逃げた黒い影 3
その頃、エルダントの古い時計塔の上階で、若い男が黒い記録盤を見つめていた。
エルネスト・ヴィダル。セヴラン系の研究員。
エルネストは見た。
水瓶の反応が消えた。
包帯棚の反応も、薄れている。
そこまでは想定していた。
しかし、次の瞬間、記録盤の縁に白い霧のようなものが走った。
受信線に、何かが絡んだ。
「逆写し……?」
エルネストは目を見開いた。
ただ解除するだけではない。
こちらの受信線を読もうとしている。
彼の指先に力がこもる。
「そんなはずがない。治療師にそんな技術はない。あの職人か? いや、あの女技術者か」
盤面の一部が白く滲む。
このままでは、受信方向を辿られる。
エルネストは奥歯を噛みしめた。
「先生の術式を、逆に読むなど……」
怒りが湧く。
だが同時に、冷たい焦りもあった。
彼は記録盤の脇に仕込んだ切断符へ手を伸ばした。
まだ早い。
第三点を見たい。
白花が偽の白をどう避けるのか。
そこまで見なければ、成果にならない。
「まだ……まだ切らない」
三つ目は、治療台だった。
脚の裏に貼られた黒木札は、小さく、薄く、見逃されることを前提に作られていた。
ここには偽の白はほとんどない。
代わりに、灰色の重みが強い。
「ここは測るというより、引き止める場所です」
ミラは言った。
「患者さんの流れが治療台に残るようにしている。次の患者さんの治療にも、前の鈍りが重なる」
院長の顔色が変わった。
「治療台を通じて、患者の反応を蓄積していたのか」
オリヴァーが頷く。
「測定台の役割もあったのでしょう」
薬師長が低く言った。
「許せない」
その声には、治療者としての怒りが滲んでいた。
ミラは治療台に触れない。
ただ、その上で本来行われるべき治療の流れを見る。
患者が横たわる。
治療師が傷を見る。
薬師が薬を差し出す。
包帯が守る。
そこにあるべきなのは、記録のための冷たい目ではない。
治そうとする手と、治ろうとする身体だ。
「ここは、外へ返します」
ミラは言った。
「残す場所じゃありません」
白花の光が、治療台の端から床へ流れる。
その光に押されるように、灰色の重みが木札へ集まった。
「今」
オリヴァーが切る。
イザークが受ける。
セリアが乾燥棚の逆写しを強める。
その瞬間、古井戸へ伸びる線が大きく震えた。
「来ます」
セリアが叫ぶ。
「受信側が反応しています」
時計塔で、エルネストの記録盤が白く弾けた。
彼は思わず手を引く。
指先が焼けるように痛んだ。
「逆流させてきた……!」
盤面の線が、古井戸から時計塔の方角へ伸びる。
まずい。
方向が残る。
エルネストは切断符を叩きつけた。
黒い線が裂ける。
記録盤の一部が割れた。
だが、遅かった。
白い霧が一瞬だけ盤面をなぞり、彼の術式の癖を写し取った。
エルネストは机を蹴った。
「くそっ……!」
怒鳴りたい衝動を飲み込み、急いで記録盤を布に包む。だが割れた破片までは拾いきれない。
術式紙を火にくべる。
予備の樹脂片を袋へ入れる。
黒蜜の小瓶を掴む。
しかし、棚の端に置いていた治療院の配置図が床へ落ちた。
拾う時間はない。
外から鐘の音が聞こえる。
彼は外套を羽織り、裏階段へ向かった。
「まだ終わっていない」
低く呟く。
「まだ、第三層は残してある」




