第79話 濃密な長い1日——
7月18日(水) ―― 05時00分
静寂に包まれた早朝4時に、澄んだ空気のなかで目を覚ました僕は、身支度を整えると、護衛たちを伴って新座駐屯地の外柵内側に沿って伸びる駐屯地内周コースへと向かった。
一周約6キロのフラットなコースで、そこを息を整えながらキロ4分のイージーペースで3周――計18キロを走り出す。
昨夜、牧野姉妹……椿姫と葵を妻として迎え入れた衝撃と幸福感が、いまだに胸の奥で熱く燻っていた。
それもあってか、足取りは驚くほど軽い。
(さて……今日も分刻みのハードスケジュールだぞ!)
走りながら、脳内で今日のタスクを整理する。
夕方からの東相大学ラグビー部の練習指導については、あらかじめ理事長が「日本代表の合宿期間中は代表に専念してよい」と配慮してくれた。
とはいえ僕的には放任するわけにはいかない。3人の天使たち……もとい、義弟の優君を含む男子マネージャーたちと勝田コーチに、僕が考案した体幹トレーニングと実演付きメニューの動画を送信済みだ。
(よし、あっちの指導体制は完璧だな。何かあればすぐ連絡が来る手筈になっているし、頼もしい優君たちと勝田コーチなら安心して任せられる)
今朝のスケジュールは、優秀な稀人担当官である北川さんが見事に組み上げてくれていた。
①05:00~06:30 自分の早朝自主トレ。
②08:30~11:45 ラグビー日本代表のミーティング&フィジカルトレーニングの指導。
(※体育隊の午前の練習は、イージーペース走なのでクリスへ委任)
③12:00~13:45 牧野大将(椿姫・葵の母親)への結婚挨拶。
④14:00~15:45 ラグビー日本代表のフィジカル指導(午後の部)。
⑤16:00~18:15 国防軍体育隊長距離選手の午後の練習指導(閾値走)& 東相大長距離・駅伝部のリモートでのチェック。
(※ヒルトレーニングの直接指導はクリスへ委任)
⑥18:30~20:00 自分のトレーニング(第二部、閾値走を実施)
まさに隙のない完璧なタイムスケジュールだ。あとで北川さんには、感謝を込めてしっかりと「お礼のハグ」をしておいた。
彼女は「もう……天馬さんたら、みんな見てますよ」と顔を赤らめていたけれど、本当に感謝してもしきれない。
3周目の18㎞を走り切り、タイム計測を止めて息を整えていると、ゴール地点に人影があった。
スポーツドリンクのペットボトルを胸元で大事そうに抱えた、ジャージ姿の椿姫だ。
「て……天馬……っ! お、おはよう! はい、これ……どうぞっ!」
顔を真っ赤にしながらペットボトルを差し出してくれる新妻の姿に、胸がキュンと締め付けられる。
「ありがとう、椿姫。いただきます」
ペットボトルを受け取り、乾いた喉に一気に流し込む。冷たいドリンクが身体に染み渡った直後、僕は彼女の細い腰を抱き寄せ、唇を優しく重ねた。
「んっ……!? ぁ……っ」
一瞬で力が抜けた椿姫が、甘い吐息とともに僕の胸元へと倒れ込んでくる。僕は倒れそうになる彼女の身体をしっかりと抱きとめ、その温もりを全身で受け止めた。
「ふふ、おはよう。新妻からの給水、最高に効いたよ」
「もう……天馬ったら、朝から不意打ちなんてずるい……っ」
へたり込みそうな彼女を抱きかかえるようにして、宿舎まで送っていく。
今日から椿姫と葵は僕たちの滞在する宿舎へと引っ越してくることになっている。午前の訓練の合間を縫って、引っ越し作業は完了する予定だ。
ちなみに、椿姫と葵には互いに呼び捨てで呼び合う様に、僕からお願いした。二人ともまだぎこちなさはあるが、これから徐々に慣れていくことであろう。
朝6時30分――。
いつものように妻たちと婚約者の蘭、そして北川さんと護衛たちを交えて隊員食堂で賑やかに朝食を囲む。
しかし、そこに椿姫と葵の姿はない。二人は陸軍の幹部将校という立場上、結婚後も階級に応じた幹部専用エリアでの食事ルールが適用されるのだ。
