第94話 白樺湖での合宿⑧ 絆の宴と合宿の終わり
8月21日(火) ――
いよいよ、合宿最終日の朝を迎えた。明日の朝にはこの思い出深い白樺湖研修館を立つことになる。
昨日のハーフマラソン・タイムトライアルにおいて、部員全員が初めての距離にも関わらず好タイムを叩き出したことで、チームの雰囲気とモチベーションは間違いなく最高の高まりを見せていた。
僕自身も、目標としていた30km走を正確無比なキロ3分01秒のイーブンペースで走り切り、来月のレース(フルマラソン)へ向けた走力を完璧に維持できていることに深い安堵と手応えを感じていた。
合宿最後のメニューは、「女神湖周回コース」(1.8km)を12周――距離にして21.6kmを、会話ができるキロ6分40秒〜50秒での超スローペースのジョグとし、昨日の激走による疲労をきれいに抜いていく。
「みんな、昨日の疲れは残ってないか? 今日は身体をリフレッシュさせるためのジョグだ。会話を楽しみながら、リラックスして走ろう!」
「「「はいっ!!」」」
秋の気配が混じり始めた爽やかな標高1500mの風を受けながら、部員たちは弾むような笑顔で走り出した。
「ねえルイ、昨日のラストスパート凄かったね! 本当にしびれちゃった!」
「ふふ、蘭さんが引っ張ってくれたおかげだよ。私……この合宿で自分がどこまで強くなれたか、はっきり実感できたの」
ジョグの最中も、昨日のタイムトライアルの熱狂冷めやらぬといった様子で、部員たちの笑い声が交えた会話は弾み、士気は極めて高かった。
この2週間、部員たちは準高地という酸素の薄い環境下で、天馬とクリスが算出した科学的データ『VDOT値』に基づいた過酷なインターバル走を愚直に乗り越えてきた。
そして、その成果をタイムトライアルという明確な結果で証明してみせたのだ。
部員たちの瞳には、もはや合宿当初のような不安や硬さは微塵もなく、揺るぎない絶対的な自信と達成感が宿っていた。
僕自身も、準高地で自身の限界に挑む質の高いトレーニングを完遂できたことに、指導者として、そして一人のランナー(アスリート)として深い満足感を覚えていた。
21.6kmを走り終え、水分補給を済ませた後に、天馬と監督のクリスは部員たちを芝生の上に集めた。
「みんな、2週間の厳しい合宿、本当によく頑張ってくれた。一人も途中で脱落することなく、全員が強くなってここに戻ってきてくれたことを、僕は心から誇りに思う。お疲れ様でした!」
僕が頭を下げると、続いてクリスも瞳を潤ませながら優しい声をかけた。
「本当に、みんなよく頑張ってくれました。私の指導についてきてくれてありがとう。みんなのおかげで、最高の夏合宿になりました。本当にお疲れ様でした」
指導陣による心からの労い言葉をかけた。
その時――先頭に立っていたキャプテンの蘭(鳴野)が、パッと振り向いて部員たちに向かい、お腹の底から声を張り上げた。
「みんな!! 私たちは、あの地獄みたいにキツかった準高地合宿を全員で乗り切ったんだぞーーーっ!!」
蘭の叫びが、女神湖の湖面に響き渡る。
「行くよっ!みんな! 箱根に……っ!! 私たちなら絶対に行ける! いやっ……行くんだろぉぉぉっっ!!」
「「「オーーーーーーッッ!!!!」」」
地鳴りのような猛烈な雄叫びとともに、部員30名全員が右拳を力強く空へ突き上げた。
その熱量に引っぱられるように、天馬も、妊娠中のお腹を撫でるクリスも、第二夫人の朱里も、男子マネージャーの二人も、さらには静かに見守っていた北川さんや護衛たち全員までもが、一斉に熱い拳を天高く突き上げた。
「……ふふ、本当に頼もしいキャプテンになったな」
「ええ……蘭には人を惹きつける最高のリーダーシップがあるわ」
最高の形で締めくくった婚約者でありキャプテンの蘭の背中に、天馬とクリスは深い信頼と確かな手応えを感じ、静かに微笑み合うのだった。
〜〜〜〜〜〜
宿舎へ戻り、汗を流してサッパリとした後、午後は研修館の多目的広場にて合宿の打ち上げバーベキューが開催された。
研修館の多目的広場には炭火の香ばしい匂いが漂い始めた、まさにその時――。
重厚な黒の高級車と大型保冷トラックが、広場のすぐ横に滑り込んできた。
車から降りてきたのは、なんと「至高俳優」である「ヨッシー」こと「高木良明」(本名:大舘真人)と、彼の第三夫人であり東相大学理事長の「大舘さおり」さんの二人だった!
