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第27話 もう一度、読まれなかった一行

 イレーネは、帳場の卓に紙束を投げ出すように置いた。


 束は薄かった。事の重さに比して、紙の枚数は少ない。けれど、薄いということ自体が、ひとつの証だった。本当に動いた金は、いつも分厚い帳面ではなく、欄外の一行に残る。


「掴んだよ」

 イレーネは椅子に腰を落とした。「あんたが城を出た、その前後の話さ」


 レオノーラは帳面から目を上げた。

「交易許可の差配ですね」


「分かってたみたいな顔だね」

 イレーネは鼻を鳴らした。「半年前、王国の交易許可の差配が、誰の手に移ったか。――ガルム派さ。それも、あんたが断った、まさにその差配だ」


 レオノーラは、何も言わなかった。

(半年前。私が、断ったもの)


 差配とは、どの商会にどの航路の許可を出すか、関税のどこを誰に緩めるか、その裁量のことだ。半年前、ガルム伯爵はそれを欲しがった。私的な約束で、特定の商会に許可を流すための差配を。レオノーラは、断った。条文の外で利を動かせば、いずれ卓そのものが歪む。理由はそれだけだった。


「断られたガルムは」

 イレーネは指を一本立てた。「あんたが邪魔になった。差配を握りたきゃ、握ってる手を退かせるしかない。――退かせたのさ。きれいに」


 ニコが、紙束を覗き込んで眉を寄せた。

「これ……金の動きっすか。許可が出たあと、商会から、ガルム派の誰かに」


「そういうことだね」

 イレーネは口の端を上げた。「許可が下りる。商会が潤う。礼が、上に流れる。額は大きくない。けど、流れた先が、ぜんぶ同じ向きを向いてる」


 *


 レオノーラは、紙束を一枚ずつ繰った。


 急がなかった。日付を確かめ、商会の名を確かめ、許可の番号を確かめる。一枚ごとに、手帳の頁へ、一行ずつ書き写していく。


 ――半年前、交易許可の差配を、ガルムに断る。

 ――その後、私の排除。

 ――排除の後、差配はガルム派へ。

 ――許可が下り、金が、上へ流れる。


 書きながら、彼女は声を立てなかった。激することも、手を止めることもしなかった。ただ、点を、線で結んでいく。


「レオノーラさん」

 ニコが、おそるおそる言った。「これ……婚約破棄って、その場の空気で、こう、なんとなく決まったんだと思ってたっす。殿下が、あんたを冷たいって思って」


「私も、そう思っていました」

 レオノーラは手を止めない。「冷たい、と言われた。それが理由だと、思っていました」


「違ったんすか」


「順番が、逆だったのです」


 彼女は、書き写したばかりの一行を、指で押さえた。


「冷たいから、排除されたのではない。排除すると決めた者が、冷たいという言葉を、後から運んだ。――半年前に、もう決まっていたのです。差配を断られた、その日に」


 *


 もう一枚、別の束がある。


 それは数日前、ミレーユ・サンクが、震える手でレオノーラに渡したものだった。ミレーユの証言を、ニコが書き取った写しだ。


 レオノーラは、それを並べて置いた。金の流れと、ミレーユの言葉。二つの束が、卓の上で、隣り合う。


 ミレーユは語っていた。誰に、自分が担ぎ上げられたか。「言語の才女」と最初に言い出したのは誰か。王太子の耳に、レオノーラは冷たい、という言葉を、最初に置いたのは誰か。――すべて、同じ名へ遡った。


「ガルム伯爵が」

 ニコが、写しを指でなぞる。「ミレーユ様を、持ち上げた。あんたを、冷たいって、殿下に吹き込んだ。で、引き継ぎ書を……」


「握り潰した」

 レオノーラは静かに言った。


 あのときの、王宮の執務室。引き継ぎ書は、奥の引き出しの底から、呆気なく出てきたという。鍵はかかっていなかった。誰かが隠したわけではなく、誰も取り出さなかっただけ――そう、あのときは、そう見えた。