遠くの幹部テーブルから、こちらを羨ましそうにチラチラと見つめてくる姉妹の視線が少し切ない。
「切ない顔をしてるわね。軍の格律なので、こればかりはどうしようもないわ」
千代乃が微笑みながら小鉢に箸を伸ばす。
「うん、でも宿舎は一緒になるからね」
僕がそう応える。
朝食を終えた僕たちは宿舎の応接室へと戻り、東相大学スポーツ科学部の研究員でもある第三夫人のクリスがまとめてくれた、昨日のラグビー日本代表の「YO-YOテスト」の解析データをノートPCで精査し始めた。
「天馬、データが出揃ったわ。実に興味深い結果になってるね」
クリスは完璧なプレゼンテーションを進めてくれる。
「うわ!これは……一目瞭然だな」
画面を見つめながら、僕とクリスは思わず顔を見合わせた。
東相大学のメンバーを除く、他の大学から選出された代表候補選手たちは、あきらかに「持久力」と「回復力」が決定的に不足していたのだ。
クリスは分析結果を淡々と説明する。
「東相大ラグビー部が、春季リーグで相手をコテンパンに叩きのめしていた理由が、これで証明されたわね。他大学の選手は、試合後半にスタミナが切れて動けなくなっていたということね」
僕もそれに応える。
「やっぱりか……。それで、肝心の日本代表のプロ選手たちだけど、学生よりはタフだけど、回復力の衰え方は学生と大差ないな」
さらに走行時のモーションカメラの動画を再生すると、東相大以外の選手は、25本目を越えたあたりから明らかに体幹部がブレ始め、ターンの瞬間にスピードが大幅に減殺されていた。
対して、東相大の5名は最後まで軸が一切ブレず、素早く鋭いターンを維持している。
「天馬、あなたの行ってきた体幹補強とフィジカルトレーニングの成果は、まさに圧倒的ね……! 日本代表の選手でも到達できていない領域に、東相大はすでに達しているわ!ほんと……あなたって凄い!心から尊敬するわ!」
クリスが蒼い瞳を輝かせ、尊敬の眼差しを向けてくる。
「ありがとう、クリス。……これ、もし今の東相大と日本代表がフルマッチで戦ったらどうなると思う?」
「戦術や百戦錬磨の経験値では代表が上でしょうけれど……運動量とフィジカルの接点では、東相大が代表を圧倒して互角以上の勝負に持ち込むでしょうね」
頼もしい妻の分析に深く頷く。
なお、午前の体育隊長距離メンバーの指導は「イージーペース走」ということもあり、体育隊側の了承を得て、陸上競技の知見が深いクリスに全面的に任せることにした。
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08時30分 ―― 講堂にてミーティング。
熱気に包まれた新座駐屯地の講堂に、ラグビー日本代表の選手・スタッフ陣が一堂に会した。
マネージャーの手によって、選手一人ひとりに個別の「YO-YOテスト解析シート」が手渡されていく。
このシートは、クリスのノートPCにインストールされた東相大学が開発した独自のアプリケーションによって集計されたもので、グラフや数値が視覚的にわかりやすくビジュアル化されている。
「な……何これ!? 私のターンの時の軸のブレまで数値化されてる……!?」
「後半の心拍数の戻りが遅い……? こんなデータ、見たことない!」
「全てが数値化!?私の持久力が足りない!?」
「私の体幹(体軸)がブレてる!?」
選手たちが驚愕の声を上げるなか、僕は壇上に立ち、静かにマイクを握った。
「皆さん、手元のデータをご覧ください。皆さんの『トップスピード』自体は世界に誇れる素晴らしいものです。しかし――東相大の5名を除く全員に、明確な課題が浮かび上がりました。それは『持久力』と『疲労からの回復力』の不足です」
場内が静まり返る。
