エピソードZERO 1.王子様になりたかった姫への祈り
田舎の香水と呼ばれる匂いが校庭に立ち込めだした。
農家の作付けの時期が近づいている匂いだ。
それは冬の終わりであって新しい年度の始まりを感じる香りだった。
北関東の広大な農村地域にその高校は佇んでいた。
県内有数の県立進学校。
あまり女の子の制服が可愛くないことで有名な高校。
詰め襟のようなブレザーは某ブランド会社の制服なのに着崩して着る生徒が過半数だ。
有名大学進学率は近年増えている。
就職組はスポーツ特待で入った生徒くらいだ。
それ以外は殆んど大学に進学する。
田舎の学校の割に治安のよい大人しい子が入学する。
女が働く高校はそんな学校だった。
教師人生が終わりに近づいてきた頃。
女が思い出すのは一人の少女のことだった。
学校の校庭、廊下、図書室。いつも笑顔を絶やさなかったのにふとした瞬間達観したような大人びた表情になる横顔が何故か忘れられなかった。
一年前に行方知れずになった元生徒だ。
彼女は不思議な生徒だった。
優秀なのか劣等生なのか判断に迷う生徒だった。
授業態度は優秀だった。
制服の着こなしも模範的だった。
少し明るめの髪の毛を黒く染めるのですら学年主任に許可を得るほどだった。
生活態度も模範的。
頻繁にある小テストや問答では理解度は良かった。
話す言葉は機知にあふれ語る瞳は知的好奇心に溢れていた。
抜き打ちテストの正答率は素晴らしかった。
ただ。
それらの優秀さが提出物と定期テストに発揮されないのだ。
提出物はいつも紛失する。
故意なのかと疑うほど。
定期テストは何故か午後の時間は居眠りで白紙提出ばかり。
後日追試をさせると成績はトップクラスなのにだ。
教師陣でも指導の仕方で意見は割れた。
女は擁護派だった。
何か重要な疾患を抱えているのではないか。
家庭内に問題があるのではないか。と。
でも問題行動と言うほどではなかったのだ。
非行でもない。
個人の不備は個人の問題なのだ。
これが小学校ならもう少し議題に上がっただろう。
彼女が部活動や生徒会活動に参加していたなら顧問が何か気付いたかもしれない。
でも結果彼女は卒業した。
「努力すればもう少し優秀になれたはず」の成績と共に。
予期していた通り彼女は大学には滑り止めすら受からなかった。
試験が午前で終わる大学などなかったから。
大学入学共通テストはやはり午後の部がすこぶる駄目だった。
彼女は笑った。
「うちにはお金がないから働いてまた挑戦します」と。
その一年後の彼女が18の冬の終わり。
姿を消したのだ。彼女は。
高校には家庭訪問はない。
面談は校内に親を招いてとなる。
高校に訪れた彼女の母親は教育熱心な品の良い母親だった。
見目麗しさは少女と並ぶとより引き立った。
それは完璧な母親とすこし不出来な娘という並びで。
その時に感じたのだ。
少女の瞳に光が消えるのを。
思春期の親への反抗心と呼ぶにはあまりに深淵を覗いたような深い闇を覗いた気分になった。
あの時。
何かできたのではないか。
あの時。
手を差し伸べられたのは自分だけではなかっただろうか。
そんな後悔がずっとついて回るのだ。
だからだ。
本来してはいけない暴挙に出てしまったのは。
卒業した生徒の個人情報の持ち出しなど禁忌だ。
しかも勝手に訪問するなど懲戒退職ものだ。
それでも。
女は確かめずにはいられなかったのだ。
少女の消えた理由が彼女の家を見たら分かる気がしてならなかったのだ。
その屋敷は閑静な住宅街にあった。
一見すると豪邸だ。それもかなりの。
「お金がない」とはとても思えない外観の家。
少女は部活動も生徒会役員活動も参加しなかった。
運動神経も良かった少女を運動部は惜しみ、人柄の良さと普段の授業態度で生徒会からスカウトがあったのだ。
でも。
少女はそれらを断った。
理由は「厳しい門限とお金のなさ」だった。
門限が午後五時と聞いた時には皆が冗談と思ったものだ。
それらを周りに言われてから少女は「お金」を理由にしかしなくなった。
あれも違和感があった。
その違和感はどう対処したら良かったのか。
一教師の自分には踏み込めない壁があった。
そんな少女の家はまるで住んでいる人は今はいないと言わんばかりに荒れ果てていた。
「あの………」
通りかかったマダムに尋ねるしか術はなかった。
そこで聞いたのは驚くべき話だった。
「私ね………。何回か通報したのよ?
