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第26話 使われた、娘

 更新条約の調印から、三日が過ぎていた。


 フリーセンの空は薄曇りで、運河の水は鈍い銀の色をしていた。ロート商会の二階、レオノーラの帳場には、まだ片づかぬ写しと控えが積まれている。締結とは、終わりではない。後始末は、終わったあとに残る。


 ニコが階段を駆け上がってきたのは、午前の遅い刻だった。


「レオノーラさん。来客っす。それも――」

 彼は言いよどんだ。「南の卓に座ってた、あの人っす。ミレーユ・サンク」


(……ミレーユ)


 レオノーラは筆を置いた。王国の一行は、調印を終えてもまだフリーセンに留め置かれていた。記録を各国の控えに正式に収める手続きが残っており、署名した外務卿ガルムは、それが済むまで発てない。後始末を補佐に押しつけ、宿で苛立っているらしいと、イレーネが噂を運んでいた。


「お通しして」

 彼女は短く言った。「茶は、香りの薄いものを」


 *


 ミレーユは、戸口でしばらく立っていた。


 六カ国語を話すと評判の才女は、いま、ひとことの口上にも詰まっているように見えた。卓を挟んで座っても、彼女は膝の上で指を組んだりほどいたりしていた。


「……お訪ねするのは、不躾だと存じております」

 ミレーユはようやく口を開いた。「けれど、王宮に戻る前に、どうしても」


「どうぞ」

 レオノーラは茶を勧めた。「お掛けください」


 ミレーユは茶に口をつけたが、味は分かっていないようだった。


「あの卓で」

 彼女は俯いたまま言った。「わたくしの言葉は、一度も、通じませんでした。文字は、合っていたのです。辞書のとおりに、文法のとおりに。なのに、宰相閣下には、いつも別の形で届いていた」


「ヴェルダン語には」

 レオノーラは静かに引き取った。「客間の言葉と、台所の言葉があります。あなたの語学は、正確でした。ただ、含意までは――」


「届かなかった」

 ミレーユは初めて顔を上げた。「あなたは、お分かりだったのですね。最初から」


 レオノーラは答えなかった。それが答えだった。


 *


「言葉が話せることと」

 レオノーラは言った。「卓を動かせることは、別です。あなたが劣っていたのではありません。卓に要るものが、語学ではなかった、というだけのことです」


「……慰めて、くださるのですね」

 ミレーユは、力なく笑った。「責められると思っておりました。わたくしは、あなたの席に座った者です。あなたを追い出した側の」


 レオノーラは、わずかに首を傾けた。


「あなたが、私を追い出したのですか」


 問いは、静かだった。詰問ではなかった。ただ、事実を一つ、卓の上に置いただけの問いだった。


 ミレーユの指が、止まった。


「……分かりません」

 彼女は声を落とした。「わたくしは、自分で前に出たつもりでした。けれど、いま思えば――背中を、押されていた気がするのです」


(押された。誰に)


 レオノーラは、内心で短く確かめた。けれど、急いて訊かなかった。急けば、相手は口を閉じる。彼女はただ、茶を一杯、勧め直した。


「二煎目を、お淹れしましょう」

 彼女は卓を立ち、ゆっくりと茶を替えた。一煎目の香りを開いて捨て、二煎目を注ぐ。それは、ヴェルダンの作法を真似た所作だった。――申し入れを、聞いてよい、という合図。


 ミレーユは、その手つきを、ぼんやりと見ていた。そして、堰が切れるように、続けた。


 *


「半年ほど前のことです」

 ミレーユは、過去をたぐるように話しはじめた。「ガルム伯爵が、わたくしを夜会に招いてくださいました。あなたが、まだ外交を一手に担っておられた頃です」


 レオノーラは黙って聞いた。


「伯爵は、おっしゃいました。『君の語学は、宝の持ち腐れだ』と。『今の王宮は、一人の女が外交を抱え込み、誰にも渡さぬ。君のような新しい才が、殿下のお側に要る』と」


(外交を、一人が抱え込んでいる――)


 その言い回しに、レオノーラは内心で目を留めた。ファルクが卓で口にした「属人化」の見立てと、根が同じだった。ただ、ガルムの口では、それは恨みの色を帯びていた。


「伯爵は、わたくしを、たびたび殿下の御前に引き合わせました」

 ミレーユは続けた。「席も、話の糸口も、伯爵が用意してくださった。わたくしは、ただ才を披露すればよかった。殿下は、お喜びになりました」


「ロデリック殿下に」

 レオノーラは確かめた。「私の話は、どのように」


 ミレーユは、唇を噛んだ。


「……伯爵が、折にふれて。『アーレンス公爵令嬢は、有能だが冷たい』と。『殿下の御心を、一度も汲んだことがあるまい』と。わたくしは、それを――そのまま、信じておりました。お会いしたこともない頃から、あなたを、冷たい人だと」


 卓に、短い沈黙が落ちた。


「殿下の御前で、わたくしも、申し上げたかもしれません」

 ミレーユの声が、細くなった。「公爵令嬢は、笑わぬ、と。物の言いようが、刺さる、と。――わたくしは、伯爵の言葉を、自分の言葉のように」


(焚きつけられた火を、自分の声で広げた)