「ラグビーは、スピードだけでは勝てません。どれだけ速く走れても、後半にスタミナが切れればパフォーマンスは暴落します。さらに、ターン時に『体幹部』――つまり体の重心がブレているため、接触の瞬間の“アタリの強さ”やタックル時の威力が減殺されているんです。この『回復力』と『体幹の軸』の二点を、この合宿で徹底的に強化します」
言葉に宿る圧倒的な説得力に、選手もコーチ陣も息をのんで聞き入っていた。
グラウンドへ移動した僕たちは、さっそく本日の実践メニューに取りかかった。
提示したメニューは、過酷を極める「100mインターバル走」である。
フィールドのゴールライン間を利用し、100mを全力疾走(設定タイム17秒~18秒)をし、そこからジョグペースで戻り(レストタイム40秒~43秒)、すぐさま次の疾走に入る。
合宿期間が3週間と短いため、初日から本数を多めに設定し、計20本を課すことにした。
ちなみに、すでに身体ができあがっている東相大の5名のみには25本を設定した。
「ちょっと天馬兄さんっ! 初日から25本って、この鬼コーチー!」
義妹のリリカがキーキーと声を上げるが、その表情は「試されている」ことへの歓喜で爛々と輝いている。
この世界でのラグビー界において、一般的な「20mシャトルラン」や「長距離の持続走」とは異なるこの独自のメニューに、イノウエ監督やベテラン選手たちは困惑の表情を浮かべていた。
「甲斐田コーチ……100mのダッシュとジョグを繰り返すだけで、本当にラグビーに必要な体力がつくのですか? 長距離を走り込んだ方がスタミナがつくのでは……?」
イノウエ監督からの素直な疑問に対し、僕は爽やかに胸を張って答えた。
「監督、それには理由があります。実戦で倒された後、素早く立ち上がって再びプレーに参加する『リロード』の時間を短縮するには、心肺の『回復力』を高める必要があります。そして、そのためにはただ長く走り続けるだけのトレーニングでは不十分なのです」
僕は身振り手振りを交えて続ける。
「ラグビーという競技の特性を考えてみてください。試合中、選手は一定のペースで走り続けてはいませんよね? 歩く、ジョギング、フルダッシュ、コンタクト、そしてセットポジションでの静止……目まぐるしく緩急が変化します。大事なのは、『疲労した状態からいかに一瞬で体力を回復させ、次の動作で100%のパフォーマンスを出せるか』です」
「……なるほど!」
イノウエ監督が納得したように頷く。
「ですから、短距離の爆発的なダッシュと緩やかなジョグを交互に繰り返すインターバル走こそが、最も実戦に近い負荷を心肺にかけ、驚異的な持久力と回復力を生み出すのです。我が東相大が春季リーグで後半に怒涛のトライを連発できた理由は、すべてこのトレーニングにあります」
僕の説明が終わると同時に、イノウエ監督とナカムラヘッドコーチと他コーチ陣の目が丸くなり、続いて拍手が沸き起こった。
「素晴らしい……! 単なる経験則ではなく、ラグビーの動きを完璧に科学的に分析された理論だ!」
「根性論でただ走らせるのとは訳が違う……!」
イノウエ監督とナカムラヘッドコーチが納得し、笑顔でそう応えた。
「トレーニングで最も重要なのは、根性ではなく『明確な目的意識と理論』です。どこを鍛えているのかを脳で意識しながら走りましょう!」
僕の熱い言葉に、選手たちの目が一気に輝きを増した。
こうして、二つのグループに分かれての「100mインターバル走」がスタートした。
経験したことのない質の負荷に、選手たちは生臭い息を吐き、汗を吹き出させながら必死に食らいついてくる。その表情は苦しくも、新しい自分に生まれ変わる予感に満ち溢れ、どこまでも晴れやかだった。
午前中の激しいインターバル走を無事に消化し、グラウンドには選手たちの爽やかな達成感が満ちていた。
しかし――僕の心は、すでに次の「超大型イベント」へと向かっていた。
(午前の指導はバッチリだ。……よし、次はいよいよ、椿姫と葵のお母さん――『陸軍大将』との初対面だ……!)
