伊周
「お兄様」
「!!」
今度こそ失神する…顔を伏せなければ、扇を取らなければと思うが身体が動かない。冷や汗が興奮か解らない汗がどっと吹き出し動悸が激しい。
意識を飛ばしかけたところで原因の人物にはっしと手を捕まれて半ば抱き寄せられ、失神している場合ではなくなった。
「伊周様」
藤原伊周。定子の兄であり中関白家の長子。まさに今を時めく公達である。さっきからしていたどこかで嗅いだいい匂いの半分は彼が絹に焚きしめた香だったのだと今更気付いた。
早く気付いていれば扇から手を離さなかったのに。
「どうした肥後。顔色が良くない。なんだ、泣いたのか。憐れな。ほら、もっと良く顔を見せてごらん。」
顎に指を添えられ、思考が完全に停止した。何故、心不全にならないか不思議だ。
「伊周様」
「お兄様」
「肥後を離してください」
「そうですわ。何を不埒な真似をなさっているの。可哀相に肥後が真っ青ではありませんか。お兄様のせいで怖がってまた引きこもってしまったらどうして下さるの?」
妹と登花殿きっての上臈二人に非難され、伊周は扇で口許を隠した。しかし肥後は離さない。
「おやおや、ひどい言い草だな、我が妹姫は。私だって肥後に会いたいのだよ。私のせいで引きこもるなんて悲しいこと言わないでくれ。肥後だって私に会いたかったであろう?」
正直言って心臓に悪いので会いたくないが、言える訳がない。
こっちを見ろ、とか向け、とかいうのも無理難題である。
汗と涙でおしろいがはげ落ちてまだらになっているはずなのだ。
定子のように色白ならばさして問題ないが、自分の肌は浅黒いまではいかないにしろ、どう贔屓目に見ても色白ではない。おまけに言えば髪はうねっているし、量も減って細くなってきた。眼はでかいし、頬も肉が落ちた。
宮中で肩身が狭いのは絶対に容姿も関係している。
せめてもう少し、見目好ければ…。
対して、目の前にいるのは、天女の如き定子の兄、絶世の美丈夫、道隆の長子である。
本当に気を失ってしまえればいっそ楽だ。
伊周は肥後の顔を覆う髪を優雅な指でついと、どけるとまじまじと顔を見つめ、やおら、ぷっと吹き出した。
「本当に、君があの話の、あの人物とは思えぬな」
「お兄様!」
「異国情緒のある容姿に地味な衣…というのは聞いていた通りなのだが。中身だけ他の者と入れ替わってはおらなんだか?」
忍んできた則光を蹴り飛ばして叩き出したというのは嘘かな?
耳元で囁かれた伊周の言葉に体中の血が頭に上るのを感じた。
おのれ則光!!!どこで何をしゃべっているのだ、あの無骨な莫迦は。
誰が、いつ、蹴り飛ばしたか。そもそも、そもそも…!!
「肥後?肥後!」
「!?あ、ああ?」
体をがくがくと揺さぶられて気がつくと右衛門に両肩を掴まれている。
「もう、赤くなったり青くなったり白くなったり、おまけに震えだしてどうしたの?大丈夫?」
はっとして周りを見ると宮様と宰相の君が心配気にこちらを見、伊周様は横を向いて扇で顔を隠し、ふるふるしている。どうやら笑っているらしい。
私の様子があまりにおかしかった為、宮様の命で伊周様から右衛門が引き離してくれたのだ。
いけない。
一つのことに気を取られると私はどうも周りの音が完全に消えて自分の世界にはいってしまう。
「お兄様、いつまで私の肥後をお笑いになれば気が済むの?」
私の肥後!
なんと、光栄な、もったいないおっしゃり様だ。思わずうっとりし、また違う世界に行きかけたがいけない、宮様の前だ。
そんな私を見て伊周様がまた笑った。
「ふっ、ふふふふふ…ああ、腹がよじれる。則光の言っていた通りだ。」
あの男本当に何を言ったのだ。
「さっき言ったのは嘘だよ、肥後、すまないね。感情豊かで、屈託がなく話すと聞いていたのに、君があんまりにも私につれないものだから、思い余って則光に気を引く方法を伝授してもらったのだ。色々な表情が見られるという点では絶大な効果だったね。」
あと、もう少し華やかな色目の衣が似合うというのは私も則光に賛成だ。
宮中の女房たちが一目見たいと切望し、見たものはもれなく失神すると噂の流し目をしながら伊周は言ったが、幸か不幸か、肥後の目には全く映っていなかった。
どちらにしろ、あのくそったれ、今度こそ絶縁してやる。
能天気な則光の顔が浮かんだので、手元にもどった扇を力いっぱい握りしめてしまい、みし、と音がした。
「肥後、そんなに握ったら折れてしまってよ?それがなくてはまた引き籠もってしまうでしょう」
はっとして、答えを返す前に伊周が応じた。
「大丈夫ですよ、宮。肥後が引き籠ったら、局の前で舞を舞わせれば良いのです。肥後が興味を示してちょっと鏡で覗いたら私が引っ張って出してあげます。」
「まあ、お兄様が天手力男神になりますの?」
じゃあ天宇受賣命は私がしたいわ。
と宮様と伊周さまはころころ笑っているが、冗談でもこの身を恐れ多くも天照大神に例えるなんてやめてほしい。葛城神の方がまだましだ。
「宮様、例えが恐れ多すぎて肥後がまた震えております。」
宰相の君が苦笑しながら申しあげた言葉に、宮様は肩をすくめた。
「あら、またやっちゃった私ったら。もう肥後ったらそんなにかしこまらなくていいのに。」
伊周は満足そうに私を眺めると、妹に向ける顔でほほ笑んだ。
「そのうち慣れよう。大丈夫だ、そなたと、私たちが見込んだ小白河の女君ではないか」
宮様への兄君の微笑みに思わず見とれてしまったが最後の一言に背筋が伸びた。
伊周様は不敵な笑みを浮かべてにじり寄ってくると、また耳元で囁いてから、座を退かれた。
「近いうちに必ず聞かせてもらうよ、肥後。」
あああ…。やっぱり。
伊周様の香が残る中で私はがっくりうなだれた。