2.侵入者
……あのブローチを、どうしてマリアは壊したんだろう。
デボラは薪になる枝を拾いながら、あまり家の遠くに行かないように注意しながら、そんな事を考えた。
ひゅうひゅうと冷たい風が吹いている。裾の破れた服は手首や足首が冷たくて寒い。
「……さむい……」
デボラは小さく呟いた。それは単なる感想にしかならない。
こういう目に遭う生活を今までしてこなかったから、デボラは防寒あれこれそれの詳しい事がわからなかった。
母と暮らしてた街の家では、寒い日に買い物に出る事はなかった。大体において御用聞きが来てくれて、必要な物を御用聞きから買い求めていた。
それ故に、この真冬の寒さの中、生き抜く方法がわからず、現実に対応できなくて四苦八苦しているのだ。
「火がつけられるだけましになったか」
デボラはぶつぶつと独り言を唱えて、廃屋のような別荘に戻った。
彼女の腕力は街の良いところのお嬢様程度で、たくさんの薪をかかえて歩く事は想定外の生活だった事も大きく、大量の薪は抱えられない。
そのためぎりぎり寒さをしのげるかしのげないか、という位の数しか持ち運べなかった。
「ヘレンは逃げたし……こっちも逃げられたらよかったんだけどな」
誰もいない別荘行き、という事実上の追放に等しい扱いは、最初はデボラ一人を追いやると言う事ではなかったのだ。
ヘレンという女の使用人が一人と、マークという男の使用人が一人ついて来ていた。
だがマークは、デボラとヘレンを別荘に連れてきたその日に姿をくらました。
その事実から、何も援助のない生活だと察したヘレンは、その一日二人で動いて疲れ果てて、寝入ったデボラを置いて逃げた。
そう言った事から、この場から逃げても良いのかと思った彼女も、また別荘から逃げようとしたのだが。
「あたしにだけ、一番近い村まで降りたらそれだけで、石を投げるように指示されていたとは思わなかった」
とにかく一番近い村まで降りて、その先はどこか遠くに流れていこうとしたデボラを待っていたのは、村の人達がデボラを見た途端に、それなりの大きさの石を投げつけてくると言う行為だった。
致命的な場所に当たらなかっただけ運がよくて、デボラは
「お嬢様を虐げた悪女だ! 追っ払え!」
「お前はこの先人間の暮らす場所で、生きていけると思うな!」
と村の人達が怒鳴った事から、自分だけは村とかに逃げ込めないように、侯爵夫人が村の人達に命令しているのだろう現実を知った。
……それは、彼女が知っている事を、べらべらと喋られたら厄介だからに違いなかった。
王子に愛されるマリアを虐げていたのが、侯爵夫人とユリアだったという真実をどこかに広められたら、それが噂だったとしても、侯爵夫人達に疑いの目を向けられる事に、なりかねない。
貴族にとって疑いの目というものはやっかいで、ない方が良い物だ。
そういった事実から、デボラをこの廃屋に閉じ込めておくという判断に至ったのだろう。
家の醜聞になるから死罪に出来ないので、仕方がなく。
「まあ、このまま本格的な冬が来たら、飢え死にか凍え死ぬんだろうけど」
それが現実だ。毎日たくさんの時間を使って食べられるものを探して、かろうじて渋抜きをした、苦い木の実をかじる彼女にとって、冬を越す事はとても厳しい。
「そっちの方が、侯爵夫人にもユリアにも得だろうな」
領地の隅に追いやられた悪女は、使用人達にも見捨てられて、一人飢えて凍えて死にました。
それが、口封じとしてはきれいな形になるのだろう。
そんな事が予想できてしまって、……それだからこそ自分を、王国の法律に則って死罪にしてもらうのではなく、領地の隅に追いやるという事を選んだのだろうとも、ここまで来れば気がつく。
悪女でも妾の子供でも、少女の命乞いをすればそれをした侯爵夫人とユリアは、世間的には慈悲深いと思われる。
その後、デボラとともに向かわせた使用人が、嫌がって逃げる事までは、侯爵夫人達の関与できない事とされるわけだ。
「母様のブローチを、どうしてマリアは壊したんだろう」
デボラは独り言を言うしかないので、そう呟いた。誰も聞く事のない言葉達だ。
デボラの母が、何も身を飾る物がないと悲しんだマリアに、これなら悪目立ちしないし、流行の形でもあるから、と譲ったブローチ。
