたなら慣れているでしょう」
ローズは、にっこり笑ってみせた。
「姉さんの操縦は私に任せて。怒りが収まるまで、どこかで時間を潰してらっしゃいよ」
「ありがたい! 頼みます!」
クリスはそのまま、そそくさと廊下に出て、走り去った。
これで邪魔者は、誰もいなくなった。ローズは、にんまり笑顔で、ドリスの楽屋に入った。
「姉さん、相変わらずクリスを虐めて楽しんでいるようね。悪い癖だわ」
ドリスはローズが現れても、大して驚いた顔をしなかった。
「能なしには、あれぐらい言わないと駄目なのよ。あなたはマネージャーに関しては、恵まれているから、羨ましいわ」
嫌味でも何でもなく、本音で言っているようだ。クリスに散々、当たり散らした後で、心が穏やかになっているのかもしれない。
これなら、次にローズが提案しようとしている策にも、乗ってきてくれるかもしれない。勝算があるわけではないが。五分五分といったところか。
ドリスがもし、ローズ同様、相手を陥れようと考えているのなら、きっと、話に乗る。
「ねえ、姉さん、ちょっとしたゲームをやらない?」
ドリスは意味がわからない様子で、ぽかんと口を開けた。
「何よ、それ? チェスでもやろうっていうの?」
「ううん、違うわ。今度の撮影で、ウィッグを取り替えっこしてみない? 姉さんがローズになり、私がドリスになるの。周りの反応は、きっと愉快だと思うわよ」
5
ローズの提案は、ドリスにとって、なかなかに魅力的なものだった。
――私がローズになれる? やりたい放題じゃないの。
ドリスとローズが同じウィッグを被れば、そっくりになる事実は、わかっていた。ローズの振りをして、楽屋に入り、いつも飲んでいるコーヒーにコカインを入れるなんて、簡単だ。
いや、もう、そんな生温い手は使っていられない。ローズの息の根を止める。他にもう道はない。
問題なのは、こんな異常な提案をしてきたローズの真意だ。何も考えず、おふざけで取り替えっこをしようなんて気は、欠片もないはずだ。
ただ、ここで「何を企んでいるの?」と尋ねたところで、警戒されこそすれ、いいことは何一つない。
馬鹿の振りをし、誘いに乗ろう。ローズの策略には、その後、しっかりと対処していけばいい。ドリスはローズの罠に落ちない自信があった。
「確かに、愉快そうだわね。でも、そんなことして、何の意味があるの?」
「のちのちになって、私たちのどちらかがオスカーを取ったら、話のネタになるでしょ。実は、あのとき映像に映っていたのは、私ではなくローズだったのよ、とかね」
私ではなく、ローズ……。オスカーを取る側の人間を、自分ではなく、ドリスにした点が、なんとも嫌らしいが、まあ、いいだろう。
「わかったわ、話に乗る。ウィッグは、いつチェンジするの」
「今すぐ、っていうのは、どう?」
撮影も終わり、後は帰るだけだ。つまり、明日の朝から、ドリスはローズに、ローズはドリスになる。悪くない。
ドリスは鏡の前のスタンドに載せられたウィッグを乱暴に掴み、ローズに手渡した。
「私の振りして、ヘマばかりするって腹なら、ご免だからね」
ローズはその場でブロンドのウィッグを脱ぎ、ドリスに差し出した。
「大丈夫よ。私がドリスになれば、姉さんの株は上がるわ。演技者として私のほうが断然上だもの。せいぜい怪しまれないよう、姉さん並の演技をするよう、注意するわ」
ドリスは鏡に向き直り、ローズのウィッグを被ってみた。
普段は似ているなんて感じたときはなかったが、顎のライン、鼻と口の位置と大きさなど、さすが姉妹だ。よく似ている。
見事に似非ローズの出来上がりだ。ドリスはローズに振り返って、微笑んだ。
