三人
そして、再びの鐘が鳴る。
「琅―、来てやったぞーって、また客いないじゃねーか、まったくこれじ……」
「いらっしゃい、暁也。今日はいらっしゃるから、少し静かに」
「……へぇ、珍しいこともあるもんだ……お客さんよくこんな辛気臭い店に入ったなあ」
やたら馴れ馴れしく話しかけてきながら、一人の男が店に入ってきた。断りもなく浅葱の隣に座り込み、肩にかけていた黒いショルダーバッグをカウンターの端に置く。
何気なさを装いながら、ちらっと暁也を観察するが、これはまた琅や海生とはまったく違う人種だった。よくもこれで友達関係が続くものだと感心するが、逆にこれくらいのほうが上手くゆくのかもしれない。
「暁也」
「なんだ海生も来てたのか、相変わらずセクシーな女だなまったく。そう思わないか、お客さんも」
「ええ? 嗚呼、まあ……確かに……」
「そう思うだろ? 海生はここらじゃ滅多にお目にかかれないほどの美女だっていうのに、男を見る目がなくてなー」
暁也のその発言に海生は睨みで応酬する。その態度に暁也は肩を竦めてみせて、溜息をつく。
「それにあの勝気な性格じゃあなあ……お客さんもそう……って、お客さんどこかで見たことがある顔だな」
唐突に顔を覗き込まれる。条件反射で思わず仰け反る体勢になるが、見た目と言動とは裏腹の鋭い眼力に、無駄に心拍数が上がった。
「その顔、は……」
「刑事さん、だよ」
『刑事』という言葉を琅はあえて強調したように思えた。涼しい顔をして、カップを回収する様は実に見事だとしか言いようがなかったが。
「刑事……?」
刑事と聞いて、ほとんど変化をもたらさなかった二人とは違って、暁也はそれまでにない感情を顕にした。誰ともすぐに打ち解けるだろうその天性の明るさは消え、あからさまに浅葱に対して敵意を向けた。
「俺は昔から警察ってもんには虫唾が走るんだ。悪いがこの店から出ていってくれ」
「暁也、お客様だよ」
「客も糞もあるか! あいつらは何もしてくれやしなかった。その結果があれだ!」
拳で強くカウンターを打つ。
暁也の怒りはおそらくそれだけでは収まらないのだろうと思う。二十年の時が経っても、変わらずに燻り続ける憎悪の焔。そして、それを消そうともしない二人。
「俺たちはもう、充分苦しんだ……それなのに、今さら何をするつもりだよ……結局は何もできずにあいつを……!」
「暁也」
海生の時と同じように、再び琅が止めた。すべてを聞かせるつもりはまだないのか、琅自身は未だ揺れていない。
「……君たちのその感情を私が受け止めるには、明かされていないことが多過ぎる。もう、聞かせてくれないか。――すべてを」
「聞いてどうするつもりですか」
一切視線を合わせずに琅が訊ねる。その問いの答えで何かが決まると瞬間的に思ったのは、もはや勘に近い。
「……失われた時はもう戻らない。それにも拘らず、真実を暴くことに意味はありますか」
「それが我々警察の仕事だ」
簡潔に言い切った浅葱を見放すように、いっそ薄ら笑いさえ浮かべて、琅は浅葱に背を向けようとした。存外に期待外れだったといわんばかりに。
「と――」
言葉を続けようとした浅葱を琅は見ようとはしなかった。それでも浅葱は言葉を告げた。
「頭の固いキャリア連中は何も考えずに、そう答えるだろうな。だが私は現場上がりでね、難しいことはよくわからない。だから、この年になってもこうやって雨の日まで現場を駆けずり回る羽目になっているのだが……」
「実際、今日は珈琲しか飲んでいませんよ」
面白そうに琅は笑った。だが、まだ浅葱を見はしない。
「それは見逃してくれ。君の淹れる珈琲は存外に美味いんだ」
「刑事さんのお口にあったようで、光栄です」
暁也の分の珈琲を用意しながら、琅は大仰に手を胸に当てた。芝居がかったその態度にも、琅の感情は感じられない。
そこまでして必死に隠そうとしている何かは、おそらく希望に満ちた何かではない。小学生だった彼らを変えてしまうほどの――何か。たとえ、それが明るみになったとしても、浅葱に理解できるものではないのかもしれない。だが、それでもいいと思う。この世の真実が、すべての人に理解されることなどありはしないのだから。
「だから、私はただ聞いているだけさ。……君たちの生き筋、をね」
琅の瞳が、やっと自分に向いた。
*
一九九五年八月三日。
三十度を超える猛暑日の中、警察署内も連日の暑さで気力を奪われた者ばかりだった。受付に座っていた朝倉という若い新人婦警も例に漏れず、その一人だった。
新人というだけで何かと雑用を押しつけられるのは日常のことだが、まさか受付までやらされるとは思っていなかった。ここは冷房の調子が悪く、座っているだけでも汗が染み出てくる最悪の場所というだけあって、案の定新人の自分にお鉢が回ってきたのだった。