ヨッシーはグレーのラフなTシャツにスウェットパンツという超自然体な私服姿。かたわらには黒のパンツスーツを着こなす担当官の吉野美保さんと、黒スーツにサングラスという女性の護衛6名を引き連れている。
ヨッシーは車を降りるなり、天馬を見つけて豪快に手を振った。
「ようっ! 天馬! 約束通り、打ち上げ用に最高の肉を用意して持ってきたぞーーっ! こないだの練習試合ではうちのヴァルキリーズがやられたけど、次は負けないからな!」
「えぇぇっ!? ヨッシー!? なんでここに……!? それに、理事長まで!?」
思わぬ大物の登場に僕が目を丸くすると、ヨッシーは「ガハハ」と大口を開けて豪快に笑った。
「ほら、新座で約束しただろ? ラグビー日本代表のコーチを受けてくれたら『最高の肉を奢る』ってな! 男に二言はないぞ!」
(あ……! そういえばあの時、見返りに『肉が食べたい』って言ったのを覚えていてくれたのか……!)
実は、クリスが事前に「今日が合宿の打ち上げなの」と父親へ密かに連絡を入れてくれていたのだ。
隣に立つ理事長も、上品に微笑みながら言葉を添える。
「私は一応、東相大学の理事長ですからね。研修館の合宿を視察しに来るのは当然の務めよ」
理事長はそう澄まして言っていたが、元プロラガーウーマンであり大のラグビー狂でもある彼女は、実は東相大ラグビー部と日本代表の合宿視察を兼ねて女神湖へ訪れていたのだと、後でクリスがこっそり教えてくれた。
ヨッシーは地元の精肉業者(全員女性)を従えており、保冷トラックから最高級の飛騨牛・信州和牛のカルビやロース、特大ウインナー、地元の高原で採れた新鮮な採れたて野菜をこれでもかと運び込ませた。
「うわぁ……! これ、いくらなんでも多すぎませんか!?」
僕が驚くと、ヨッシーは豪快に笑いとばす。
「ハハハ! 育ち盛りのアスリートなんだ、これくらい平らげてみせろ! 余ったら研修館のスタッフの皆さんにあげればいい!」
テレビ画面の向こう側にいる超大物スターの登場に、部員たちは大騒ぎだ。
部員たちもクリスがヨッシーの娘であることは知ってはいるが、クリス自身が普段まったく親の威光を鼻にかけないばりか、全く話さないため、あの大俳優と父娘だということすら忘れられていた。
改めて妊娠中のクリスのお腹を愛おしそうに撫でるヨッシーの姿を見て、「うわぁ……本当に父娘なんだ……」「すっごく愛されてるんだなぁ」と感動していた。
一方、ヨッシーの担当官である吉野美保さんは、朱里の姿を見つけるなりパーッと表情を輝かせた。
「朱里~~っ! 久しぶり~! 元気にやってた!?」
「ミポリンっ! 元気そうね~! 久しぶりーっ!」
二人は周囲の視線も気にせず、ギューッと力強く抱き合った。実は二人は幼少期からレスリングのマットの上で鎬を削ってきたライバルであり、実の姉妹のように仲が良い間柄だったのだ。思わぬ再会に、朱里も嬉しそうに胸を躍らせていた。
「よし! 理事長とスタッフさんの許可も取った! 20歳以上の部員は乾杯だ!」
僕がそう言うと、蘭を含む数名の2年生部員には、特別に缶ビールが解禁された。
「みんな、2週間の厳しい合宿、本当にお疲れ様でした! 乾杯ーーーっ!!」
クリスの乾杯の音頭とともに、賑やかで豪華な宴がスタートした!