 レオノーラは、内心でそれを書き留めた。責める気は、起きなかった。ミレーユは、火を点けた者ではない。点けられた火を、運んだ者だ。台所の言葉で客間の用を足したように、彼女は、他人の悪意を、悪意と知らずに運んでいた。


「あなたは」

 レオノーラは、ごく静かに言った。「ご自分で、私を冷たいと思ったのではありません。そう思うように、整えられた」


「……はい」

 ミレーユは、初めて、その言葉を受け取った。「いま、そう思います。伯爵は、わたくしの語学が欲しかったのではなかった。わたくしが、殿下のお側で、あなたを『冷たい』と言う声が、欲しかったのです」


 *


 ニコが、階下で筆を止めていた。壁ごしに、話は届いていた。


(うわ……これ、仕組まれてたやつっすよね。最初から)


 足の速い元伝令の勘が、囁いていた。――この話は、いつか、要る。


 *


 帳場の上では、ミレーユが、両手で茶碗を包んでいた。


「更新の卓で」

 彼女は言った。「わたくしは、思い知りました。語学が、何の役にも立たぬことを。宰相閣下の前で、わたくしは、ただの飾りでした。そして、飾りを卓に置いたのは、ガルム伯爵です」


「伯爵は」

 レオノーラは訊いた。「卓が軋んでも、あなたを庇いませんでしたか」


「庇うどころか」

 ミレーユは、苦く笑った。「控えの間で、おっしゃいました。『また、あの女に助けられた』と。あの女――あなたのことです。伯爵は、卓が回らぬのを、わたくしのせいに。けれど、卓が回ったのも、ご自分の手柄のように」


(庇わぬ。手柄は取る。咎は、人に着せる)


 レオノーラの内心で、一つの輪郭が、ゆっくりと立ち上がってきた。それは、まだ証拠のない、証言だけの輪郭だった。だが、形は見えてきた。


 追い落としは、空気ではなかった。その前に、半年をかけて、誰かが地ならしをしていた。ミレーユを担ぎ、殿下の側に置き、「冷たい」という一語を、根気よく植え続けた者がいる。


 ガルム伯爵。


「ミレーユ様」

 レオノーラは、相手の目を、まっすぐに見た。「一つだけ、伺います。あなたを焚きつけ、私を冷たいと吹き込み、殿下のお側へ押し上げた――それは、すべて、ガルム伯爵お一人の差配でしたか」


 ミレーユは、しばらく考えた。


「……分かりません。伯爵が、誰の意を受けていたかまでは。けれど、伯爵が、最も熱心でした。あの方は、いつも、おっしゃっていた。『外交が一人の手にあるのは、よろしくない』と。『あれは、いずれ、誰かに開かれねばならぬ』と」


(開かれねばならぬ――誰に。何のために)


 レオノーラは、その問いを、口には出さなかった。だが、半年前の記憶が、静かに浮かんだ。ガルムが交易許可の差配を欲しがり、彼女がそれを断った日のことだ。あのとき、彼は何も言わずに退いた。退いて、別の手を打っていたのだ。


「ありがとうございます」

 レオノーラは、頭を下げた。「よく、お話しくださいました」


「責めて、くださらないのですね」

「責めて、事実が変わるなら、責めます」

 彼女は静かに言った。「変わりません。あなたは、運ばれた火種でした。火を点けた手は、別にあります。――私が見るべきは、その手です」


 ミレーユは、何かを言いかけ、そして、深く頭を下げた。それは、才女の社交の礼ではなかった。一人の人間が、もう一人に向ける、不器用な詫びだった。


 *


 ミレーユが帰ったあと、レオノーラは、しばらく窓の外を見ていた。


 締結は終わった。条約は対等に結ばれ、王国は失効を免れた。済んだ仕事だ。


 だが、いま、卓の上には、新しい一行が載っていた。証言だけの、まだ薄い一行が。


(誰が。何のために。私を、追い出したのか)


 答えの輪郭は、もう、半ば見えている。ガルムの名。そして――外交利権という、四文字。交易許可の差配。関税の裁量。彼が、半年前、彼女に断られて欲しがったもの。それを手にするために、彼は、城から一人の娘を、追い出した。


 レオノーラは、筆を取った。


(火を点けた手は、別にある)


 彼女は、白紙の一枚に、たった一行、書きつけた。――ガルム伯爵。交易許可。半年前。


 それは、まだ告発ではなかった。告発になる前の、最初の一行だった。


 追い落としは、空気ではありませんでした。半年をかけて、根気よく植えられた一語があったのです。ミレーユは、悪意を運んだだけの娘でした。火を点けた手は、まだ卓の向こうにいます。

 次話、その手の正体に、別の証拠が重なります。読まれなかった引き継ぎ書と、商人網が掴んだ金の流れ。輪郭が、はっきりとした線になります。

 お読みくださり、ありがとうございます。ブックマークと評価が、次の一行を照らします。


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