あまりに子供の泣く声が何時間も響くのよ?赤ん坊の時代からよ。比較的おおきくなってからもよ?
でもね………。しつけだと言われると………ね?
またここの奥さん美人なのよ!!
警察官や役所の人が来ても皆が鵜呑みにしちゃう何かがあったの。《外面》がいいっていうのかしら?
現に外では自治会の仕事は熱心だったし働きにも出てたしね?お子さん………あ。可愛らしい娘さんよ?凄く頭が良くてお利口なのよ?
でもね………。厳しすぎるんじゃないかとは思ってたのよ。
だって………。寒空の下裸で外に出されていたこともあったのよ?
昔はあったわよ〜!!言う事聞かないクソガキが外に放り出されていたことなんか。
でもね………女の子よ?何したのか聞いたら「皿を落とした」………それだけよ?信じられる?
でもね………しつけだと言われてしまったら近所のおばさんなんて何にも出来ないのよ〜。
でも娘さんが大きくなったらピタリと止んだの。
落ち着いたと安心したのよ〜?
そしたらよ?
まさか奥さん気が狂って旦那さん刺し殺しちゃったのよ〜!!
ね?びっくりよね?!
そしたら更にびっくりよ!!
娘さん!!浪人した大学入学共通テストまた落ちて。
それを苦に行方知れずだったんですって!!
知らなかったのよ?「うちの娘は留学してますの」って奥さん言ってたから〜!
奥さん旦那殺した後自殺したのよ〜!!つい半月前のことよ!!
鈴音ちゃん。知ってるのかしら。
結構ニュースになったのよ?
この家も親戚のものらしいし。
帰ってきたら両親死んでたなんてかわいそうよね?
やっぱり………彼女の家出が原因だったのかしら」
気の毒げにでも快活に笑いながら話す目の前のマダムに対して感じたのは嫌悪感だった。
吐き気がしてお礼と菓子折りを渡し目の前にあった公園のベンチで項垂れた。
「本田さん………どこに行ってしまったの………」
呟いた言葉は風が払うはずだった。
人気のない小さな公園だ。
そこに近づく人影にも気づかなかったのだ。
「あの!!
鈴音をご存知なんですか?」
目の前には。
げっそりとやせ細り憔悴した様子の青年が立っていた。
齢は20そこらの青年だ。
ただその風貌は生気がなく老け込んで見えた。
「すずね………。本田さんのことかしら?」
「あの家の。本田家の一人娘のすずねです。
ぼく………。は。恋人………。いや。婚約の約束をしていて」
「まあ………?」
聞くと彼は高校生の時からの恋人だと言う。
かれこれ四年は付き合っていたと。
聞くと県内で一番の男子校出身だった。
美人のわりに浮いた話はなかった彼女の意外な交友関係だった。
我が校もなかなかの進学校だったがその男子校は更に上だ。同じレベルの女子校もあるが鈴音はそちらにはレベルが達しなかったらしい。
その頃から彼女の不可解な成績不振が現れていたらしい。
「本番に弱いタイプだったんです。
そこも………可愛らしかったんですけど」
彼は懐かしむように空を見上げた。
「彼女。親があまりに厳しくて。
門限も最初は4時ですよ?進学校の授業すらまともに出来ませんよ。さすがにそれは僕が直談判したんです。
過保護で厳しい………親御さん。
鈴音は箱入りで………気立ても良くて。
門限が厳しいのは僕が気をつければいいから………」
聞けば聞くほど清く純粋な交際をしていたらしい。
携帯電話で連絡を取り合いたった数十分でも公園で落ち合う。
彼女のお小遣いは1500円だったという。
バイトも禁止だ。
高校生にしては少なすぎる金額。
それでは友達ともろくに遊びには行けなかっただろう。
「貴方も………鈴音さんを探して?」
青年は沈黙した。
途端にブルブル震えだした。
「鈴音は。彼女は。
もしかしたら………死んで。僕のせいで自殺したかもしれないんです」
青年は慟哭するように懺悔した。
彼女の親は確かに厳しかった。
でもそれは愛ゆえの過保護だ。
大学に行くか社会人になり自立すれば安心するだろうと。
鈴音の電話を笑って励ましたらしい。
いつもの親への反抗心からの愚痴だと。
2回も大学に落ちたのだ。親や環境のせいにしたくはなるだろう。
彼は少したしなめたらしい。
「育ててくれた親への感謝は忘れてはいけないよ?
