二人
女が何かを頼む前に、琅は壁に作りつけられている棚からティーセットを出し、カウンターの下から銀色の入れ物を取り出した。珈琲ではなく紅茶なのか、銀色の入れ物から掬ったのは茶色い茶葉で、琥珀色の美しい液体が白いティーカップに丁寧に注がれてゆく。
「海生」
名だけを呼んで、出来上がったそれを女の前に出す。女は濡れた髪を片方に流してから、それを受け取った。
「もしや、君が……」
驚いてうっかり声を上げると、怪訝そうに見つめられた。
あまり面影はない。女の子は変わるものだと誰かが言っていたような気がする。気の強そうな瞳と日に焼けた肌、健康的な肢体がすらりと伸び、一言でいえばかなり魅力的な女であった。
「海生、刑事さんだよ」
海生の視線が微かに琅のほうを向く。だが、それ以上は然したる反応も見せず、紅茶に口をつけた。琅よりは完璧ではないが、どうやら琅と似た人種らしい。
「……どうも」
素気ない言葉を吐き、再びティーカップに口をつける。ネイルもされていない自然な指先が絡む取っ手が妙に艶かしい。
琅とは正反対の空気をまとっているが、この二人の本質はよく似ているのだと、直感的に悟る。
「あの時のことを調べているんだって」
何気なく投げかけた琅の言葉に、海生はもう一度こちらを見た。
今さら何? とその瞳はありありと語っているが、その真意に気づきながらも浅葱は違うことを口にした。
「君が二階堂海生ちゃん?」
ティーカップがソーサーに戻される。小さな物音が妙に響いて、心臓がどきりとした。
「ええ」
あまりにも短い答えに、身構えていた自分がどことなく気恥ずかしくなる。それを紛らわせるために珈琲を一口啜ってから、もう一度口火を切る。
「今でも君たちは会うのかい?」
「私が店を出したのは、半分はそれのためのようなものですから」
海生に問いかけたつもりが、飄々と答えたのは琅だった。応酬のつもりであとの半分は? と聞こうとしたがやめた。どうせ、はぐらかされるに違いない。
「海生ち……海生さんは、今は何を?」
海生ちゃんというには、その雰囲気があまりにも似合わず、慌てて言い換える。
「……それ、答える必要があるんですか?」
こちらを見ることもなく、酷く冷徹な声が響く。琅よりもあからさまな拒絶に、どことなく違和感を覚える。
「すみません……愛想がなくて。海生は、ダイビングのインストラクターをやっているんですよ」
よそよそしい笑みを浮かべた琅の視線が、一瞬だけ海生を見た。それの意図するものが、牽制のように見えたのは気のせいだったのかはわからない。だが、責めるならここだと己の勘が言っていた。
「海生さんは、あの日琅君と同じように、泣くことをしなかった。それは……知っていたからかい」
海生の視線が瞬時に動く。そして、何事もなかったかのように戻したそれで、浅葱は気づいた。
――その『何か』を、海生が知っていたことを。そして、未だに隙を見せない柔らかい顔立ちをしたこの青年も。
*
中々進まない宿題に嫌気が差し始めた頃には、暁也の姿はなかった。どうせ、腹が減って家に帰ったのだろうと思い、ごろりと横になる。ふと脇に視線をやると、埃で曇った窓から夕日が顔を出していた。やけに色鮮やかなそれに、反射的に飛び起きる。だが、その無計画な行動のせいで、テーブルの天板にしこたま足をぶつけた。
「痛ってえ!」
「わっ! びっくり……って、何してんのよ」
「足ぶつけ……」
「あー! ろう、また寝ようとしてたんだろ!」
「いやっ、違うって……」
「というか、全然進んでないじゃないー!」
ぎゃいぎゃいと言い募られて、琅もふて腐れる。これでも頑張ろうとしたのだと言いたいが、進捗状況を見れば大きく出れない。
