3.冬眠と謝礼
デボラは気絶したかったが、倒れ込んだ際に頭をぶつけて、その衝撃で意識を取り戻してしまった。
そして起き上がった姿勢のまま動く事を忘れて、その熊が彼女の方を見て、目をゆっくりと瞬かせた後に、またあくびをするのを見ているほかなかった。
それ以外にどうしろというのだ。
肌色がある、人間が熊の毛皮をまとう、そんな男に出会った経験など一つもない町育ちのデボラに、何かうまい言葉が思いつくわけもなければ、この状況を打開するためのとんちがあるわけでもない。
ただ、デボラの頭の中にあったのは、殺されたくない、死にたくない、そんな生存本能に似たものだった。
「……あ?」
動かないデボラを、その熊は無遠慮な視線で眺めていて、それだけで、何かを喋ろうとする事もしない。
まともに会話をするつもりがある様子ではない。
だが。
「おまえ。なんだ?」
ざらりざらりとした、夏の嵐の前触れの遠雷を連想させる声が、デボラを捉えた。
「なんだって。あたしは、ここの家主よ」
「……ふうん。ここも使えなくなっちまったか」
熊はそう言うと、のろりと立ち上がり、肩を回してからどこかに行こうとする。
「どこいくの」
「家主が戻ってきた家を、冬眠の場所にするわけもないだろ。その程度の感覚はある」
「……あなたはなんなの?」
「なんなのと言われる理由がわからない」
「だって、服じゃなくて毛皮を着ている人を、初めて見たから」
「これ剥がれねえんだよ」
「……は?」
「ずいぶん前のちびの頃に、魔女の姉ちゃんしこたま怒らせて、熊の毛皮が剥がれなくなった。そんだけ」
「何したら魔女を怒らせる事になるの……」
「魔女の姉ちゃんの菜園に、母ちゃんがどうしてもチシャ食べたいって言うから盗みに入った。あの年は魔女の姉ちゃんの菜園だけが、青々と育っててなあ。ほかの家の庭先のチシャは枯れ果ててて。妊婦だった母ちゃんが、どうしてもどうしてもって言うから、子供なら大目に見てもらえるって父ちゃんに言われて、素直に盗んだオレが馬鹿だった」
「……そう、なんだ」
「あんたは、なんだ? 家主」
「……色々あって追い出されて、ここに押し込められる事になった家主よ」
「ふうん」
熊は比較的温和な性格なのか、声の不穏さと比べると言動は穏やかな物で、少しデボラは安心した。……有無を言わさず殺される未来はなさそうだったので。
「まああんたの事情はどうだって良いさ。あーあ、せっかくの冬眠先がなくなっちまった」
「冬眠って、あなたは熊みたいに冬眠をするの」
「魔女の姉ちゃんは熊の呪いとか言ってたな、よくわからねえが。でもこの通り熊の毛皮はとれないぜ。そして身体能力は熊で冬眠する体質になって、この通り人語を解する中途半端というわけだ」
「家族は?」
「魔女の呪いのとばっちりが怖くて、生まれてくる妹に悪い影響があるとかないとかで、呪われた二日後には追い出された」
「ひどくない!? お母さんとお父さんに言われて、あなたはチシャを盗んだのに」
「そんなのよりも、呪いが実際に目の前に現れて、父ちゃんも母ちゃんも怖かったんだろうな。明日は我が身とか思っちまって、追い出すって選択肢しか見つからなかったんだろうよ」
「あなたあっさりしてるわね」
「魔女の姉ちゃんの所に、謝りに行ったら、十年の使用人って事で使われてくうちに、まあ割と割り切った」
「十年の奉公をしたの?」
「した。姉ちゃんにめちゃくちゃこき使われた十年だったけどよ、自分のおかしくなった力加減だの嗅覚だの何だのを、受け入れるには都合の良い十年だった」
「その十年の後、あなたはどうしていたの?」
「えーとだな。十年働いて、自由になって、あっちこっち渡って……まあ熊の毛皮の変わり者って感じで扱われて……波止場で働いて……農村で働いて……まああっちこっち転々と渡り歩いて、ここのあたりで落ち着いた」
「落ち着いたって……あなたの事をここの領主は知っていたの」
「知らねえだろ。たぶん」
「雑だ……」
デボラはこの三ヶ月、まともに誰かと会話する事などなく、ただ独り言を唱えて孤独を紛らわせていたため、こんな得体の知れない熊でも、しゃべれるだけで自分がまだ正気を保っている、と安心できた。
そして、会話できる相手に飢えていた事もあって、とにかく熊と喋っていたかった。
「雑だろ。普通雑なんだよ。オレみたいな流れ者の生活してりゃ。オレはここの山を歩き回って、この辺り一帯の村の人間がほしがる珍しい薬草だの、キノコだのを物々交換して、冬になったらこのぼろ屋で冬眠して、また春が来たらの繰り返しだ」
「この辺り一帯の村って……範囲はどれくらい?」
デボラの問いかけに、これくらい、と答えた熊に、デボラは目を見開いた。
「あなた、そんなに広範囲の人達と交流があるの!」
「考えた事もない。この季節はこの村。この季節はこの村。こういう時はこの村。そういう分け方で村回ってるぜ」
「……じゃあ、あたしの噂なんて聞いてるんじゃないの、本当は」
「どういう噂かによるぜ」
「領主の侯爵様のお嬢様を、使用人扱いした極悪女」