僕はタオルで汗を拭いながら、背筋を伸ばして午後の決戦(挨拶)へと気持ちを切り替えるのだった。
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―― 12時00分。
正午少し前。新座駐屯地のヘリポートに重低音のプロペラ音が轟き、陸軍の大型輸送ヘリがゆっくりと降着した。
ハッチが開くと、静かな威圧感を纏って降り立ってきたのは、椿姫と葵の母親――「牧野 蓮」陸軍大将だった。
御年56歳。170センチを超える背の高さとガッチリとした体躯ながら、年齢を感じさせない若々しさと凛とした美しさを兼ね備えた女性だ。
彼女自身も陸軍大佐の夫を持つ(第一夫人)、まさに軍人一家の長でもある。
ヘリポートでは、娘である椿姫と葵、そして愛理の担当官である藤野真由美さんが手厚く出迎えた。
牧野 蓮大将は娘たちへ「うむ」と短く頷くと、真由美さんの前で足を止め、力強く抱きしめ合った。
「お久しぶりです、藤野(真由美)大将!……お元気そうで何よりです」
「蓮、相変わらず忙しそうだな。大将の風格も板についてきたじゃないか」
実は後から知ったことなのだが、蓮大将は、かつて真由美さんの部下として勤務しており、現場で厳しく育てられた教え子だったという。数々の紛争地域で共に死地を潜り抜けてきた二人の間には、言葉を超えた強い信頼と絆が存在していた。
「さあ、天馬さんがお待ちだ。応接室へ案内しよう」
「ええ……よろしく頼みます」
真由美さん、そして緊張で肩をすくめる椿姫と葵に促され、蓮大将は僕の滞在する宿舎の応接室へと足を進めた。
応接室の扉が開き、牧野蓮大将が室内に足を踏み入れる。
僕と北川さんはソファーの前で立ち上がり、正面から彼女を出迎えた。
「――っ!?」
僕の姿を目にした瞬間、蓮大将の凛とした表情が一瞬で強張り、目を見開いて大きく息をのんだ。稀人としてのオーラか、あるいは僕の面影に何かを見たのか、驚愕を隠せない様子だった。
僕は背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「初めまして、牧野大将。甲斐田天馬です。本日はお忙しい中、お越しいただきありがとうございます」
「……初めまして、甲斐田殿。牧野蓮です。……まずは、未熟な娘たち二人を同時に妻として選んでくださったこと、母として、そして軍人として心より感謝申し上げます」
蓮大将が重厚な声で感謝を口にした、その時だった。
僕はソファーの前から一歩踏み出すと、床に両膝と両手をつき、額を絨毯に擦り付けるようにして叫んだ。
「牧野大将! ……いえっ!お母さん!椿姫さんと葵さんという、かけがえのない素晴らしいお二人を、僕に委ねていただきありがとうございます! 僕の命に代えても、二人を絶対に幸せにします! どうか、お二人を僕にください!!」
「「「「「……えっ!?」」」」」
渾身の土下座。
そのあまりに規格外すぎる行動に、応接室の時が完全に止まった。
いつも冷静な北川さんをはじめ、新妻となる椿姫と葵、百戦錬磨の牧野蓮大将、そして歴戦の猛者である真由美さんまでもが、目を見開いたままカチコチにフリーズしてしまったのだ。
「……? 皆さん、どうされたのですか?」
静まり返った室内へ、カチャリとドアを開けて入ってきたのは、千代乃の担当官である里美さんだった。その手には、発行されたばかりの『婚姻届受理証明書』が大切そうに握られている。
全員が彫像のように固まっている異様な光景に、里美さんは怪訝そうに首をかしげた。
「里美さん……僕が婚姻の挨拶をしたら、みんなフリーズしちゃって……」
僕が申し訳なさそうに床から顔を上げると、里美さんは「ああ……なるほど」と深く納得したように頷いた。
「天馬さん、男性が女性の親にそこまで深々と頭を下げるなど、この世界では天変地異に等しい衝撃ですからね……。よし、取り合えず再起動させましょう」
里美さんは手際よく、フリーズした面々の肩を揺すって回った。
「椿姫さん、葵さん、起きてください。証明書が届きましたよ」
「ハッ……! 天馬……っ!?」