「どう? あんたに見える?」
ローズが息を呑み、小さな声で呟いた。
「ええ、充分よ。とてもよく似ているわ」
ドリスはここで、あっさりとウィッグを脱いだ。
「じゃ、明日からね。楽屋はどうするの? 楽屋も取り替える?」
「……そうね。やるなら、徹底的にやりましょう。ルイスもクリスもマイケルも、新しい共演者のライアンも騙すの」
「鍵も交換しておきましょう」
ドリスはハンドバッグから、楽屋の鍵を取り出した。ローズも、服のポケットから鍵を抜き出した。互いの掌に、それぞれの楽屋の鍵が握られた。
勝利の鍵を手にした思いだった。ローズが何を企んでいようが、怖くはない。怖いぐらい、ドリスは自分のこれから以降の行動に自信があった。
――ローズ、明後日の朝の新聞は、あなたの死亡記事で埋め尽くしてあげるから。実際に目にすることができなくて、残念ね。
6
なんともあっさり、策に乗ってくれたものだ。ドリスの側も、ローズを陥れる策略を立てようと決めたのだろう。
条件を差し出した人間はローズだ。危険は承知の上だった。
一時でも、完全にドリスになることが大事だった。ドリスは撮影時に警戒するだろうが。実は撮影など、どうでもいい。
ドリスはブロンドの自分が気に入ったのか、鏡の前で右を向いたり、左を向いたり。やがて飽きると、ハンドバッグを持ち、立ち上がった。
「じゃ、私は帰るわ。安心して、このままルイスの車に同乗したりなんか、しないから」
心臓の鼓動が、どんどん激しくなる。この場をそのまま去ってくれるのなら、一日ぐらいルイスを貸し出してもいいくらいだ。
ドリスが出て行くと、すれ違いざまに、クリスが入ってきた。
「あれ、ローズ、もう帰っちゃうのかい?」
ドリスは声を出さず、手だけ振って、部屋を出て行った。
せっかくドリスに成り代われたのだから、気をつけなければ。ぺらぺらとお喋りして、ローズだと気づかれるわけには、断固いかない。
ローズは仏頂面を作り、クリスに命じた。
「クリス、薬!」
「え、あ、はい。あれ、でもまだ投薬の時間ではないですよ?」
「確認したいの。全部、見せて」
クリスは怖々といった様子で、ピルケースをローズに手渡した。
「確認が終わったら、テーブルに置いておくから、先に帰って」
ドリスはクリスが運転する車には絶対に乗らない。いつも一人で、新しく買ったコンバーチブルをぶっ飛ばす。
「わかりました。お先に失礼します」
クリスの姿が消えると、ローズはピルケースを開けた。中には白や青の錠剤が、まるでキャンディ売りの箱のように詰まっている。
ローズはハンドバッグから、茶色の紙袋を取り出した。中には、鼠捕りの餌に仕込む白い錠剤が入っている。
明日と明後日の分までは、丁寧に分類されている。あとはビニール袋に雑然と収まっていた。
本物の錠剤と、大きさは大して変わらない。錠剤タイプに、一定の大きさが決まっているのかは、わからない。きっと、長年の通例となっているのだろう。
ピルケースの白い錠剤を、一つ抜き、毒薬を代わりに仕込む。明日はローズがドリスになるから、明日の分には絶対に入れないよう気をつけて。
いつ、どれを何錠のペースで飲むのか、わからない。だが、いつか必ず毒薬を飲む。
就寝前に飲み、朝には冷たくなって発見されるかもしれない。楽屋で一息入れているときに口に入れ、助監督が呼びに来たときには息がなかった、なんて顛末かもしれない。
どれにしたって、わくわくするではないか。毒薬は一錠きりだから、ロシアン・ルーレットのようなものだ。でも、これらの作為は、明日の撮影でドリスが死なないときのための、保険のようなものだった。
