内側からの閂
登場人物
浅倉 澪あさくら・みお 古い建物や資料の保存状態を調べる調査員。鳴瀬島の出身で、十年ぶりに島へ戻る。
前田征司まえだ・せいじ 元潮位観測員。島の記録館を長年管理してきた。解体を前に、澪たちを島へ呼び寄せる。
前田理花まえだ・りか 征司の姪。記録館の資料整理を手伝っている。紙の修復を学んでいた。
黒瀬達也くろせ・たつや 島の設備技師。記録館の電気や空調を一人で見ている。
夏目圭介なつめ・けいすけ 鳴瀬町役場の職員。島の公文書を町の倉庫へ移す手続きを担当する。
篠宮冬子しのみや・ふゆこ 島の宿「しおさい」の主人。かつて連絡船の乗組員だった。
曽根警部そね 島へ渡ってきた刑事。声を荒らげず、質問を急がない。
医師から、前田の詳しい所見が届いた。
左耳の後ろに受けた一度の打撃が、頭蓋内の出血を引き起こした。外から見える傷はほとんどない。倒れるまでに少し時間があり、その間に歩いた可能性もある。
「扉の閂を、前田さん自身がかけたのかもしれません」
澪が言った。
「そう考えれば、密室は作られたものではない」
曽根は、乾燥室の扉を調べた。閂の内側には、木枠を横切る方向に新しい擦り傷がある。鉄の棒を動かしたときにできたものだろう。扉の外側には、同じ傷はない。
「この傷は最近のものですか」
「古い傷の上に、新しい擦れがあります」
曽根が答えた。
「前田さんが閂を動かしたと断定はできません。でも、外から動かされた形跡もない」
理花が扉の内側を見つめた。
「叔父は、襲われたあとに自分で部屋を閉じた?」
「その可能性があります」
曽根は、閂の根元を拡大して撮影した。
「ただ、どうして閉じたのかは分からない。犯人がまだ近くにいたのか。外へ出たのを見て、誰も入れないようにしたのか」
澪は、前田の右手についた鉛筆の粉を思い出した。彼は左利きだった。頭を打たれたあと、左手がうまく動かず、右手で何かを書こうとしたのかもしれない。
「二時十一分に襲われて、二時十七分に閂をかけた」
澪は言った。
「六分間です」
「その時間に、何か記録を残そうとした?」
曽根は、観測紙に残る二つの時刻を見た。
二時十一分。二時十七分。
六分の差は、三十六年前に潮位計が待った時間と同じだった。
「二時十七分という時刻を、誰かが選んだ。前田さんが倒れる前に、最後に書いた時刻かもしれない」
「それなら、廊下の時計を止めたのは犯人ですね」
「そうでしょう。前田さんが自分で閂をかけたあと、犯人は廊下の時計を二時十七分に合わせた」
「でも、犯人が記録館を出た時刻は分からない」
「足跡と窓の水滴を作る時間はあった。あれは、海水ではなく、乾燥剤の液体だった」
曽根は、保守室の受け皿をもう一度調べた。液体の量は、先日よりわずかに減っていた。受け皿の縁には、指で拭ったような跡がある。
「誰かがここから液体を取った」
「前田さんが?」
理花が聞いた。
「可能性はあります。ただ、彼の部屋に残っていたコップには、乾燥剤の液体が入っていた。誰かが使ったのかもしれない」
「コップは凶器だったんでしょうか」
澪が尋ねた。
「まだ分かりません。ガラスの底が、前田さんの頭に当たった傷と合うかどうかは、確認中です」
黒瀬は、保守室の棚を閉じた。
「その装置を使ったのなら、仕組みを知っている人でしょう」
「あなたも知っている」
曽根が言った。
「そうです」
黒瀬は否定しなかった。
「前田さんも知っていました。理花さんは、紙の状態を見に来ていた。夏目さんは、資料を移すために何度も出入りしている。冬子さんも、長年この建物に来ている」
「つまり、誰でも使えた?」
「ここへ来たことがある人なら、受け皿の場所は分かるかもしれません」
黒瀬は、視線を受け皿に戻した。
「でも、六分の遅延装置を知っていた人は限られます」
「誰ですか」
「前田さん。私。それから、昔の記録を読んだ人」
曽根は、三十六年前の台帳を開いた。二時十一分に潮位が警戒線を越え、二時十七分に鐘が鳴った。間に「舟を待て」という指示があったと冬子は言う。しかし、機械には六分の遅延装置があった。
「冬子さんが聞いた『待て』は、機械の確認を待てという意味だったのかもしれません」
澪が言った。
「それとも、鐘を鳴らす前に何かを待つよう、誰かが言った」
曽根は、記録紙の「待て」の筆圧を確かめた。
「三十六年前の六分間と、昨夜の六分間。偶然にしては似すぎています」
「同じ人が、同じように待たせた?」
「あるいは、誰かが同じ時間を選んだ」
澪は、前田が亡くなる前に呼び寄せた人たちの顔を思い浮かべた。冬子、夏目、黒瀬、理花。皆が、三十六年前の記録と何らかの関わりを持っている。
「前田さんは、誰に『待て』と言われたのかを、知っていたんでしょうか」
「それを確かめるために、全員を呼んだのかもしれません」
曽根は台帳を閉じた。
その夜、潮位計はまた小さく音を立てた。水位の連結棒が動き、歯車が一つ進む。装置の針は六分の目盛りへ向かって、ゆっくり進んでいった。
誰かが待っているのか。
機械が待っているのか。
その違いを、前田は知っていたはずだった。




