逃げた黒い影 1
翌朝、エルダント治療院の空気は張り詰めていた。
昨日まで患者が行き来していた処置室は閉じられ、代わりに別室が臨時の処置室として使われている。包帯棚には白布がかけられ、消毒水の瓶には封じ印が貼られていた。
院長ハーヴェイと薬師長メリッサは、朝早くから待っていた。
役所の監視役もいる。
だが昨日までと違い、治療院側の立ち位置ははっきりしていた。
「本日は、治療院内に仕込まれた外部干渉の解除を行います」
院長が静かに言った。
「当院として正式に協力します。患者の安全を最優先とし、必要な設備確認、封印作業、記録を認めます」
監視役が顔をしかめる。
「まだ外部干渉と断定されたわけでは」
セリアが記録板を開いた。
「昨日確認された事項を読み上げますか?」
監視役は黙った。
セリアは淡々と続ける。
「水瓶、包帯棚、換気口、治療台の四点に同系統の弱反応。乾燥棚に偽装樹脂片。中庭の古井戸に受信跡。患者動線を囲む配置。以上を踏まえ、本日は解除および外部受信線の遮断を行います」
彼女は顔を上げた。
「異議がある場合は、理由と責任者名を記録します」
監視役は何も言わなかった。
エリオットは、そのやり取りを記録帳に書き留めていた。
右腕はいつも通り補助具の中。
外からは何も変わらない。
けれどミラは知っている。
あの手は、布の温度を覚えた。
今はまだ見せない。
まだ、守る段階だ。
解除のための配置は、昨夜遅くまで話し合われていた。
ミラは処置室の入口に立つ。
中へ踏み込みすぎない。黒を掴まない。白花の光を使うのは、オリヴァーとセリアが指定した瞬間だけ。
オリヴァーは水瓶と包帯棚の間に立ち、遮断具を持つ。
イザークは封印箱と白石布を用意し、媒介の回収を担当する。
セリアは乾燥棚と古井戸に繋がる線を見張る。白石布と細い封じ針を並べ、受信線に逆写しを仕掛ける準備をしていた。
エリオットは記録と制止役。
院長と薬師長は証人。
監視役は、否応なくその証人に含まれている。
「順番を確認します」
セリアが言った。
「まず水瓶。次に包帯棚。ただし包帯棚を外す前に、乾燥棚の出口を半分だけ閉じます。完全には閉じません。逃げる線を残したまま、逆写しを乗せます」
「受信側を探るためだね」
イザークが言う。
「はい。相手が気づいて切断すれば、その方向が残ります」
オリヴァーが補足した。
「その後、治療台、換気口。最後に乾燥棚の樹脂片を完全に封じる。古井戸には遮断布を張って、反応が外へ抜けるのを遅らせる」
ミラはゆっくり頷いた。
「私は、流れが戻る道だけを見ます」
「偽の白に触れないでください」
セリアが言った。
その言葉に、ミラは少し緊張する。
「偽の白……」
「昨日見つけた樹脂片には、白系反応を似せた波が混ざっていました。ミラさんの力を誘導するためだと思います」
セリアはまっすぐミラを見る。
「白く見えるものが、全部正しいとは限りません」
その言葉は、ミラの胸に深く落ちた。
白いもの。
優しいもの。
助けを求める声。
それに似せた罠。
ミラは白花に手を添えた。
「分かりました。温かい方を見ます」
セリアが一瞬だけ目を瞬く。
「温かい方?」
「サリアの水は、苦しそうでした。でも温かかったんです。ここの偽の白は……乾いています。たぶん、そこを間違えないようにします」
セリアは少しだけ考え、記録板に書いた。
「白花反応、真性は温感あり。偽白反応は乾いた感覚。……いいです。感覚でも、繰り返し確認できるなら記録になります」
ミラは小さく頷いた。