ローズは約束した通り、ピルケースをテーブルに置き、立ち上がった。
鏡の前に立つと、ドリス・ハートの形をしたローズが映っていた。ローズは鏡に向かって、拳銃を構えるポーズを取った。
「バァン!」
7
ローズは赤毛のウィッグを被ったまま、第二十三スタジオの前まで来た。今日は終日点検だから、照明は落とされている。幸い、鍵は掛かっていない。
重たいドアを、そぉっと開ける。
「誰か、いる?」
念のためだったが、当然、答える声はしない。ローズは安堵して、ハンドバッグを大事に抱えながら、中央の照明を点けた。
明日の撮影で使われるセットは、一階の大きなスペースだ。ここで何台ものカメラを駆使して、姉妹の銃撃戦を撮影する。
「撮影用の小道具は、確か、この箱の中だわ」
大きな段ボールが置かれてあり、レプリカの拳銃が二丁、無造作に入れられていた。
はて、困った。ドリス用の、正確に言えば、明日ローズ当人が使う拳銃がどちらだか、これでは全然わからない。ローズが使う拳銃だけを本物にすり替え、撮影中の事故のせいにして、ドリスを撃ち殺す。
大道具が本物にこだわるあまり、本物の銃の弾丸だけ抜いているのは、よくある話だ。また、謎の拳銃暴発事件は、ハリウッドには昔から存在した。
ローズがドリスを撃ち殺したとしても、容疑は全く懸からない。なぜなら、ローズがドリスに、ドリスがローズに成り代わっているのだから。
逆に、ローズを殺害する目的で拳銃が本物に替わっていたと、警察は判断するはずだ。
こうなったら、大道具が作った振りをし、二つの箱を用意するべきだろう。
ローズはスタジオの隅に畳まれ、捨てられそうになっていた段ボールを二つ、組み立てた。一つには『ドリス・ハート用』と、もう一つに『ローズ・ヘスター用』と黒いフェルトペンで書いた。
ローズの箱に、レプリカの銃、台本、その他、よくローズが使用するマグカップを入れた。
ドリスの箱、つまり、明日、ローズが使う展開になる拳銃は、レプリカでは困る。ハンドバッグに入れたワルサーPPを取り出し、レプリカと取り替えた。
弾が入っているせいもあり、ずっしりと重い。これを扱う人間がドリス本人だったら、違和感に気づくだろうが、幸い明日の『ドリス・ハート』はローズが演じる。
他に衣服の埃を落とすブラシや、靴墨など、適当に入れておいた。最初から、ローズとドリスの品が分かれてさえいれば、中に他に何が入っていようが、大して関係ない。
問題は、いつ、弾を発射するか。こういう暴発事故は、だいたいがリハーサル中に起こる。リハーサルでなんともなければ、本番でだって、同じだからだ。
ただ、ローズはドリスが死に行く瞬間を、映像に収めたかった。骨肉の争いが、勝利に終わる瞬間を、何度だって、この目で見たい。
ルイスは映像にこだわりがある。本物の死が収められたフィルムを、絶対に破棄できないはずだ。
トッド家の映写室に入れば、いつだって禁断のフィルムが見られる。こんな、ぞくぞくする展開は、他に有り得ない。
また、リハーサルは、いろいろな動きを試す場でもある。ドリス以外の人間が死亡しては、お話にならない。
――明日は、リハーサルでは絶対に安全弁を外さないようにしなくちゃ。
ローズは拳銃に、口づけをすると、そっと、『ドリス・ハート用』の箱に収めた。
8
ハート家でドリスは、いつものように、夕食を摂った。ただ、どうでもよい話を能弁に捲し立て、母を心配させた。
自分でも、頭がぎらぎらしているのがわかる。とんでもない覚醒状態だった。
「何をそんなに興奮しているの、ドリス? ちゃんとお薬は飲んでる?」
「飲んでるってば。もう、ママは心配性ね」