「だって、なんかいいの見つからないしさーあっ、そうだ!」
琅は唐突に立ち上がり、脱ぎ捨てたままになっている靴に飛びついた。
「ろう? 何やってんの?」
「いいから! 皆、外に出ろ!」
「なんかあったのか?」
「いいから!」
怪訝そうな顔をしている海生の手を引っ張って、無理やり立たせる。
「ちょっと待って! 今、靴履くから」
「早く!」
妙に焦らせる琅に、仕方なくそれぞれも靴を履き始める。一番初めに終わった海生をたまらず外に連れ出して、それが一番よく見える小屋の裏側を目指す。
そこは数十メートルくらいの崖になっていて転落防止用の錆びた柵がある。ここを遊び場にするとき、暁也の父親が急ごしらえで作ってくれたそれも、今は年月が経ち白の塗装よりも錆びが主役に近い。暑さが和らいだ頃に直そうと言っていたが、今年はまだまだ残暑が厳しいため、しばらくこのままだろう。
「うわ、きれー」
海生がびっくりして、口を開けたまま立ち尽くしている。それを見て威張るように、両手を腰に当てて胸を張った。
「だろ。さっき、窓から見えたんだ」
「ろうが焦らせただけあるなー」
隣に立った慎太郎もしみじみと呟く。
「でも、ろうの柄じゃないけどね」
「素直にきれいって驚いててよ、しいも」
「だって、ろうだからしょうがない」
慎太郎が同情するようにぽんと肩に手を乗せた。それを嫌な顔をして払い落とす。
「お前なあ……」
「はいはい、素直に観賞しましょー」
ぶつぶつと文句を言いながらも、その言葉に素直に従うことにした。それほどに、美しい夕日だったのだ。
緋色と紺碧が混ざり合った空を背景に金色の太陽が悠然と世界に終わりを告げる。まさにそのすべてが見事な調和を生み出し、人がどれほどちっぽけな存在であるかを思い知らす。
「……怖いくらいにきれいだな」
隣からシャッターを押す音が聞こえて、はっと振り返る。慣れた手つきでカメラを構える暁也がいて、写真を撮る時だけにしか見せない真剣な表情をしていた。
「前に父ちゃんが言ってた。こういうのを逢魔が時って言うんだって」
「逢魔が時?」
「お化けとかに会っちゃったり、人の心を惑わすんだってさ……何も、起こらなきゃいいけど」
もう一度、夕日に視線を戻す。その話を聞いた後では、先ほどは美しいと思った夕日もなぜか怖かった。
美しさの中に潜む何かが人を惑わす。否定したいにも拘らず、否応なく納得させられてしまいそうになるその何かは、おそらく琅だけではなくこの場にいる全員がその時感じていたと思う。
「まっ、そんな話は置いといて、花火でもしようぜ!」
「は、花火?!」
「なんか、皆元気失くしちゃったし」
「アキが変なこと言ったからね」
「皆の分の夕飯、母ちゃん作ってくれたし」
「アキのお母さん優しいな……」
「俺の最強父ちゃんが丁度森に泊まる予定だったから、熊に襲われても問題ないし」
この森、熊いないだろと、突っ込もうとしたがやめた。暁也に何を言っても、おそらく今日花火をするのは決定事項だからだ。毎度暁也の発想は突拍子もないが、花火と聞いてうずうずしてしまうのは、子どもの性だ。
「……まず、ご飯食べるか……」
「そうこないとな!!」
急にハイテンションになって、持ってきた荷物を漁り始めた暁也に、皆苦笑しながらも暁也に加勢することにした。
*
「あの時見た夕日の美しさは、今でも忘れられません。なぜなら……逢魔が時は、本当にやってきたのですから」
「君たちを惑わすために?」
「今一番惑わされているのは、刑事さんかもしれませんが」
薄い唇を歪ませて、琅は再び珈琲に口をつけた。
瞬時に落ちた沈黙の中で、次の言葉を探していた浅葱を海生が止める。あえて強く置かれたカップの音が琅の作り出していた生ぬるい空気を壊す。