意識を取り戻した椿姫と葵は、僕の土下座姿と、自分たちを本気で慈しんでくれる言葉の重みを反芻し、感極まって大声で泣き出した。
「天馬……っ! ありがとうございます……っ! 私、私っ、本当に幸せです……っ!」
「天馬さん大好き……っ! ずっとついていきますからねえぇっ!」
二人が僕に抱きついて泣きじゃくるのを、優しく背中を叩いてなだめていると、歩み寄ってきた蓮大将が僕の耳元へと顔を寄せ、誰にも聞こえないほどの静かな小声で囁いた。
「……甲斐田……いや、天馬殿。まずは改めて、娘たちを選んでくださり心から感謝いたします。……そして、あなたのお姿を拝見した時から確信しておりました。あなたは……今は亡き藤野篤少将のご子息ですね?」
「っ……父のこともご存知なのですか」
「ええ。藤野大将(真由美さん)から聞いておりましたからね。あの力強い面影、そして真っ直ぐで誠実な瞳……血は争えませんね。藤野少将の血を引くあなたであれば、娘たちを間違いなく幸せにしてくださると確信いたしました。……娘たちを、どうかよろしくお願いします」
蓮大将の温かい言葉に、僕は強く頷いた。
その後、僕と北川さん、蓮大将、真由美さん、里美さん、天馬の護衛たち、そして椿姫と葵は、隊員食堂の幹部エリアへと移動し、賑やかに会食を囲んだ。
テーブルの上にごちそうが並ぶなか、蓮大将はグラスを手に取り、少し目元を緩ませながら二人の幼少期の思い出話を語り始めてくれた。
「椿姫は昔から責任感が強くてね。妹たちの面倒をよく見てくれたが、自分の気持ちを押し殺して無理をしてしまう癖があったのだよ」
「お、お母さん! そのお話は今しなくても……っ!」
赤面して慌てる椿姫をよそに、蓮大将は微笑みながら続ける。
「対する葵は、昔から猪突猛進でね。姉の背中を追うあまり、よく転んで擦り傷だらけになって帰ってきたものだ」
「もう! お母さんったら、天馬さんの前で私の昔の失敗談を言わないでよー!」
ぷっと頬を膨らませる葵と、照れまくる椿姫。
そのやり取りを温かい目で見守る真由美さんと里美さん、そして北川さん。
話を聞けば聞くほど、椿姫と葵が、どれほど厳しくも温かい両親の深い愛情を受けて育ってきたかが痛いほど伝わってきた。大切に育てられてきた大切な娘たちなのだ。
(こんなにも愛されて育ってきた二人なんだ。……絶対に、僕の手で二人を世界一幸せにしてみせる)
二人の笑顔を見つめながら、僕は胸の中で静かに、生涯変わることのない強い誓いを立てるのだった。
14時00分——。
午前中の濃密なスケジュールと、僕の土下座、そして義母にあたる蓮大将たちとの賑やかな会食を終えた僕は、午後のグラウンドへと戻ってきた。
14時からのメニューは、ラグビー日本代表選手たちの「体幹トレーニング」および「瞬発力とパワー向上の指導」だ。
グラウンドの中央には、招集された全60名の選手たちが整然と並んでいる。
僕はマイクを握り、真剣な眼差しを向けてくる代表選手たちと正対した。
「皆さん、午前のインターバル走、本当にお疲れ様でした。午後のセッションでは、実戦に直結する『瞬発力』と『パワー』を劇的に向上させるトレーニングを行います」
一瞬、選手たちの間に静けさが広がった。僕は事前に提出されていた彼女たちのウエイトトレーニングの数値と、実際のメニュー動画を頭の中で反芻する。
「まず、皆さんが普段行っているウエイトトレーニングの動画を拝見しました。非常に重いウエイトを限界まで持ち上げるマシントレーニングを中心に取り組まれていますね。これ自体は基礎筋力を作る上で決して悪くありません。……しかし! それだけでは、皆さんのポテンシャルの『80%』しか発揮できていないんです」
「「「「80%……!?」」」」
選手たちの間にざわめきが広がった。
「皆さんの今のトレーニングは、直線的で『静止している相手』に対しては絶大な威力を発揮します。ですが、実際のラグビーの試合を想像してみてください。ボールを持って全力疾走してくる相手に対して、こちらも全力で走りながらタックルに入りますよね? 常に激しく動いている相手に対し、止まった状態で作ったパワーの80%で挑んでも、倒し切るのは至難の業です」