それでもその夜、興奮で全く寝付けなかった。クリスより先に控え室を出たため、手元にピルケースはない。
ただ、ベッドサイドの抽斗に、セコナールは置いていた。それが、いつも通りの量を飲んでも、効きやしない。
――明日は、私の人生の中でも、一番の愉快な日になるわ。
このまま台所に降りて、一人で祝杯を上げたい気分だった。でも、我慢だ。ローズの死を見届けるまで。確実に邪魔臭い妹が消え去るまで……。
9
翌日、クリスはいつもより少し早く、迎えに来た。
「ピルケースを僕が持っていっちゃって、大丈夫でしたか?」
いつもなら、嫌味たらたらに虐めるところだが、今日のドリスは、いつになく機嫌が良かった。
「いいのよ。さっそく朝の分をちょうだい。凄い緊張状態なの。やっぱり、医師の決めた数は飲まないと、駄目よね」
クリスが青の錠剤を二つ、白い錠剤を一つ、ドリスに渡し、コップに水を入れて持ってきた。
こくりと呑み込む。喉の奥を、ほぐれながら、錠剤が通過する。成分が血液に吸収され、興奮した心が静まる。
「さ、行きましょう。今日はあなたが運転でいいわ」
クリスは驚いた顔で、ドリスを見た。
「い、いいんですか? いつも嫌がっているのに」
「いいのよ。寝不足なの。車の中で少し寝ていくわ」
大事な戦いを前に、無駄に神経をすり減らしたくないだけだった。助手席に収まると、すぅっと眠気が襲ってきた。
「着きましたよ」
クリスの声で起こされた。ここからが、注意深くいかなくてはならない。なんとかクリスからいったん離れ、ブロンドのウィッグを被り、ローズの楽屋へ向かう。
「車、駐車場に入れてきて。私は先に楽屋に入っているから」
「了解しました。傷つけないよう気をつけます!」
クリスはさして疑問に思う様子もなく、ドリスを降ろし、そろそろと駐車場へ向かっていった。
ドリスは撮影所の建物内に入ると、すぐ近くのトイレに駆け込んだ。幸い、他に誰もいない。おかげで鏡の前でゆっくりとローズに変身することができた。
メイキャップは後で、ローズの新しいマネージャーのエヴァに任せればよい。エヴァはキャロルが仕込んだヘアメイクでもある。久しぶりに安心して任せられる。
ローズがいなくなったら、エヴァをマネージャーにしよう。
ドリスのものなら何でも欲しがり、持って行こうとする妹とも、今日でお別れだ。
ローズを意識し、腰を振りながら歩き、控え室の鍵を開ける。衣装を替えているところに、エヴァが駆け込んできた。
「遅くなって済みません!」
ドリスは女優魂で、ローズと同じ、つんとした笑顔を作った。
「いいのよ。今日の私は、とびきり機嫌がいいから」
10
ドリスがメイクを終え、廊下を歩いていると、スタジオの手前でローズと会った。ドリスは茶目っ気たっぷりに声を掛けた。
「おはよう、姉さん。今日は、よろしくね」
ローズは、ハッと顔を上げたが、すぐに状況を悟ったようだ。自分が今日は、姉、である事実を。
「あら、おはよう、ローズ。今日は一段と綺麗だこと」
ローズが先にスタジオに入る。横に付き従っていたエヴァが、気味悪そうに呟く。
「随分、ご機嫌がよさそう。なんだか気味が悪いわ」
こうやって普段から、ドリスの悪口を言っているわけか。ローズの死後にドリスのマネージャーにする案は、考え直したほうがいいだろうか。
「ご機嫌がいいに越したことないでしょ。今日は撮影のクライマックスなんだから」
「それもそうですね」
二人も続いて、スタジオに入った。
ルイスがセットの中央に立ち、大道具たちにあれこれ指示していた。ドリスの登場に、にこやかな笑みを向けた。