〜〜〜〜〜〜〜
「ジュウゥゥゥーーーッ!!」
網の上で極上の和牛が音を立てて焼き上がり、香ばしい肉汁の匂いが広場全体を満たす。
「う、うまぁぁぁいっ!! なにこれ、お肉が口の中で溶けるぅ~~~っ!」
「和牛最高ーーっ! 高木さんありがとうございますっ!」
大興奮で肉を頬張る部員たち。
ビール缶を手にしたキャプテンの蘭は、ビールを美味しそうに煽りながら、部員一人ひとりの席を回って「昨日のスパート最高だったぞ!」「来月のハーフ、絶対に全員で上位独占しようね!」と弾けるような笑顔で声をかけていた。その圧倒的なキャプテンシーと頼もしさに、天馬は改めて目を細めた。
「天馬」
ビールジョッキを持ったヨッシーが、ドカッと天馬の隣に腰掛けた。
「……クリスが妊娠したって聞いたときは、本当に嬉しかったぞ。お前が娘を心から愛してくれている証拠だ。感謝する」
スターの顔ではなく、一人の父親としての温かく深い眼差しを向けられ、天馬は少し照れくさそうに頭をかいた。
「いえ……僕の方こそ、クリスに支えられてばかりです。報告が遅くなってしまってすみませんでした」
「ハハハ、いいんだよ! 今夜は飲むぞ!」
そう言っていたヨッシーだが、直ぐに理事長に呼ばれてそちらの方へ行ってしまった。
「スマンッ、ちょっと向こうへ行ってくる」
そこへ、お皿を持った三上ルイが静かに歩み寄ってきた。
「天馬コーチ、少しよろしいですか?」
「どうしたんだい? 肉、足りてるか?」
「はい、お腹いっぱいです! ……あの、天馬コーチ。この2週間の合宿、本当にキツかったですけど……今までで一番楽しかったです」
三上は溢れんばかりの感謝を込めて、天馬の目を直視した。
「天馬コーチの科学的な指導のおかげで、自分が日ごとに強くなっていくのが手に取るように分かりました。来月のインカレ(10000m)、頑張ります!」
「ああ! 自信を持って走っておいで!」
天馬が力強く頷くと、三上は心の底から嬉しそうに「はいっ!」と微笑んだ。
ふと周囲を見渡すと、そこには至福の光景が広がっていた。
北川さんはヨッシーの担当官である吉野さんとお酒を酌み交わしながら楽しそうに爆笑している。護衛たちも交代で肉を頬張り、男子マネージャーの二人も部員たちに囲まれて楽しそうに談笑していた。そしてヨッシーは部員たちに揉みくちゃにされながら、サイン攻めや写真撮影に快く応じている。
キツかった追い込みを、全員で乗り越えたからこそ共有できる最高の達成感と絆がここにある。
天馬は隣に座る妻のクリス、そして温かく見守る北川さんと視線を合わせ、力強く頷き合った。
「……天馬、素晴らしいチームになったわね」
「ああ……僕たちのやり方は間違っていなかった。箱根の予選会も……このチームなら絶対に勝ち抜ける」
午後の白樺湖の湖面を撫でて吹き抜けてくる冷涼な風が、火照った身体を心地よく癒やしていく。
その風は、どこまでも澄み渡り、彼女らの明るい未来を祝福しているかのようであった。
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翌朝、8月22日、午前9時30分――。
荷物をすべて積み込み、2台の大型バスが研修館前に整列していた。
エントランスには、2週間温かい料理と快適な部屋を提供してくれた研修館の女性スタッフ陣と、滞在中に親しくなったサークル合宿の女子学生たちがズラリと並び、名残惜しそうに手を振っていた。
「甲斐田コーチー! 応援してますからねーーっ!」
「東相大! 箱根頑張ってーーっ!」
「皆さん、2週間本当にありがとうございましたー!」
天馬と部員たちがバスの窓から身を乗り出して手を振り返す。
エンジンが始動し、バスがゆるやかに発進する。
遠ざかっていく白樺湖の美しい景色と研修館を見つめながら、天馬は胸の奥で静かに熱い炎を燃やしていた。
(ありがとう、白樺湖、女神湖……僕たちはもっと強くなって、必ず箱根の切符を掴み取ってみせる!)
2週間の過酷な準高地合宿で手に入れたのは、誰にも引き裂くことのできない信頼関係と固い絆だ。
天馬は確かな手応えと無限の可能性を胸に抱き、東相大学陸上長距離・駅伝部とともに天馬は、さらなる高みへ向かって帰路につくのだった。
【あとがき】
これにて『第10章:夏の合宿編』は終了となります。次章からは、いよいよレース本番へと突入していきます!
過酷な準高地トレーニングを乗り越えた天馬と部員たちが、どのような躍進を見せてくれるのか、ぜひ楽しみにしていただけたら幸いです。
次回の更新は金曜日を予定しております。
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