朝倉はハンカチで汗を幾度となく拭き取りながら、時計と睨めっこをしていた。あと五分もすれば終業の時刻であり、このまま何事もなく時が過ぎ去ることを朝倉は一心に願っていた。
その時、不意に視線を感じて時計から目を離すと、入り口の近くに子どもが立っているのが見えた。小学六年生ぐらいだろうか、じっとこちらを見つめ、立ち尽くしている。朝倉は早く仕事が終わらないかと必死で時計を見ていたのがバレたのかと思い、苦し紛れに微笑んだ。だが、子どもはそれに対してにこりともせず、こちらに早歩きで近づいてくると、手に持っていた紙切れを強引に押しつけ、そのまま逃げるように走り出してしまった。
「ちょっと!」
朝倉が止めるのも聞かずに、子どもは警察署内から飛び出していった。
何がなんだかよくわからなかったが、とりあえず子どもに渡された紙切れを広げると、そこには『タスケテ』と書かれていた。
「タスケテ……? なんだそりゃ、また悪戯か?」
この警察署は小学校の近くにあるということもあって、月に何件か子どもたちによる悪戯が起きていた。何度注意しても収まらないため、微笑ましい子どもの悪戯としてある程度は放置されている。
それゆえに、どうせいつもの悪戯だと深くは考えなかった。丁度終業のベルも鳴ったため、朝倉は紙切れをくしゃくしゃに丸めて、屑籠に放り投げた。そして、そのことを思い出すことも二度となかった。
*
一九九五年八月十四日。
花火も底を尽き、喉が渇いた琅は飲み物を探しに小屋へ戻った。暁也が背負ってきた巨大なリュックを漁っていると、なんの前触れもなく背中を強打される。
「痛っ!! って、アキかよ!」
「ろう! お前、俺のおやつを食べようとしてたろ!」
「誰がするかよ! 飲み物を探してただけだよ。というかまだ食べるつもりかよ」
途端に安心したように笑った暁也に溜息をつく。どれだけ底なしの胃袋をしているのだ。
「なんだ、てっきり腹減ったのかと」
「アキと一緒にするな!」
「あれー二人、ここにいたの?」
「しい、聞いてよ。アキに強打されたんだけど」
「ろうがまた馬鹿やったから?」
その答えに暁也は隣で大爆笑を始めた。焦って弁解するように顔の前で手をぶんぶんと振る。
「違うよ! しいまでアキと一緒にしないでくれよー」
未だに笑い続ける暁也に若干怒りを覚え、手に持っていたお茶のペットボトルを開けて、暁也にぶちまける。
「うわ! なにすんだ!」
「アキなんてもう知らない」
ぎゃんぎゃんと喚く暁也を無視して、ペットボトルに少し残ったお茶を飲もうとしたとき、不意にそれに気づく。
「これ何?」
腕の付け根に赤い痕のようなものがついていた。傷のようにも見えず、見たことのないそれに皆一様に首を捻る。
「……別に、なんでもないよ」
「なんでもないことはないだ……」
「ろうたちも片付けるの手伝ってよね!」
海生が、ぶつぶつと文句を言いながら、花火の燃え屑を一杯に入れたバケツを小屋に運んできた。それを小屋の隅に置くと、仁王立ちをして暁也の前に立つ。
「アキのお母さんから、夜に食べさせるなって言われてるんだからね! 食べ物は没収」
「はっ?! そんなの聞いてないよ、母ちゃん!」
「はい、残念―」
無慈悲にも海生は暁也のリュックを取り上げ、慎太郎に放り投げた。
「ちゃんと管理しててね」
「了解」
にやりと笑って慎太郎はリュックを持ったまま小屋を出ていった。その後、暁也の悲痛な叫び声に掻き消されて、琅は先ほどの出来事を追及しようとしたことをいつしか忘れてしまった。
*
「しかし、あの時ちゃんと追及していればよかったのかもしれません。そうすればきっと……今とは違う未来があったのでしょう」
遠くに雨の音が響く静かな空間で、琅だけが語り続けている。海生も暁也も黙ったままで、時折唇を噛みしめ、何かを紛らわせるようにカップに口をつけるだけだった。
「その痕が、この写真に写っているものか」
「ええ……切り傷でも痣でもなく、また当時の私はそれを知る由もありませんでしたが」
「当時はということは、今は知っているということか」
「ええ、否定はしませんよ」
にっこりと微笑んだ琅は一度口を閉じた。その間に浅葱は考え込む。
写真でしか見たことのない自分には想像するしかないが、あの男の話から考えるに、その痕の原因は確かに傷つけられたものではない。――いや、ある観点から見れば、傷を負ったことには変わりないのだろうが。
「それは……一つだけではないな?」
「――その時は」
琅の答えに再び考える。
その時はということは、その後に赤い痕が増えたということだ。だが、それが事実だとするとなお一層あの男の話が現実味を帯びてくる。錯乱していたから、誤った情報である可能性もあったが、それがこの事件の糸口になるのはもう間違いない。