「いつまでそんなくだらない思い出話をするつもり? 感傷に浸るだけなら、私は帰るわ」
組んでいた足を解き、海生が立ち上がった。それを琅はいたって笑顔のまま抑えようとする。
「海生、失礼だよ」
だが、その琅の態度が気に入らなかったのか、海生は声を荒げた。
「琅も馬鹿じゃないの? 今さら、のこのことやってきた刑事に話すなんて……警察が無力なせいであの――」
「海生」
酷く冷たい声。そのあまりの冷たさに海生も驚いたのか、咄嗟に言葉を詰まらせる。琅がまっすぐに海生の瞳を捕らえ、興奮した感情を宥めてゆく。
「海生、座って」
言葉のままに椅子にすとんと座る。だが、まだ感情が高ぶっているのか、海生は唇を噛みしめ両手を強く握った。その間に冷たくなった紅茶の残りを下げ、琅は再び何事もなかったかのように淹れ始めた。
「申し訳ありません、お見苦しいところをお見せしましたね。海生は、こう見えて悪い奴じゃないんです。ただ、素直なだけで」
「……こう見えてが余計よ」
「別に構わない。そのほうが人間らしくていい」
それは、浅葱の本心だった。むしろ、感情を表してくれてよかったとさえ思っている。
今の海生の言葉で一つわかったのは、警察に対する感情が憎しみに近いものであり、それを抱いているのは琅だけではなく、海生もであること。だが、その先を聞こうにも琅に遮られた。隙を見せたようでいて、その実そうではない。まったく厄介な相手だ。
「私からすれば、海生さんよりも君のほうが歪に見える。感情の起伏がなさ過ぎる」
「元からそうなので今さら気にしたこともありませんが……もう、忘れてしまったのかもしれませんね」
「忘れた?」
新しい紅茶の爽やかな香りと琅の微笑みは似ていた。だが、その声に潜む何かは、それとは正反対であることを浅葱は知る。
「人の、情というものを」
どうしたら、そこまでの凄絶な覚悟を持てるだろうかと思った。
琅は歪だ。あの頃から何一つ変わらず、季節が流れても、琅の中の記憶は止まったまま。その現実との乖離がもはや引き返せないほど生じていると琅自身がわかっていても、琅は狂気の世界に身を投じ続けるのだろう。
「……忘れたはずはないだろう」
微笑を浮かべたままの琅を見上げる。一瞬だけ、琅の指が動いた気がしたのは気のせいだったのか。
「忘れられないからこそ、君はいつまでも過去にしがみつく。あの時、君たちが下した決断に今も囚われているから、君は生きることができない。……『今』という時間を」
「断定、とは……刑事さんも、思い切りますね」
もう一度、琅の指が動く。それは気のせいではないことを確信して、再び言葉を繋げる。
「君たちは知っていたね、この事実を」
浅葱は一枚の写真を彼らの前に出した。それを一目見て、琅のまとう空気の熱が変わった。
時は十八時前。雨は未だ降り続けている。
*
一九九五年八月二六日。
事件から二日が経ち、両親の了承を得て、子どもたちに話を聞くことになった。あの少年の瞳が忘れられなかった浅葱は、何気なさを装いながら先輩に同行し、記録係を買って出た。
殺風景な小部屋に案内され、椅子に座らされた少年はどこまでも冷静だった。事前に調書に目を通していたが、名前を佐野琅といい、地元の小学六年生で補導歴などもない、ごく普通の小学生としか読み取れなかった。
「大丈夫かい?」
いつになく優しげな声で話しかける先輩にぞっとしながらも、浅葱も琅の様子を盗み見ていた。
「昨日、何があったのか話してくれるかい?」
だが、琅はただ一点を見つめたまま、何も話そうとはしなかった。どうにか引き出そうと先輩は様々な質問を浴びせてゆくが、琅は一向に反応を示さない。さすがに先輩も苛立ってきたのがわかり、間に入るためにわざと盛大にくしゃみをする。
