第19話 二通の、誘い
その朝、ロート商会の帳場には、二通の封書が並んでいた。
一通は黒い蝋で封じられていた。蝋の上には、北方の宮廷でしか使われぬ重い印。もう一通は、布で覆われた紋章の馬車が置いていったものだった。封の色は違ったが、置かれた卓は同じだった。
ニコが二通を見比べて、声を低くした。
「レオノーラさん。片方はヴェルダンの宮廷、片方は……リーゼンの王宮、っすよね。同じ朝に、二つ」
「珍しいことではありません」
レオノーラは黒い蝋の封を、紙を裂かぬよう静かに開いた。「困っている者ほど、同じ頃に動きます。困りごとには、季節があるものです」
黒い封の差出人は、ヴェルダン宰相ファルクだった。
文面は、宮廷の言葉で書かれていた。礼を尽くし、含みを隠し、要は一行に畳めた。――ヴェルダンは、貴女を交渉人として遇する用意がある。リーゼンの卓ではなく、こちらの卓の側で。
レオノーラは一度だけ読み、文字の裏に置かれたものを読んだ。
(私を、リーゼンから引き剥がす一手。属人の網ごと、向こうへ移す)
ファルクは、王国の外交が彼女個人に紐づいていたことを、最初から見抜いていた。網そのものを買えば、リーゼンは更新の卓に着く手立てを永久に失う。優雅な誘いの形をした、静かな兵糧攻めだった。
もう一通を、彼女は開いた。
リーゼン王宮から、ガルム伯爵の名で。文面はヴェルダンのそれより不器用で、行間に焦りが滲んでいた。要は二行。――正式に、外務の卓へ戻られたい。望まれるなら、かつての縁談も、白紙に戻して構わぬ。
ニコが横から覗き込んで、息を呑んだ。
「これ……戻ってこいって話に、縁談まで付けてきてるっすよ。あんなに追い出しといて」
「焦りは、人を気前よくします」
レオノーラは二通を、卓の上で揃えて置いた。封の色は違う。だが、向きは同じだった。どちらも、彼女に「どちらかの駒になれ」と言っていた。
(ヴェルダンの駒になれば、祖国を売る。王宮の駒に戻れば、また同じ卓に座る。――どちらも、卓の同じ側)
彼女は二通を、静かに伏せた。
*
帳場の奥で、算盤の珠を弾く音が止まった。
ヴェルナー・ロートが、いつから見ていたのか、太い指で二通の封を順に指した。
「黒い方は、いくらの話だ?」
「額は書いておりません。書かぬのが、向こうの作法です」
「だろうな」
老商人は椅子を引いて腰を下ろした。「額を書かんのは、こっちの言い値を聞きたいからだ。あんたという品物に、いくらの値が付くか試している。ヴェルダンの宰相どのは、ずいぶんあんたを高く見ている」
「買われるつもりは、ございません」
「分かってる」
ヴェルナーは目を細めた。「だが、訊いておきたい。あんた、どっちにも乗らんつもりだろう。なら、何になる気だ」
レオノーラは、二通の封を見下ろした。
「卓の、向こう側に」
彼女は言った。「リーゼンの駒でも、ヴェルダンの駒でもなく。中立のフリーセンの、独立した一人の交渉人として。どちらの卓にも着かず、両方の卓の間に立ちます」
ニコが、ぽかんと口を開けた。
「間に……って、両方から誘われてるのに、どっちにも行かないんすか」
「どちらかに着けば、もう片方とは話せなくなります」
レオノーラは封を伏せたまま続けた。「間に立つ者だけが、両方の卓に物を運べます。私の値打ちは、どちらにも属さないことにある。属した瞬間に、私は半分になります」
ヴェルナーは、しばらく彼女を見ていた。
それから、ふっと、笑いとも息ともつかぬものを漏らした。
「――母御に、よく似ている」
帳場が、静かになった。
*
運河の水音が、石の壁の向こうで低く鳴っていた。
「母を」
レオノーラは、初めて声の調子を緩めた。「ご存じ、でしたか」
「知っているとも」
ヴェルナーは算盤を脇へ寄せ、両手を卓に置いた。その手の甲には、長く商いをしてきた者の皺が深く刻まれていた。「二十年あまり前だ。わしはまだ若い商人で、メーアとの取引で大きなしくじりをやった。契約の文言一つ、再輸出の但し書きを読み違えてな。荷を全部、港で差し止められた。商会が傾くかという瀬戸際だった」