僕は一度言葉を切り、更に熱を込めた。
「ラグビーは常に動いているスポーツです。動きの中で0(%)から一気に100(%)の力を発揮させる――これこそが、試合で使える本物のパワーです! たとえば、足が0.1秒速くなるだけでも世界は変わります。相手の鋭いフェイントに追従し、全力疾走する相手を確実に仕留める。テーマは『最大の瞬発力とパワー』です。これは東相大でも叩き込んできたメニューであり、その効果は春季リーグの結果を見れば一目瞭然のはずです」
言葉に宿る圧倒的なリアリティ。
講堂で僕の話を聞いていた時以上に、選手たちは目を見開き、食い入るように僕の言葉へ耳を傾けていた。
列の端にいる義妹のリリカたち東相大の選手5名は、かつて自分たちも受けたこの「天馬節」を思い出したのか、誇らしげにニヤリと不敵な笑みを浮かべている。
「天馬コーチ、具体的にはどのようなトレーニングになるのですか?」
イノウエ監督が身を乗り出して尋ねてきた。
「メニューは多岐にわたりますが、最終的な到達目標は『ハイクリーン』です。ただし、ハイクリーンは非常に高度な技術を要するため、半端なフォームで行うとケガのリスクが高まり効果も半減します。そこで本日はその『基礎固め』として、『スプリント式ランジウォーク』と『ボックススクワット』の2つを実施します」
説明を終えると、僕はグラウンド脇に用意していたバーベルの元へ歩み寄った。
プレートは左右20kgずつ計40kgである。
「まずは、目標とするハイクリーンの完成形をお見せします」
僕がバーベルの前に立つと、グラウンドの空気がピンと張り詰めた。
深く息を吐き、地面から一気にバーベルを爆発的な速度で引き上げる。股関節の爆発的な伸展から、体を下へ潜り込ませ、瞬時に胸の上でバー捕球――トウン!と静かな着地音とともに、完璧なフォームでバーベルが保持された。
一連の動作、わずか1秒足らず。
「「「「ぉぉぉおおおおっ……!?」」」」
選手たち、そして監督やコーチ陣からもどよめきが起こった。重いウエイトが、まるで羽毛のように一瞬で跳ね上がったのだ。
「スピードが……全然違う……!」
「なんて滑らかで無駄のない動きなの……!?」
プロの選手たちが息をのむ中、僕はバーベルを静かに降ろし、今度は東相大の5名を前に呼び寄せた。
「では、今日皆さんにやっていただく基礎メニューを実演します。リリカ、前へ」
「はいっ!」
今度は10kg(左右5kg)のウエイトを装着したバーベルを使い、東相大の選手たちに「スプリント式ランジウォーク」と「ボックススクワット」を実践させた。
関節の角度、重心の移動、体幹の固定、そして地面を蹴る瞬間の出力の出し方――僕が横で細かく解説を加えながら、彼女たちの美しいフォームを見せていく。
「ご覧の通り、ただ腰を落とすのではなく、スプリント(走る)の動きと完全に連動させています。これが、動いている最中に100(%)のパワーを出すための体の使い方です」
監督や代表スタッフ陣は、メモを取るのも忘れてその実演に見入っていた。
「よし! それでは6〜7名ずつ、10個のグループに分かれて実践してみましょう!」
「「「はいっ!!」」」
グラウンド全体に活気ある声が響き渡った。
選手たちはこれまで経験したことのない刺激的なトレーニングに戸惑いながらも、目を輝かせて真剣に取り組み始めた。
「そこ、膝が内側に入ってるよ! つま先と同じ方向に向けよう!」
「骨盤の位置を固定して! 0(ゼロ)から一気に地面を押し出すイメージ!」
僕は各グループを細かく見回りながら、熱心に声をかけてフォームを修正していく。
一方、すでにこの基礎トレーニングを完全にマスターしている東相大の5名――リリカたちに対しては、容赦なく次のステップへと進めさせた。
「君たち5人は、いよいよ本格的な『ハイクリーン』に入るぞ。ウエイトを調整して、フォーム第一でやってみよう」
「よし来たっ! 待ってました!」
リリカがそう笑顔で応じると、東相大の5人は、僕が徹底的に叩き込んだ基礎があるため、初見の代表選手たちが苦戦するのを横目に、驚くほど美しく、力強いフォームでハイクリーンを次々と成功させていった。