「やあ、ローズ。珍しくドリスと一緒に登場だね。さっそく立ち位置を決めたから、こっちに来てくれ」
ドリスは笑顔で頷くと、セットの中に入った。
ドリスの身形をしたローズは……まだ拳銃を持っていない。
「まず、ローズはここ。カメラが右横からアップで狙う。ドリスは反対側の、こっちだ。カメラがパンして、アップを捉える。その間、もう一つのカメラが、二人の全体像を撮り続ける。それだけじゃないぞ。今回は天井からもカメラが狙う。それだけ、二人の動きに工夫が必要になる」
ここでローズらしく、ルイスの言葉に茶茶を入れる。
「まあまあ、そんなあちらこちらから撮影されているんじゃ、悪さは一切できないわね」
ローズがドリスに、ドリスがローズに成り代わっていること自体、大きな悪ふざけなのだが。
「そういうことだ。僕が納得いくまで、何度でも撮り直すから、覚悟しておいてくれよ」
ローズが指で拳銃の形を作り、射撃するポーズを取った。
「とびきり美しく撮影してよ、ルイス」
「はいはい、わかりましたよ、お義姉さん。今回の映画では、二人とも甲乙付けがたいです。美しさにおいても、演技力においてもね。二人とも、拳銃を実際に持ってみてください」
ドリスは何の迷いもなく、『ローズ・ヘスター用』と書かれた段ボールから、小道具の拳銃を取り出した。ローズも同様に、『ドリス・ハート用』から拳銃を取り出す。
ルイスに指示された位置取りで、リハーサルが始まった。
「ローズ、そこで右に回り込め。お義姉さん、ローズに合わせて、こっちのソファまで移動してください。そうです。そこで発砲!」
「バァン!」
「そう! すかさずローズ、発砲!」
「バン、バァン!」
「ローズ、顔が少し堅いな。本物の拳銃じゃないんだから、もっとリラックスして、役にのめり込んでくれ」
「わかったわ」
こうして、一連のリハーサルが終わった。次は、本番。最初で最後の、一本勝負。
11
――このときを待っていたのよ。姉さん、地獄に堕ちるがいい!
ずっしりと重い本物の拳銃を、軽々と扱うのは努力が要った。普段、拳銃など所持していないから、どうしても緊張した。
二人は所定の位置に就いた。ルイスが大きな声を上げる。
「よおい、アクション!」
ドリスが先に、拳銃を構える。
「ペギー、よくも私の恋人を殺したわね!」
ローズが悠然と笑い、背中に回した手を手前に持って行き、拳銃を構えた。
「マギー、仲良くあの世で、ピーターと暮らしなさい」
「うるさい!」
ドリス、発砲。火薬の音が、パンと鳴る。ローズは右に倒れながら、拳銃の引き金を引く。
――さようなら、姉さん。永遠に――
次の瞬間、ローズが手にしていたワルサーPPが暴発した。弾は前方に発射されず、拳銃自体が凶器となり、手にしていたローズを襲った。
悲鳴を上げる暇もなかった……。
12
当初のローズの予想に反して、翌日の新聞の見出しを飾った名前は、ローズ・ヘスターのほうだった。
「青い薔薇、撮影中に拳銃が暴発! 壮絶なる事故死!」
「ドリス殺害計画の犠牲か? ローズはドリスの銃を握った」
ローズとドリスが成り代わっていた事実は、さまざまな疑惑を生んだ。ローズはドリスと間違えられ、殺害されたのではないか、と。
では、なぜ、ドリスは殺されそうになったのか? そこがさっぱりわからない。
まさか、ローズが殺害を謀り、逆に爆死したなど、誰も思わなかった。
ローズのウィッグを受け取った日、ドリスはいったん、ローズの控え室に向かった。
しかし、途中で気が変わった。そのときはまだ、精神的にローズになり切る自信がなかった。そこでスタジオに足を向けた。
