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十一、小さなお姫様

 蝉はまだ鳴いている。そろそろ夏も終盤だ。いい加減、鳴き止んだら良いのに。そう思うのは、人間の勝手な理屈なのだろうな、と桂は思う。明るい午前中の陽射しが客間に中途まで侵入し、それから逃れるように、瑠香が茣蓙の上で横になり、寝ている。紺のハーフパンツからすんなりした白い足が出ているのを見て、桂は思考に迫られる。瑠香は、無防備過ぎる。桂は瑠香の親でも兄弟でもない、他人で、男性だ。そんな人間にこうまで心を許して大丈夫なのだろうか。

 信頼されている、ということなのだろうが、桂は複雑だった。一緒の布団に寝ても熟睡出来るあたり、自分は瑠香から男として見られていないのではないだろうか。好意を抱かれている自覚があるだけにその点、悩む。逡巡していた桂の斜め後ろから、ごそ、と何か動く音がした。振り返ると、瑠香の籠バッグから、源九郎とアルトマイヤーが這い出て来ていた。籠バッグがお気に召したらしい。桂を気に掛けることなく、とことこ瑠香のもとに歩み寄り、脚に擦り寄る。瑠香が身じろぎし、色づいた唇が微かに動いた。

「……良いな。お前たちは」

 桂は半ば本気で、猫たちを羨んでいた。何の罪悪感もなく触れることが出来る。桂は溜息を吐いて、タオルケットを取りに廊下に出た。昨日は、三件、依頼があった。疲れもあるのだろう。瑠香が目覚めたのは、昼近くになってからだった。

「……桂」

「おはよう。よく寝てたね」

「……うん。おはよう。タオルケット、有り難う」

 寝起きの瑠香は潤んだ目を擦り、しどけなく、色気がある。視線を離せず、桂がぼんやり見惚れていると、瑠香がぽそ、と呟いた。

「今日は夜に、一件」

「――――日程を変更出来ないの? 昨日の今日で、キャパオーバーじゃないのか」

 瑠香が微笑んだ。膝に乗ったアルトマイヤーの黒い毛並みを撫でる。

「大丈夫。昼は、出前でも取ろうか」

「……うん」

 運ばれた冷やし中華を、二人で向かい合って食べる。桂は黙って細切りのハムと卵を、瑠香の皿に載せた。

「桂の分じゃない。後でお腹空くよ」

「瑠香は仕事があるんだから、栄養を摂っておきなよ。僕は瑠香の助手みたいなものだから」

 硝子コップに牛乳も波々と注いで、瑠香の皿の横に置いた。蝉の声は途絶えることを知らないようだ。(ひぐらし)はまだだろうか。あの郷愁誘う歌を聴いて、桂が思い浮かべるのは実家ではない。この家だ。瑠香が息をして、生活している。細い麺をちゅるる、と吸い、咀嚼してから、桂は瑠香を窺い見た。

「瑠香が、硝子屋を負担に感じる時が来たら、僕が働くよ」

 瑠香は驚いて目を丸くした。箸を置く。

「どうしてそんなこと言うの? そんな日は来ないし、それに、」

「子供時分から仕込まれたからね。和装関係の店なら、大体どうにでもなる」

「――――――――私から、硝子屋を奪わないで」

 泣きそうな声を聴いて、桂は我に帰る。顔を上げられない。きっと瑠香は今、悲しそうな表情をしている。

「ご馳走様!」

「瑠香」

 瑠香は食器をそのまま、風のように去って行った。冷やし中華はまだ少し残っていて、桂が割り増しした分にも手はつけられていない。栄養云々の話ではなかった。瑠香を心配する余り、桂は彼女の心を慮ることを忘れていた。硝子屋は瑠香の全てで、そこに桂が割り込む余地はない。酷い自己嫌悪に陥りながら、自分の冷やし中華を押し込むように食べ終えると、二人分の食器を洗った。

 桂の実家の呉服屋は、老舗の名店だった。幼い頃からその内に身を置き、育った桂は和装に関する知識、見識を自然と身に着けた。時々、夢想することがある。瑠香が、実家の店でもとりわけ上等な着物を(まと)い、櫛や(かんざし)で髪を飾る姿を。瑠香に似合う物を選び、着付ける自信が桂にはある。瑠香は、それを拒むだろうと思いながら。