彼は、卓の木目を指でなぞった。
「どこに頼んでも、駄目だった。役人は規則の一点張り。ヴェルダンの後ろ盾もなかった、一介の新参商人だ。誰も、わしの言い分を聞かなかった」
「そのとき」
「リーゼンの外交官が一人、間に入った」
ヴェルナーの声が、低く、温かくなった。「アーレンス家の、若い夫人だった。彼女はメーアの役人と港の差配人を一つの卓に着かせて、契約の文言を一行だけ書き換えた。荷の所有が誰に移るかという、たった一行をな。それで荷は流れ、わしの商会は助かった」
レオノーラは、黙っていた。
(母が、メーアの……再輸出の但し書きを)
「礼をしようとしたら、夫人はこう言った」
ヴェルナーは、その声を思い出すように、わずかに目を閉じた。「『私は荷を救ったのではありません。一行を、本来あるべき位置に戻しただけです』とな。――忘れられん言葉だった」
「……それで」
「あんたが城を出て、フリーセンに流れてくると聞いたとき」
老商人は目を開け、まっすぐに彼女を見た。「わしは、ろくに値踏みもせずに雇うと決めた。商人らしくないと、自分でも思ったよ。だが、あの夫人の娘なら、外れはないと踏んだ。――いや、踏んだというのは嘘だ」
彼は、初めて言葉を選んだ。
「借りを、返したかった。それだけだ」
帳場に、しばらく沈黙が落ちた。運河の水だけが鳴っていた。
レオノーラは、二通の封の上に、そっと手を重ねた。母の名が、二十年の時を越えて、いま自分の足元を支えていた。城を追われたとき、彼女は何も持たずに出た。書類は頭の中、荷は鞄ひとつ。だが、持たずに出たはずのものが、ここにあった。
(私は、一人で立っていたのではなかった)
「ヴェルナー様」
彼女は、ごく静かに言った。「一つ、訂正をお許しください」
「なんだ」
「あなたは、借りを返してくださったのではありません」
レオノーラは顔を上げた。声は平らだったが、いつもより少しだけ、柔らかかった。「あなたは、私に立つ場所を、貸してくださったのです。返すのは、これから私のほうです」
ヴェルナーは、太い指でひとつ、算盤の珠を弾いた。
「――いい返事だ。それでこそ、雇った甲斐がある」
*
日が傾き、運河の面が灰緑に染まった。
レオノーラは二通の封を、それぞれ別の引き出しに収めた。断りの返書は、急がない。二通とも、すぐには返さぬのが作法だった。
ニコが、空の碗を下げながら訊いた。
「レオノーラさん。両方断って、間に立つって……でも、その『間』に、本当に卓は来るんすかね」
「来ます」
レオノーラは窓の外、両替商の看板が並ぶ通りを見た。「ヴェルダンも、リーゼンも、私を駒にしようとして、できなかった。次に向こうが思いつくのは、一つだけです。――駒にできぬなら、卓に着かせるしかない、と」
「卓、って」
「更新の交渉です。今度は、内々の使者ではありません」
彼女は引き出しを静かに閉じた。「両国が、人目のある場所で向き合う。諸国の使節が見ている、公開の卓の上で。そこを整える役は、もう、間に立つ者にしか務まりません」
ニコが、ごくりと唾を呑んだ。
「それ、レオノーラさんが……?」
レオノーラは、答える代わりに、机の上の羽根ペンの先を改めた。
「卓を整えるのは、引き受けましょう」
彼女は言った。「ただし、私が着くのは、どちらの側でもありません。卓の、ちょうど真ん中です」
窓の外で、北の空の雲が、薄く晴れ始めていた。
二通の誘いを、彼女はどちらも伏せました。駒にはならない――その代わりに選んだのは、両方の卓の間に立つ、いちばん難しい席です。
そして母の話を、ヴェルナーが一つ、こぼしました。彼女が持たずに出たはずのものは、ずっと足元にあったのですね。
次話、ついに公開の卓が動き出します。続きを楽しみにお待ちいただけたら嬉しいです。ブックマーク・評価が、次の一話を書く灯りになります。