君のそれはただの八つ当たりじゃないかな?
親御さんは………いい人じゃないか………」
その電話で彼女は泣いていた。
貯めたお金で他県に進学した彼の元へ行ってもいいか。と。
もうすぐ成人だからもう親から離れたいと。
「僕は………僕………は」
青年もまた親から養われている身だ。
一人暮らしはしているがそこに不安定な彼女を迎え入れるほどの度量はなかった。
そして。確かに思ったのだ。
いつまでも親を悪ものにする彼女への気持ちが冷めてきていることに。
「すがられても………困る。
君は………もっと頭が良くて自立した………いい子だと」
それだ。
女は思った。
青年も聡いからこそそれで後悔しているのだ。
決定的な言葉を投げてしまったと。
彼女の心を折る言葉を自分が紡いだと。
「電話は………そこで切れたの?」
「違い…ます。
鈴音は。笑った。そうだね。私まだ頑張ってみるって。
またねって。そう………そう言った………」
「携帯電話も財布も………置いて行ったのに。
元気に………頑張る………?」
青年は頭を掻きむしり泣き出した。
「わかるわけ………わかるわけない。
母親が狂ってるなんて。
綺麗で優しい母親に見えたんだ。
彼女………確かに他の女の子ほどきらびやかに飾り立てない娘だった。それすら………可憐で。
母親の過保護も気持ちはわかった。
彼女が外に出たら有象無象名の男が。虫がつく。
たしかにって思った。鈴音は………可憐だった。
慎ましく育てられていると思ってた。
母親は………人当たりも良くて………。
あんな事件が起こった後でもまだ信じられない自分がいるのに。
彼女が語った厳しいしつけも………。
だって………。しゃもじが砕けるほど背中や尻を叩いた?
時には肉叩き器で?包丁が壁に刺さったこともあるって。
信じられますか?
確かに………鈴音は………脱ぐことを………嫌がって。
それは奥ゆかしいからで………。
結婚までは………大事にするからって………約束………。
僕の………きを………ひくため………の………。
可愛らしい………あぁ………鈴音………鈴音鈴音鈴音鈴音」
ああ。青年は少女を愛していたのだ。
それも取り繕われたぎりぎりまで美しくあろうとした少女の幻想に取り憑かれている。
泣く彼女が唯一見せた本当の彼女だったのだろう。
「親戚………か。お友達………。親しい方はいたのかしら」
「親戚………。県外だって聞きました。
親友は数えるほどしかいません。
彼女達は………上京していて。
やっぱり………泣く度に慰めていたらしいとは聞いてはいました。
彼女達から………僕は………」
最後まで聞かずとも憔悴具合からわかった。
女の親友達は知っていたのだろう。彼女の傷を。
水泳の授業に出なかった理由も今更分かったところで遅い。
遅すぎたのだ。
結局。
事件が起こらなかったら彼も自分も。
気づかなかったのだろう。
青年など。
連絡のない彼女との交際は自然消滅したのだと思っていたらしいのだ。
未成年の彼に何ができただろうか。
大人の自分ですら気づかなかったのだ。
彼女は美しかった。
脆さも歪みもなかった。
ほとんど綻びはなく健全に見えた。
少し。抜けている。
そう思わせていたようにも感じた。
大人が勝手に思いたかったのか。
彼女は健やかだと信じたかったのだ。
その健やかさこそ異常だったのに。
彼女は女優だった。
彼女自身も認めたくなかったのかもしれない。
自身の親に真には愛されていないということを。
「こんな………情けない恋人がいたんだ。
男なんか………嫌になって………。
僕が………探してあげなきゃ。
彼女は………たぶん………僕に助けて………欲しがって」
「君。大学へ戻りなさい。
彼女のことは警察も私たちもさがしてるんだから。大人に任せて。
未成年の君は健やかに彼女の帰りを待つか。
………忘れなさい」
青年の瞳が揺れた。
その瞳がさらに揺れた。
「忘れ………?あのこを?