 瑠香の姿は客間にない。桂は、それを見て、彼女の指定席である揺り椅子に座った。少し揺らすと、軽く軋む音が聴こえる。瑠香が今、泣いているかもしれない。泣かせたのは桂だ。自責の念が彼を苛む。

 しばらくそうしてから、桂は立ち上がると夕食の準備を始めた。気づかぬ内に時は過ぎ、空はうっすら薔薇色だ。透明な風が吹き抜け、季節の移ろいを告げる。

 夕食時、姿を現した瑠香は、普段と変わらない顔をしていた。(さば)の塩焼きを口に運びながら、慎重に語った。

「桂が、和装関係の店で働くとして」

「――――うん」

 検討していたのか、と桂は驚く。

「やっぱり、女性客が多いでしょう」

「そうだろうね」

「他の女性に、着物を見立ててあげたり、するの?」

「……仕事上、そういうこともあると思う」

「綺麗な櫛とか、その人に合うと思ったものを、桂が勧めたり?」

「……うん」

 瑠香の視線が半身になった鯖から桂に移る。澄んだ瞳が、真っ直ぐ桂の双眸を貫いていた。

「嫌」

 これ以上ない、明確な意思表示が食卓の上に飛んだ。

 蝉の声と、猫の声が絡み合って聴こえる。

「そんなことになるくらいなら、ずっとうちにいてよ。ご飯作ったり、お掃除とかしたりして、私を助けて。私は、硝子屋をやめることはないから」


 両者、かなりの時間、沈黙した。


「……瑠香。和装小物とか、興味ある?」

 瑠香は怪訝な顔になる。

「人並みには」

「じゃあ、今日の仕事が終わったら、客間で待ってて。渡す物がある」

 そう言って微笑む桂を、やはり瑠香は不思議そうに見つめた。


「これです」

 瑠香と同年代と思しき女性が差し出したのは、掌に載るサイズの、小さな硝子人形だった。精緻に着色されたお姫様だ。

「元は、病弱な姉に両親が外国土産で買ってきた物で。……姉が、昨年に亡くなった後は、私が形見にこれを受け取りました。姉は、病床でも枕元にこの人形をずっと置いていました。見ていると、心が慰められたそうです」

 瑠香は、受け取ったが、この宝のような硝子を食んで良いか、迷いが生じていた。後ろを振り向く。青碧の着流し姿で、懐手をした桂が立ち、瑠香を見ている。

 大丈夫。心配ない。


はりん


 病床にある、女性の記憶が見える。幼い頃から病弱で、ろくに学校にも通えなかった。けれど、両親と妹が愛してくれたから、彼らを愛しているから、耐えられた。


「……最後に、お姉様は、人形に、これからは妹を見守ってね、お姫様、と話しかけました」


 女性は泣き崩れた。硝子屋を営む年月、何度も目にした光景だが、見慣れるものではない。桃色のビー玉を差し出す震える手を、瑠香は包み込んであげたかった。

 彼女が帰った後、瑠香は揺り椅子に座り、空を見ていた。月が満ちようとしている。星は遠慮がちに光っている。それらの光はぼやけていた。

「泣かないで」

「泣いてないよ」

 傍らに立つ桂に反駁(はんばく)するが、語勢は弱い。硝子屋を続ける限り、瑠香はこれからも悲しみや苦しみに触れ、共鳴するのだろう。それが瑠香の選んだ道と言うのなら、桂は付き合うことにした。手に持つ桐の小箱を瑠香の手に持たせる。

「何……?」

「渡す物があると言っただろう? これだよ。開けてごらん」

 瑠香は虫の音を耳に、小箱に結ばれた古代紫の紐を解く。中には柔らかな紙に幾重にも包まれた、黒い漆塗りの櫛が眠っていた。瑠香はよく見ようと目を擦る。艶のある黒地には、桜、水流、月、雪の結晶の意匠がある。素人の瑠香でさえ、逸品だと判る。

「螺鈿や蒔絵の技法を駆使して一流の職人が作った物だ。櫛は、求婚にも、離別にも用いられる道具なんだ。瑠香に受け取って欲しい」

「……どうして」

「本当は、もう随分前から準備してたんだ。切り出す勇気が中々出なくて。……昼間は、泣かせてごめん」

 瑠香の手から櫛を受け取り、彼女の髪を掻き上げてそっと櫛を挿す。

 虫の音が消えた。満ちようとする月が見降ろしている。

 よく似合うと言って、桂が顔を綻ばせた。

「返事は、いつでも良いから」



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