「ハァ……ハァ……っ! 天馬コーチ、どうですかっ!?」
汗を噴き出させ、非常にキツそうな表情を浮かべながらも、リリカたちは最高の達成感を全身から溢れさせていた。
「完璧だ! 素晴らしいフォームだよ!」
僕が親指を立てて褒めると、リリカたちは「やったー!」と顔を見合わせて破顔した。
その光景を遠巻きに見ていた日本代表のプロ選手たちは、東相大の異次元のフィジカルと、それを自在に操る僕の指導力に、もはや尊敬と驚愕を隠せないでいた。
激しくも充実した今日のフィジカルトレーニングが終わりを告げようとしていた。
選手たちの瞳には、自らの限界を突破した者だけが持つ、眩しいほどの輝きが宿っていた。
16時00分——。
午後の激しいラグビー日本代表のフィジカル指導を終えた僕は、すぐさま新座駐屯地の陸上競技場へと足を運んだ。
ここからの時間枠は、国防軍体育隊長距離選手たちの指導だ。それと並行して、東相大学長距離・駅伝部の練習状況もタブレット端末のリモート映像越しにリアルタイムでチェックしていく。
陸上競技場のトラックには、すでに準備体操を終えた体育隊の長距離選手たちが整然と集まっていた。その中には、僕の婚約者でもある蘭の姿もある。
「皆さん、集まっていただきありがとうございます! 本日のメニューについて説明します」
僕はホワイトボードの前に立ち、マーカーペンを走らせながら熱心に語りかけた。
「一昨日に高負荷のスピードトレーニングを実施し、昨日はジョギングでしっかりと疲労を抜きました。計画通り、本日は『LT走(閾値走/テンポ走)』を実施します!」
選手たちが表情を引き締め、僕の言葉に深く頷く。
「まず、なぜ今この時期にLT走を行うのか、その目的を正しく理解してください。LT走とは、『少しきついが、20〜40分間なら連続して維持できるペース』――具体的には、会話はほぼできないけれど短い単語ならなんとか発せる程度の負荷で走るトレーニングです」
僕はホワイトボードのグラフを指し示した。
「目的はただ一つ。血中に乳酸が急速に溜まり始める限界点(乳酸閾値)を引き上げることです。これを鍛えることで、『より速いレースペースを、より長く、余裕を持って維持できる能力』が飛躍的に向上します。心肺機能の強化はもちろん、レース終盤の失速を防ぐスタミナを練り上げることができるんです」
理論的かつ情熱的な説明に、選手たちの目がギラギラと輝き出す。
「本日は40分間のLT走を実施します。各自の力に合わせて3つのグループに分けます。1キロあたりの設定ペースは3分20秒〜3分30秒。蘭、君は第3グループ(3分30秒ペース)だ。無理のない範囲で、しっかり設定を守っていこう」
「はいっ、天馬コーチ! しっかりついていきます!」
蘭が力強く返事をし、気合の入った笑みを浮かべた。
「よし、全員目標は12キロ走破だ! スタート!」
パンッ!と号砲が鳴り、3つのグループが時間差でトラックへ飛び出していった。
僕はストップウォッチを手に、トラックの脇から声を張り上げつつ、片手で抱えたタブレット端末画面にも視線を走らせる。
「東相大もいい感じだな! ヒルトレーニングの指導を任せたクリスとの連携もバッチリだ」
リモート画面の向こうでは、クリスがリモートで東相大の部員たちに的確な指示を出しており、順調なトレーニングが伺えた。
そしてトラックでは、12キロ(30周)に及ぶLT走が佳境を迎えていた。
設定ペースを寸分違わず刻み続ける選手たち。蘭も必死の形相で第3グループの集団に喰らいついている。
「蘭、いいリズムだ! 肩の力を抜いて、呼吸を深く! 限界点を押し広げるイメージだぞ!」
「ハッ……ハッ…………!」
そして40分後――。
見事に3グループとも、全員が設定ペースを守り切って12キロのLT走を完走した。
「そこまで! 全員、ナイスラン!」
ゴールした瞬間、蘭はその場に膝をつき、大きく肩で息をついた。
「ハァ……ハァ……っ! き、きつかった……っ! でも……っ」
汗だくの蘭に、僕はスポーツドリンクを差し出しながら優しく声をかけた。
「蘭、大丈夫か? よく走り切ったね」