僕を………愛してた。愛してくれた………あのこを?忘れたら。
やり直せ………?いや。鈴音はもどる。
………僕がしっかりしないとだ。
今度こそ彼女の帰る場所にならなきゃ。
ごめんなさい。見苦しい姿を見せました」
「気を付けてお帰り」
「はい」
青年は少しスッキリした顔で頷いた。
新たな目標が出来たのだ。
吐き出すだけだしたら忘れる。
それが健全な人のあり方だ。
青年を誰が責められるだろうか。
一番身近な親が信じられないなら。
その他の大人などさらに信用に値しないだろう。
彼女が狂うまで叫ぶまで分からなかった大人達は彼女の人生で何人いるのだろうか。
自分と同じように違和感を抱きながらも生徒の数の中に埋もれさせ偽りの平穏に当てはめていた大人達には何の罪に問われるのだろうか。
「神よ………私を赦さないでください」
胸元の十字架を引きちぎり地面に投げつけたくなる衝動を抑えた。握りしめた金属のカチリとした音がする。
私の信仰も終わった音がした。
この世に神などいてたまるか。
いるならば。
何故私は今すぐ雷に打たれないのか。
「せんせい。手伝いましょうか?」
彼女は柔らかく笑う子だった。
よく資料を運ぶのも手伝ってくれた。
気が利くいいこだった。
いい子だったのだ。ずっと。
彼女の健やかさは救いだったはずなのに。
助けを求めてくれなかったことを理不尽にも責めてしまう。
学校にはたくさん彼女を慕う子がいたはずだ。
自分も。
健やかな彼女が眩しかった。
勿体ないと思っていた。
彼女ならもっと高みに行けるのに。と。
彼女は高みよりも普通こそ得難いものだったのだ。
彼女のアルトの美しい声しか思い出せなくなっていることに絶望した。
春が始まる。
からっ風が頬を撫でないことが冬の終わりを感じさせた。
彼女に置いていかれた私達にも平等に来る春が罪深いと思った。
「あれ………?本田。本田………?
ここかな。え………?ここっすか」
「鍵出せ」
「ちょ………ここらへんに………あ。あった」
彼等に会わなかったら私は一生罪深さに耐える人生だっただろう。
「あの………?
わたくし、生川と申します。
本田………鈴音さんの担任をしておりました」
「あ………。ども?」
「先生がこちらにどんな用で?」
若い男性と隈の濃い初老。
並び立つには凸凹の二人がこちらを怪訝そうに振り返る。
若いほうは伏見と初老のほうは犬飼と名乗った。
刑事さんだという。
現場を見に来たと。
「真実を見に来ました。
彼女の………真実を。彼女の足跡を」
彼女が生きている確信がほしいなど軽々しくは言えなかった。
「真実なんて。何の救いにはならんと思いますがね」
それでも。
人間でいるためには止まれなかったのだ。
その真実がどれだけ痛いものかも知らずに。
室内に同行させてもらった。
確かにそこでは物語のように救いは何もなかった。
いや。
何もなさすぎた。
「これは一見すると《自殺者》か《失踪者》の部屋だな」
2階の日当たりの悪い一角にあった彼女の部屋は生活感が何もなかったのだ。
ピンクのカーテンとお揃いのベットは整えられていた。
備え付けクローゼットには服が10着程しかない。スカスカだった。
勉強机に小さな本棚。それも安価なカラーボックスだ。
赤毛のアンが全巻綺麗に揃えられていた。
それだけ。
それだけしかない子供部屋だった。
豪邸内の他の部屋には思考を凝らした贅沢な調度品が各部屋にあるのに。
彼女の部屋だけ切り抜かれたような異質な空間だった。
「行方不明時も。所轄はそう判断しました。でも」
「母親が否定したのか」
資料に目を落としながら初老の刑事が呟いた。
そこに静かに若い刑事が頷いた。
「この部屋から持ち出されたものは何もない。
神隠しにでもあったように忽然と消えたんだ………と」
「こんな部屋なら家出したくなるわな。
いや。夜逃げか………?