「すみません……」
案の定、じろりと睨まれ、先輩は溜息をつきながら、パイプ椅子から立ち上がった。
「先輩どこに……」
「少し、休憩してくる」
そして、そのまま部屋を出ていってしまい、あとには浅葱と琅だけが残されてしまった。
しばらく待ってみるが先輩も戻らず、琅も一向に無言のままで、気まずい空気に堪えられなくなった浅葱は意を決して琅に向き直った。
「つらいことがあったばかりだし、何も話したくないのはよくわかるけど、一つだけ聞いてもいいかな? 花のことなんだけど……」
それを口にした途端、それまでなんの反応も示さなかった琅が目を見開き、食い入るように自分を見つめてきた。突然のその反応に、一番戸惑ったのは浅葱自身だった。そこまで驚くことだとは思わなかったし、何よりも琅がこれほど感情を表に出すようには見えなかったからだ。
「琅君?」
名を呼ばれ、びくっと琅の身体が反応する。視線が左右に動き、呆然としたまま琅の唇が動く。
「……の父さんが」
*
一九九五年八月十四日。
「ろう終わったかー」
暢気な暁也の声が聞こえてくる。そんなすぐに終わるわけないだろうと心の中で突っ込む。
先ほどから皆は外で花火に興じているが、琅は一人宿題に明け暮れていた。こんなことになるくらいなら、もっと真面目にやっておけばよかっと後悔するが、すでに後の祭りだった。
「あっでも、結構進んだねえ」
「ほんとだ。ろうはやればできる奴なのに、やらないだけだもんな」
「うるさいぞ、アキ」
覗き込んできた頭を頭突きで追い返す。
「それよりもさっきの写真まだ?」
「そんなすぐに現像できるわけないだろ。明日までにはできるって」
「マジかよーそれがあれば完成すんのに」
「他のとこまだ終わってないけど?」
「しいは余計なこと言うんじゃない」
一気にやる気をなくして、鉛筆を放り出す。ふて寝しようかとも思ったが、外で色鮮やかな光を放つそれの誘惑は耐え難いものがあった。
「ちょっと息抜き!」
「あっ、ろう!」
靴を履きかけのまま外に飛び出す。草が生えていない、地面が剥き出しになっているところの中央に立ててある蝋燭の目の前で、屈んでいる海生の背を脅かすつもりで叩く。
「あ!」
その衝撃で、海生の背に隠れて見えなかった手に握られていた線香花火が落ちた。ぎろりと睨まれて、誤魔化しにもならない口笛を吹く。
「ろうの馬鹿!! せっかく続いてたのに!」
「ごめんごめん、そう怒るなって」
「軽過ぎるわ、馬鹿ろう!」
「あーあ、またろう怒らせてる!」
「ろうはまだまだ子どもだな」
「うるさいぞアキ!」
暁也にだけは絶対言われたくないと、地面にあった手持ち花火に火をつけて、わざと暁也に向ける。
「おわっ! 危ねーよ!」
「仕返しだ仕返し!」
「そうくるなら、俺も負けないぞ!」
暁也は両手に花火を持って、振り回し始める。
「アキ! ろう以外にも被害が出てるって!」
「しーも混ざればいいだろ!」
「馬鹿がうつる」
だが、最終的には慎太郎も混ざっていた。皆で花火を持って、辺りを走り回り、馬鹿なことでよく笑い合った。
おそらくよい子は、振り回しちゃいけませんっていう台紙に書いてあるルールを守るのかもしれなかったが、琅たちはよい子ではなかったし、大人が決めたルールに従うなんてまっぴら御免だった。それを守らないことで痛い目に合うのかもしれなかったが、今はそんなことを考えることすら厭わしいほどに、楽しかった。
夜の闇に描かれる色とりどりの火花が散っては消えて、また散っては消えてゆく。その刹那的な美しさは、青春時代そのものに似ているのだろうと思った。