ローズがドリスのウィッグを被ったまま、スタジオから出てくる姿を発見した。ドリスはそこで、全てを知った。なぜ、ローズがドリスに成り代わりたかったのか。
ローズが去ったスタジオに入り、『ドリス・ハート用』の箱に入っている拳銃が本物だと気づいた。さすがにそのとき、ドリスも顔から血の気が抜けた。
「あの子も同じく、私を殺す気なんだわ」
ドリスも拳銃で対抗したいところだったが、本物の拳銃を用意などしていなかった。それに、撃ち合いになったら、周囲に被害者も出る。ドリスだって、死の危険を免れるわけではない。
そこでドリスも策を取った。本物の銃の銃口に詰め物をし、弾の行き場をなくした。
本番で引き金を引いたローズは、策に溺れて爆死した。壮絶な死に様だった。
ドリスは警察の事情聴取に、涙を浮かべて応えた。
「あの日、突然、二人の役を取り替えようと決めたんです。ああ、ローズは私の代わりに死んだんだわ! あの拳銃は、私が使うはずのものだったんだもの!」
警察も観衆も、ドリスに同情した。ドリスは徹底して、ローズが身代わりに死んだと、自分を責めた。
しばらくは、ドリスに警察の警護が就いた。映画の企画は、最後の最後で頓挫した。まさか、ローズの爆死シーンをアメリカじゅうの映画館で上映はできない。
ローズの葬式で、ドリスは身も世もなく泣き喚いた。
「ごめんなさい、ローズ! 私のせい、全て、私のせいだわ!」
ルイスが気丈にドリスを支えた。
「お義姉さんの責任ではありませんよ。全ては、こんな策謀をした殺人犯の責任です」
以来、ドリスとルイスが寄り添う姿が、あちこちの新聞を賑わした。
「ルイスには、もう一人の薔薇が残されている」
「いや、そもそも、ルイスは白い薔薇の大ファンだったと噂だぞ」
そんな世間の噂話も、ドリスは軽く受け流すことができた。なんといっても、生きている人間が勝者だ。
ハート家のドリスの部屋に、ルイスが訪れた。ドリスは熱く、ルイスを見詰めた。ルイスの目も同じく、熱い情熱を語っていた。
ルイスがベッドの側までゆっくり歩いていき、ドリスの唇にキスをした。甘く蕩けるような口づけ。この唇を、今までローズは独り占めしてきたのか。
「具合はどうだい? あまり眠れないと聞くが」
眠れないどころか、ローズの死後、ようやくドリスは熟睡できるようになった。もう邪魔者はいない。あとは、今度こそオスカーを取る企画があればいい。
でもルイスの前では、か弱く、支えが必要な女を演じる。
「ええ、そうなの。お医者さまから処方された薬を飲んで、なんとかやっているわ。こんな弱い女、あなたはお嫌いかしら?」
「お義姉さんは弱くなんか、ありませんよ。それより、映画の企画の話をしませんか? ずっとドリス・ハート主演で温めていた脚本があるんです」
「まあ、そんな脚本があるの? 是非、読んでみたいわ」
そこへ、ノックの音がした。新しくマネージャーになったエヴァが入ってきた。
「ドリス、お薬の時間です」
「そうだったわね」
薬の管理も、エヴァのほうが安心できた。興奮を落ち着かせてくれる白い錠剤二粒と、体の痙攣を抑える青い錠剤一粒。
そろそろ手持ちの薬もなくなる。医者に行って、また処方してもらわなければ。
「白い錠剤、それが最後なの?」
「はい。明日、医師の予約が入っていますから、薬が切れることはありません。安心してください」
「わかったわ」
エヴァがドリスに錠剤を渡し、コップの水を勧める。
「ルイス、あなたがいてくれてよかった。今年こそは、私、オスカーを取りたいの」
「大丈夫。この企画なら、君は今度こそ、舞台の上に立てるよ」
ドリスはルイスに妖艶に微笑むと、薬を水と一緒に呑み込んだ……。
完