彼女の失踪が事件じゃないなら。
それは未練がなかったってことだろな」
「これだ」
伏見と名乗った若い刑事が突然出窓のカーテンに隠されたものを掴み顔面真っ青になった。
彼の見つめる先には小さな達磨が飾られていた。
ここらへんでは馴染みの縁起物だ。
毎年買い換えるはずのそれは古い。
片目だけ黒く塗られたそれはピンク色で。
気に入ったのを通年飾ったのだろうか。
「彼女の《地獄》はここだ」
「………決まりか」
若い刑事は達磨を裏返した。
そして崩れ落ちた。
何事かと女は見守るしか出来なかった。
「お前。《物の香り》も嗅げるか。
死線潜ったもんな………そりゃそうか」
初老の刑事は淡々と嗚咽する若い刑事の首根っこを掴み表に出てしまった。
出窓から見えた庭では四つん這いで吐き戻す若い刑事の背中を初老の刑事が擦っていた。
残された達磨をふと手に取った。
裏側には見覚えのある繊細な彼女の筆跡が残されていた。
「助けにくる人はいない。
可愛い姫にもなれない。
私は待つ姫じゃなく王子様になりたい」
ーーーあぁ。貴女は悲劇のヒロインにもならなかった。
自分は何を見たかったのか。
彼女の嘆きや助けの声が記された日記か?
衣食住は最低限。
娯楽もない。
もしかしたら孤児院の子供のほうがもう少し私物があるのではないか。
物はその人の《執着》だ。
彼女は無欲だった。
無欲でなければここでは過ごせなかったのだろう。
でも。
安堵した。
本田 鈴音は《自分を信じていた》。
それは自殺する人の心理ではない。
神も親も大人も恋人も信じなかった彼女は自分で自分を救うことにした。
それなら。
彼女は《地獄》から逃げられたのだ。
そのことを祝福した。
「うわ………臭い………ここだ………ドブ臭い………」
裏庭から叫び声が響くまでは。
裏庭には小屋があった。
趣味の道具を保管するような小屋。
釣り竿や工具が規則正しく陳列されていた。
そこは一見すると何の変哲もない小屋だった。
若い刑事が泣きながら鼻を抑えて指差す先。
初老の刑事が絨毯を剥がした。
匂いなど何もないと感じる自分がおかしいのか思うくらいには彼等の動きは淀みなかった。
そこにあったのは小さな扉だった。
資料になかったらしい。
ここは犯行現場ではないから鑑識は入らなかったのだからと呟く二人の声はその扉の向こうの景色が見え始めてからまともに聞こえなくなった。。
その扉の下には狭いながらも地下室があった。
そこには。
夥しい量の写真と
小さめのワンピースの数々が飾られていた。
遠目から見ても異常な写真なのはわかった。
肌色ばかりが目立つ写真だったから。
その少女の容貌に既視感があった。
耳に心臓の音が響いた。
血塗られた殺人現場のほうがまだ救いがあった。
諦めがついた。
過去にできた。
呼吸が上手く出来ない。
彼女は。
死ぬよりも女が恐れる魂の尊厳を殺されることをされていた。
しこも一番安全に過ごしたい場所でだ。
「これは。
これらは………証拠品として押収されますか。
裁かれますよね?こんな………こんなこと………」
彼女の尊厳が周知に晒されてもそこから罪が暴かれるなら救いだと思いたかった。
「最重要被疑者死亡。
書類上の手続きだけでしょうね。
まず。年代からして時効………ですね。なら。
立件もないでしょうな」
「それ以上の………罪があったら」
同じ家に住んでいたのだ。
写真だけで済んでいたとはとても思えなかった。
「それも時効。もしくは《親告罪》です。
被害者がいないことには話にならない」
想像した通りの返答だった。
物語のような特例など何もなかった。
テレビならここで公安が押しかけるとか、国家の危機に少女が巻き込まれて人質に取られているとか。
《大きな権力》が弱いもののために働くはずだ。
勧善懲悪。
善しを勧め、悪を懲らしめる。
でもそれなら普通に見えた子供は。
物語でも救いがない。
救いがないことが普通だと分かってしまう自分に一番吐き気がした。
「つくづく。この世は神も法も………学校も。
子供を守れないんですね」
「死んでないなら幸せなほうだ。で成り立つ法治国家だ。
いや………。公務員のわたしらには耳がいたい」
渦巻くどす黒い気持ちを抑えきれなくなった。
「地獄に落ちればいい」
絞り出すように呟いた。
吐き気と嫌悪感をどうにか言葉にしないとどうにかなりそうだったから。
「ああ。同意だ。でも。
彼女地獄はここだ。
神は地獄なんか人類のためには用意してなんかいないさ」
彼はまだ餌付く若い刑事をさすっている。
「罪深い魂を裁くのは。
神よりも《幽玄異郷の民》だからな」
「い………?」
「あんたは知らんでいい」
犬飼という刑事はそれだけ言って、地下室を見下ろしたまま煙草も吸えない場所で指先を震わせていた。
伏見という刑事はまだ吐き気を堪えているのか、写真を一枚も直視できずに立ち尽くしている。
女は足が動かなかった。
《いのちのかなしみをしるもの》
命の悲しみを知りもの?