(けれど、違う)


 握り潰すのに、鍵はいらない。隠す必要もない。ただ「読む必要はない」と言い続け、奥へ押しやり、忘れさせればいい。放置を装えば、それは隠匿にはならない。怠慢に見える。誰の手も汚さずに、四十二頁は死ぬ。


「放っておく、というのが」

 レオノーラは、ミレーユの証言の一行に、指を置いた。「いちばん巧い、潰し方でした」


 *


 点が、線になった。


 半年前の、断られた差配。それを動機とした、計画的な追い落とし。ミレーユを担ぎ、王太子に取り入らせ、「冷たい」の一言を運び、引き継ぎ書を放置の体で握り潰す。そして、レオノーラが去ったあと、差配はガルム派へ。金が、上へ流れる。


 すべての一行が、一つの向きを指していた。


 婚約破棄は、空気ではなかった。


「あたしはね」

 イレーネが、低く言った。「あんたが、ここで卓をひっくり返すのを見たいよ。これだけ証拠が揃ってんだ。リーゼンの宮廷に叩きつけりゃ、あの伯爵は終わりさ。――はっ、いい気味だ、とは言わないけどね」


 レオノーラは、手帳を閉じた。


 閉じる前に、もう一度、書き写した一行を見た。半年前の差配を、断った日付。それは、彼女自身が忘れていた、ありふれた一日だった。あのとき、何が始まっていたのかを、彼女は知らなかった。


 誰も読まなかった一行が、王宮には、あった。引き継ぎ書の四十二頁。読まれなかったから、王宮は躓いた。


 そして今、もう一行、ここにある。半年前の、ありふれた日付の、断りの記録。誰も気に留めなかった一行。それが今度は、彼女の手の中で、意味を持って読まれている。


(読まれなかった一行が、二つ)


 ひとつは、王宮が読まなかった。

 ひとつは、私が、読み損ねていた。


「イレーネ」

 レオノーラは顔を上げた。「この束を、写してください。原本は、あなたの手元に」


「叩きつけるのかい」


「いいえ」


 彼女は、手帳の上に、両手を重ねた。


「まだ、読み終えていません」


 *


 ニコが、おずおずと口を開いた。

「レオノーラさん。怒って、ないんすか。これ……あんたを、はめた話っすよ。半年も前から、仕組まれてた」


 レオノーラは、しばらく窓の外を見ていた。フリーセンの両替商の看板が、夕日を受けて鈍く光っている。城壁のない街の、退路のひらいた光だ。


「怒りは」

 彼女は、ごく短く言った。「段取りの、邪魔になります」


「段取り?」


「証拠は、揃いました」

 レオノーラは、手帳の角を、指で揃えた。「揃ったものを、どう使うか。それが、まだ決まっていません。叩きつければ、ガルムは終わる。けれど、終わらせて、何が残るか。――それを、考えています」


 ニコは、何も言えなかった。


 復讐なら、たやすい。束を一つ、王宮へ送ればいい。けれど彼女は、その手前で止まっていた。証拠を握った手は、剣の柄を握る手とは、別の向きをしていた。


 彼女は、新しい頁を開いた。そこに、まだ一文字も書かれていない。


「……何を、書くんすか」

 ニコが、小さく訊いた。


「分かりません」

 レオノーラは羽根ペンを取った。「ただ、これは、断りの記録の続きです。半年前、私は差配を断った。その一行が、ここまでを連れてきた。――続きを、書かねばなりません」


 白い頁の上で、ペン先が、止まっていた。


 証拠は、揃った。

 彼女が次に書く一行が、何になるのか――それは、まだ、誰も読んでいない。


 読まれなかった一行が、二つ。ひとつは王宮が、ひとつは彼女自身が、読み損ねていました。証拠は揃いました。けれど彼女は、剣を抜きません。

 次話、レオノーラが選ぶのは、復讐ではない「使い方」。揃った証拠を、彼女はどこへ向けるのか。お読みくださり、ありがとうございます。ブックマークと評価が、次の一行を書く支えになります。


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