「……あー、あれか。って、あんたがそれ? どう見てもそういう女じゃないだろ」
「わかるの?」
「野生の勘」
「当てにならないものに頼ってるのね」
デボラがそう言うと、熊は首を傾けた。
「熊の呪いの恩恵だな。大体当たるんだぜ」
「そう」
「で、過去の話なんざ後回しでもいいよな。あんたここで暮らすんだろ」
「ほかに行く当てなんて何もないし、ここを出て行くのが見つかったら、石を投げられるし」
「オレより扱いが酷い目に遭ってるな……石なげるって、このあたりの村の感覚だと処刑寸前の刑罰だぜ」
「……そっか」
それくらい悪い事をしたと思われているのだ、と思うと、デボラは余計に村に逃げ込む選択肢がなくなった。
「そんな刑罰を受ける人生、あんたは受け入れてるのか? そもそもあんたのやった事って極悪なのか?」
「違う。……話し長いけど、説明聞く気ある?」
「長い話は歓迎だぜ。オレぁ娯楽が少ないんだ」
そう言って、熊がどかりとデボラの前に座り込む。話を聞く体勢になったのだ。
それに安心したデボラは、ゆっくりと、自分の身の上と、やった事と、巻き込まれたお家騒動の話をした。
一通り話し終わったデボラを見て、熊が言う。
「悪い事してねえな。あんたはただ、殺されそうな女の子を守ろうとしただけじゃねえか」
「うん。……でも何を間違えた事になったんだろう」
「そもそもその殺されそうな女の子を、かくまった初手だな」
「だって、本当に骸骨みたいな状態の子で」
「その子かくまったら即座に、都の父ちゃんに連絡するべきだっただろうな。で、その子は町の医者に預けるべきだった。それこそ、死にかけている子だから、治療の道具も何もないからお医者様に預かってもらったとか言ってな。そこで第三者巻き込んで、派手に騒ぐべきだった。下手にかくまって、変な事になったんだろうよ」
「そうだったのかな」
「跡取り娘に、使用人の服を着せて過ごさせたのもまずかっただろうよ。跡取り娘は血が逆流するくらいの屈辱だっただろうな。とばっちりで、命の恩人をこういう目に遭わせたくなるくらいに」
熊の思いもよらない言葉に、デボラは目を見開いた。
「マリアがあたしを恨む? 助けたのに?」
「お貴族様はメンツが大事。これ鉄則だぜ、覚えておくと良い。そのお貴族様の跡取り娘って言う矜持がある女の子に、目くらましに必要だからって言ったって、使用人の服を着せて過ごさせたら、矜持ボコボコ怒りの大噴火だ」
固まったデボラに、熊が続ける。
「殺してほしかっただろうよ。自分に侮辱を与えて屈辱を味合わせた妾とその娘なんてな」
母親殺したのもその女の子かもな、と熊は恐ろしい事をさらりと言って、それからもう一度立ち上がった。
「事情はあらかた聞いたが、オレはここを出て行くぜ。家主がいるならここを冬眠の寝床に使えねえからよ」
「……」
こんな状況だと聞いても、デボラを放置して出て行く。それは普通の考えだ。よほどのお人好しじゃなければ、この境遇のデボラを助ける道は選ばない。
そして、この熊以外にはもう、デボラとまともに会話をしてくれる生き物なんてこのあたりにはいない事を、デボラははっきりとわかってしまった。
石を投げるのが処刑寸前の刑罰なら、その刑罰を与えられたデボラの事を助けてくれる人など、この辺り一帯にいるわけがない。
この熊が、面倒な事に巻き込まれたくないと、どこかにいなくなる選択肢を選ぶのは当然だ。
誰だってとばっちりも巻き込まれ事件も嫌いだろう。それが、実際にお家騒動に巻き込まれる形になったデボラには、痛いほどわかったので、ここで助けてと言う事はとても言えなかった。
だが。
「でも面倒だ、ここを当てにして山を下りたんだぜ」
熊が立ち上がって周囲を見回してから、またどかりとデボラの脇に座ったので、彼女は目を丸くした。
「家主さんよお、冬の間だけオレを置いておいてくんな。獣よけにはちょうど良いぜ。熊の呪いは獣がすたこらさっさと逃げ出す強力な呪いだからな」
「……いいの」
「オレは何にもしないぜ。あんたの生活に手を出さないでごろごろと寝てるだけだ。そういう図体のでかい邪魔な物が増えるのを、許してくれるならな」
「わかった」
「そういうと思っ……あんた本当に、会話できる相手がほしかったんだな」
断ると思っての会話だったのだろう。熊は仰天した様に、鋭い目を丸くしてデボラを見た後に、こう言った。
「家主さん。あんたが運のある女の子で、この冬を越せたら……この場所から逃がしてやるよ。それが、冬眠の場所を貸してくれる女の子への、せめてものお礼ってやつだ」
「ありがとう!」
石を投げられる場所でないどこかに、逃げられるなら都合が良い。ここを逃げ出して、どこか遠くの新天地で、誰にも知られないで静かに生きる。
それは、とばっちりを受けたデボラにとっては夢のような話で、嘘でもいいから、そう言ってくれる相手が欲しかった、ぼろぼろの心の少女には、心底うれしい言葉だった。
そのため即座にお礼の言葉が出てきて、熊はこんな子で大丈夫だろうか、という目をした後に、またのそのそと寝台の上を占領したのだった。