「コーチ……! ええ、すっごくキツかったけど……前にやったあの地獄のインターバルに比べたら、まだ心が折れずに走れました……! 自分の限界が伸びてる実感が湧きます!」
荒い息を吐きながらも、蘭の瞳は達成感で輝いていた。
「よし、最後は体幹トレだ。全員グラウンド中央に円形に集まって!」
最後は僕の指導のもと、全員で円陣を組み、補強の体幹トレーニングを実施した。時刻は18時15分、体育隊の練習は熱気のうちに終了した。
18時半——。
駐屯地が静まり返り始める時間帯から、いよいよ僕自身のトレーニング時間が始まった。
「天馬、準備はよろしいですか?」
ジャージ姿に着替えた椿姫が、タイム計測用のストップウォッチと給水ボトルを手に、陸上競技場のトラックで待っていてくれた。今日から僕の妻となった彼女が、こうして僕の練習をマンツーマンでサポートしてくれるのだ。
「ありがとう、椿姫。今夜は僕もさっきみんなにやらせたのと同じLT走をするよ」
「天馬の設定ペースは……?」
「キロ2分55秒ペースで15キロ。目標タイムは43分45秒だ」
「き、キロ2分55秒……!? 15キロをそのペースで……!?」
実業団のトップ選手ですら青ざめるような異次元の設定値に、椿姫は目を丸くして驚愕していた。
「ふふっ、大丈夫。今の僕の身体なら一番効果的なゾーンだからね。それじゃあ、お願いします!」
「は、はいっ! 位置について……スタート!」
電子音が鳴り響き、僕はトラックへと飛び出した。
タッ、タッ、タッ、と規則正しい足音が静かな駐屯地に響く。
1キロ2分55秒。普通の人なら短距離のダッシュに等しいスピードだが、日々の鍛錬が噛み合っている今の僕にとっては、絶妙な「少しきついレベル(LT値)」の快適なペースだった。
トラックの脇を通るたび、椿姫が愛おしそうな瞳でタイムを読み上げてくれる。
「1000m通過、2分54秒! 完璧なペースです、天馬!」
「5000m通過、14分35秒! 動き、とっても綺麗ですよ!」
「10000m通過、29分10秒! そのまま、そのままです……っ!」
彼女の声援が、僕の足取りをどこまでも軽やかにしてくれた。
そして――。
「ゴールっ! タイム、43分40秒です! 設定クリアですよ、天馬っ!」
15キロ(37.5周)を走り切り、僕は息を整えながら足を止めた。
「ふぅ……! いい練習ができたぞ」
それほどの疲労感もなく、爽快な汗をかいている僕のもとへ、椿姫がトコトコと駆け寄ってきた。
「お疲れ様でしたっ! は、はい、タオルです! それとドリンクもどうぞっ!」
「ありがとう」
受け取ろうとすると、椿姫は「あ、あの……私が拭きますからっ」と顔を真っ赤にしながら、僕の顔や首筋の汗をタオルで甲斐甲斐しく拭き取ってくれた。
「あはは、至れり尽くせりだなあ。新妻のサポート、本当に助かるよ」
「もう……天馬が凄すぎて、私、見ていてずっと胸がキュンキュンしてました……っ。夫がこんなにカッコいいなんて、反則です……」
上目遣いで照れる椿姫の可憐さに、走り終えたばかりの心臓が別の意味で大きく跳ね上がった。
こうして、激動に満ちた7月18日の長い一日が、無事に幕を閉じた。
(ふぅ……今日も本当に濃厚な一日だったな……)
夜風に吹かれながら、僕は内心でほっと深く息をついた。
ラグビー日本代表、東相大学、そして国防軍体育隊。
自分の持つトレーニングの知識や理論を惜しみなく伝え、それによってみんながぐんぐんと成長し、競技能力を向上させていってくれる。指導者として、これ以上の喜びはない。
(みんなが強くなって、笑顔になってくれれば、それが一番だ)
傍らで嬉しそうに寄り添う椿姫の温もりを感じながら、僕は明日への英気を養うべく、温かい妻たちの待つ宿舎へと足を進めるのだった。
【あとがき】
いかがでしたか?主人公がたくさんのタスクに追われるドタバタ感をしっかり描きたくて、ついつい長くなってしまいました……!
次回は来週の月曜日に投稿予定です。少しお待たせしてしまいますが、ぜひまた読みに来てくださいね。
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