マリアはそれを壊して……お母様の形見が壊されたとしくしく泣いていた。
そして壊したのはこちらとされて……それも王子様の怒りを悪化させたのだ。
「壊すくらいなら、くれたらよかったのに」
母の大事にしていたブローチだ。母が死んだ後も忘れられない物の一つ。
そうだ、家においてあった物のほとんどは、今どうなっているだろう。
彼女は着の身着のままで引きずられていって、荷物なんて何一つ持てない状態でここまで連れてこられたため、家においてあった色々な大事な物などの行方は、わからない。
「ブローチがあってもお腹なんて満たされないから、意味もないか」
デボラは諦め混じりに結論づけてから、薪の量を確認した。一晩は……越せるだろう。
そんな量の薪を抱えてふらふらしながらも、別荘である家を目指す。そこは廃屋とほぼ同じで……管理されてない所だった。ゆえに侯爵夫人はちょうど良いとデボラを押し込んだのだろう。
「え?」
薪の重さにふらふらと左右に揺れながら、家のかろうじて蝶番で動く扉を開けようとして、デボラは意味のほとんどない扉の鍵が、力任せに壊されている事に気がついた。
「物取りがここを狙うわけがない……じゃあなに」
扉を開け放った状態で立ち尽くしたデボラは、ここから本当は逃げたかった。
だが逃げていくあてもなければ、道中で石を投げられて酷い目に遭う未来しかない事から、薪を、一番まともと言えそうな部屋の暖炉に持って行くために、そのままぼろぼろの室内を進んだ。
物取り以外に、ここに来る人間の見当などつかない。だが物取りは、普通は場所を選ぶわけだ。
この廃屋に来た意味が全くわからない。だがデボラはここ以外に身を寄せる場所なんてないわけなので、ここの確認をしなくてはいけないのだ。
「……扉がいちいち開けられてる……というか開けようとして壊されてる」
デボラが閉じておいた扉のいちいちが、雑な力任せに開けられていて、なかなか悲惨な状態だ。物によっては扉自体が破壊されている様な有様である。
「諦めの悪い物取り……じゃあもう、物取りはどこかに行っているはず。ここにお金になるものなんて見つけられるわけがない」
デボラは一個一個状況を口に出して確認して、気力を奮い立たせて進んでいく。
そうして、一番ましな部屋……彼女が生活空間にしている部屋の前に立って、そこの扉の開け放たれているから、入り口から慎重に中をうかがった。
そして。
「く、くま……っ!!」
デボラは大声を出さないように必死になりながら、そう叫んだ。
部屋の中にある、デボラが使っていた、一番ましな寝床に、大きな体の熊が丸まっていたら、誰だって同じような反応をするに違いない。
「こ、ここ、ここ……冬眠場所にされてたの……っ」
熊の体は上下している。寝ているのかなんなのか。
街で育って初めて熊という生き物を見たせいか、恐ろしさから足が動かない。へたりこんで、座り込んで、それでばらばらと抱えた薪が床に落ちて大きな音を立てた。
デボラの心境は思い切り引きつった。頭の中が混乱状態に陥る。
やだ、やだ、大きな音なんて立てたくなかった! 熊にあったときの対処法って何だっけ? そうだ、ゆっくり慎重に、背中を見せないで下がるんだ。
そうしようとしても立てない。立って、体、立ってよ!!
頭はそういう指示を体に命令する。だが体は言う事を聞いてくれる気配などなく、そして。
「……あ?」
薪の落ちた大きな音で、熊の背中がひくりと動いて、のそりと熊の頭が持ち上がった。
そして低い低い低い、嗄れた声が、熊から響いた。
熊の体が持ち上がる。のろりとした動きで、熊の頭がこちらを向いた。
「……っ、あ、あ、あ……」
声なんて出てくるわけがないだろう。まともな発言が彼女の口から出てくるはずもない。
「……ふあああ」
しかし熊が、あくびをした。肌色の顎がデボラの目に見えて。
「はだいろ?」
デボラの口は勝手に動き、そこまで頭が回った事で、その熊が、熊の毛皮を頭から被った、どうやら人間の様だと気がついたのだった。
そう思ったら、緊張が一気に抜けたのかそれとも何なのか、意識が真っ暗になって、その場に倒れてしまったのだった。