そうやって考え込んでいると、くすくすという笑い声が聞こえてきた。不審に思い顔を上げると、琅が笑っていた。何一つ笑っていない瞳で。
「私の言葉一つから、その先にある糸を手繰り寄せようとするその手腕は見事ですね。あの頃とは似ても似つかない……そうですよね、私の聴取の時に同席していた――橘、浅葱さん?」
目を見開く。知らぬ間に背後に回り込まれて、気づいた時にはすでに背に銃口を突きつけられていたかのような緊迫感。浅葱の背に冷たい汗が走る。
琅が覚えているとは思わなかった。あの時の私は名乗りもしなかったし、知らない人から見ればたくさんいる警察官の一人に過ぎない。
「私を知っていたのか……?」
「子どもを舐めてかかるからそうなのよ」
鼻で笑いながら、珍しく海生が答える。嘲笑を浮かべたその瞳は、どこまでも冷酷だった。
「子どもは意外に見ているものよ。たとえ、下っ端丸出しの刑事だったとしても、役に立つのならば観察し、目に焼きつける」
「……なんの、ために?」
「決まってるさ。憎いからだよ」
隣に座っている暁也を振り返る。長年刑事をやってきたが、刑事相手にここまで明確な嫌悪をぶつける奴もそうはいない。
「憎いから覚える。いつの日か役に立つその時まで、決して忘れないように」
今や海生も自らの感情を暁也ほどではないにしろ、外に出しつつあった。獰猛な獣のような鋭さを瞳の奥に隠しながら、浅葱を食い殺してしまおうとするかのように。そして、それを遮ることも琅はもはやしなかった。
「君たちが警察を憎むのは、警察が事件の真相を最後まで捜査しなかったからなのか?」
浅葱のその言葉に、海生は盛大に笑い出した。そして頬杖をしたまま、浅葱を射殺すかの如く睨みつける。
「己の罪すら知らないとは、なんて滑稽な男。……私たちは二十年間、それを忘れたことなどなかったというのに」
海生が挑戦的な瞳のまま琅を見上げる。
「琅。本当にいいの?」
――この人で。
海生の問いに続く言葉が聞こえたような気がした。
琅は腕を組んで、自分を見ている。すべてを見透かされそうなその瞳はどこまでも黒かった。あの時と同じ――闇を孕んだ黒。
二十年経った今、再びその瞳と対峙することになろうとは、あの時の自分は思いもよらなかった。だが、今なら少しわかるような気がした。すべてを失った者の瞳を見るのは、これが初めてではない。
自分は無力な人間だ。偉そうに高説を垂れたところで、何も救うことはできない。ゆえに、浅葱はただ琅を見つめ返していた。ただ真っ直ぐに、ただひたすらに真摯に。
「……あなたである必要は、きっとなかったでしょう」
琅は、静かに口を開いた。浅葱の瞳を囚えたまま、静寂の闇に引き摺り込むように。
「しかし、あなたは今日ここに訪れた。誰からも忘れ去られるはずであった、あの夏の訪れのように……あなたの言葉を借りれば、それは必然という――運命」
琅はプレーヤーの前に立ち、ジャズを止めた。その途端に、異様なほどの静寂が店内に立ち込めるが、外では雨が変わらずに降り続けている。その哀しげな音が満ち満ちて、今にも溺れてしまいそうなほどの息苦しさを感じさせる。
「私たちの思いはただ、一つです」
前で縛っていたエプロンを外し、琅は空いていた椅子に放り投げた。それが、今まで『懐古館』の店主という仮面を被っていた琅が、本当の意味で自らを現した瞬間だった。
「守る、ために」
*
一九九五年一月三十日。
「いや……やめ、て……」
暗闇の中で、大きな手が自分に触れる。どうしようもない恐怖の中で、身体は大きく震え始める。
「大丈夫だ、何も怖がることはない」
いつになく優しげな声が悪魔の囁きにしか聞こえない。
どうして、こんな目に合わなければならないのだろうか。どうして、自分が。
何か悪いことを自分はしてしまったのだろうか。だから、神様はこんな恐怖を与えたのだろうか。だから、誰も助けてはくれないのだろうか。ねえ――どうして。
誰も答えてはくれない問いかけが、闇に弾けては溶けてゆく。絶望に支配された瞳は、ただ闇だけを映し、空に輝いているはずの月すら映り得ない。どうして、どうして。ただ、それだけを何度も繰り返す。
「ろう……」
その日から、光は永遠に失われてしまった。
*
唐突に鐘が鳴る。
一層の雨音を呼び込んだ先を見れば、一人の青年が立っていた。七分丈の紺色のシャツに白いパンツを身にまとったその彼が、河野慎太郎であることを理解するのは容易い。立ち尽くしている慎太郎とは正反対に、琅はただ微笑んでいた。
「これであの日、あの場所にいたすべての人物が揃ったようですね」
時計が、十九時を告げようとしていた。