聞き間違いではない。
確かにそう言った。
だが今はそれよりも。
壁一面に貼られた写真。 年齢が上がるごとに減っていく服の面積。 笑顔の練習のような、作られた無表情。 そして最後の数枚は——
顔が写っていなかった。
「……これをやったのは父親ですか」
自分でも驚くほど平坦だった。
「殺人は母親単独犯で片付いてる。
そもそも母親が父親を殺したのは外だ。
家宅捜索はしたが………取りこぼしただろうな。所轄は」
犬飼刑事は低く答える。
「だが、この地下は“母親の趣味”とは考えにくい」
伏見が震える声で言う。
「床の傷……成人男性の靴跡、複数あります」
「ここが現場とも限らん。コレクションは汚さない質かもしれん」
沈黙。
資料にはない。 鑑識は入っていない。 母は夫を刺殺し自殺。 それで幕引き。
——綺麗に終わらせた。
「加害者が生きていれば違った」
犬飼の言葉が、鈍器のように落ちる。
「生きていれば?」
思わず聞き返す。
犬飼はゆっくり振り向いた。
「まだ彼女の死体は出ていない」
地下室の空気が変わった。
伏見が顔を上げる。
「失踪扱いのままです」
「財布も携帯も置いていった。
だが、ここに彼女の血痕はない。 争った形跡もない。 写真は古い。年代が止まっている」
犬飼は写真の端を示す。
「ここ数年の記録がない」
初めて胸が強く鳴った。
「つまり……?」
「最後の数年は撮られていない。 もしくは——撮れなかった」
静かな推論。
彼女は成長した。 門限は緩んだ。 泣き声は止んだ。
母は落ち着いたと近所は言った。
違う。
“興味の対象から外れた”のだ。
「達磨」
伏見が思い出したように言う。
「王子様になるって………書いてあった」
手の中に、あの達磨の感触が蘇る。
——助けにくる人はいない。
——私は待つ姫じゃなく王子様になりたい。
「彼女は逃げた可能性が高い」
犬飼は断言した。
「死ぬ気の人間は持ち物を整える。
ここまで空っぽの部屋を残すか?
これは——“元々空だった”だけだ」
生川の喉が震えた。
「でも……お金は?」
「貯めていた」
伏見が言う。
「浪人中、彼女は派遣の短期登録をしてます。 単発バイト、数回。 親に内緒で。 口座も別に持っていた」
「……!」
壁に手をついた。
力が抜けた。
あの笑顔。
「働いてまた挑戦します」と言った時の。
あれは。
逃走資金のあてがあったのか。
「母親が夫を刺したのは半月前。 娘の失踪はそれより前。 タイミングが妙だ」
犬飼は地下室を見渡した。
「もし母親が地下の存在を知ったとしたら?」
息が止まる。
「母親は崩れる。それが動機の可能性があるな」
伏見が低く言った。
「外面だけの完璧な家庭が壊れる」
「娘は消えた。 妻が何かを知った。 揉み合い。 刺殺。 自殺」
犬飼はため息をついた。
「だが、娘は死体がない」
目から涙が溢れた。
今度は後悔ではなかった。
「生きている……?あの子は………生きてるの?」
「断定はしない」
犬飼は冷静に言う。
「だが、地獄から自分の足で出た人間は強い」
地下室の空気が、わずかに軽くなる。
春の風が小屋の隙間から入り込んだ。
——私は王子様になりたい。
胸元の十字架を握った。
さっきまで憎んでいたそれを、今は離せなかった。
「神がいないなら」
小さく呟く。
「彼女は自分で神になったのね」
犬飼は一瞬だけ目を細めた。
「いや」
低く、静かに。
「裁くのは神じゃない。導くのも。
それをするのは死ななかった 生き延びた者だ」
外で風が鳴った。
春が来る。
今度こそ。
彼女のための春でありますように。
女はもう神には祈らなかった。




