ルーファス・アヴァロン(教え子・教師・友人)
グラディスがトロイに誘拐された事件。
救助に駆け付けて目の当たりにした光景が、ずっと私の心を揺るがしている。
その深夜、長い一日を終えてやっと屋敷に帰り着いてからも、脳裏から消えないままだった。
常に大胆で大らかで強気な顔しか見せなかった少女の、あまりに弱々しい血に染まった姿――支えてやらなければ、今にも崩れ落ちそうに見えて、思わず手を伸ばした。
けれど彼女はその場で転移して、忽然と消えてしまった。トリスタン様が問題ないとおっしゃるならきっとそうなのだろうが、だからと気が休まるわけではない。
それから父は、ずっと難しい表情を崩さない。
叔父のアンセル共々、そのことに一言も触れようとはせず……しかし内心の動きは、手に取るように察せられた。
「ルーファス……グラディス嬢は……」
居間の扉を閉じて二人きりになった途端、探るような、それでいて確信した様子でそこまでを呟いて、口を噤んだ父。
私は無言で頷く。
「なぜ今まで黙っていたのだっ。一体いつから気付いていた? トリスタンもクエンティンも……いや、それどころか、王子までご存じではないかっ?」
「それは……」
言葉に詰まる私に、父も少し冷静さを取り戻す。
「いや、すまん。分かっている。私も少し動揺しているようだ。ご本人がそう望まれているのなら、もちろんそれを最優先にするつもりだが……。――やはり、見舞いも挨拶も伺えないというのも、なんとも不義理というか……割り切れないものだな……」
いつもどこか飄々ととぼけている父も、混乱している。私もそうだ。
「はい……関わらないのが、一番ご迷惑をかけない方法かと」
「――うむ」
前世のあの方を知る者は、全員例外ではない。あの先生の打ちひしがれた姿に、誰もが言葉もなかった。
先生が心の奥底に閉じ込め続けてきた陰りに、直接爪を突き立てるような……トロイという存在が、グラディスにとって、ある意味でどれだけ特別なものであったのか、初めて理解した。
トロイを狂わせてしまった、「転生」という苦悩――おそらくは、同じ闇を抱えた者として。
「何をひそひそとしているのですか?」
突然扉を開け、割って入って来たのは、妹のクローディアだ。
私たちが尊敬する方の慟哭に動揺したように、私たちの狼狽した様子を不安に思わせてしまったようだ。
だが、理由を話すわけにはいかない。
「職務上内密の話だ。お前は心配しなくていい」
いつもなら父の指示に素直な妹が、今回は引き下がらなかった。
「ラングレー家のグラディス救出任務から帰ってから、お二人とも変です! 陛下から直接の緘口令が敷かれましたし、一体何があったのですか? あの者の非常識は有名ですから、何か煩わされるような厄介事を被っているのではありませんか」
「そんなことではない。緘口令が出たのなら、その件には触れるものではない」
クローディアはなおも食い下がる。
「理解できません! ナイフを向けられたくらいで恐怖に身動きもできなくなるような情けない腰抜け、お二人が気に留める価値もありません!」
貴族の義務を果たさず好き勝手に振る舞ううつけ者――世間に流れる情報だけで、妹はグラディスにそんな悪印象を持っていたようだ。
無抵抗で誘拐される現場を目撃したことで、軽蔑の度合いを更に深めてしまった。
それは誤解だと、私がここで擁護しても、より悪循環に陥るだけだろう。一体どうしたものか。
正義感が強く一本気すぎる妹。厳しい修行に励み、常に自分を強く律するあまり、他人にもそれを当然のように求めてしまう。
以前から四角四面で融通が利かない面が気になっていたが、思春期に差し掛かったせいか最近潔癖な傾向が度を越してしまっている。先行きが心配だ。
ザカライア先生との出会いがなければ、きっと私もこのように育っていたのだろうと思うと、改めて己の幸運を思い知る。
それだけに、妹が不憫にも思える。これはもう一人の、いたかもしれない自分なのだ。
私が先生から教えられたものを、何とかこの子にも与えられればいいのだが。
不安を抱えたまま、事件から二日後、グラディスはいつも通りに登校してきた。
日常の接点がほとんどない私と違って、遠慮なく会いに行ける生徒たちが羨ましい。
遠くから窺い知れる限りでは、特に変わった様子は見えないが、真に受けるわけにはいかない。
子供の頃には気付かなかったが、先生は本心を隠される方だから。
戦闘指導の授業でマクシミリアンと接したが、時折気落ちした表情をのぞかせるのも気になる。やはり、グラディスに何か問題でもあるのではないだろうか?
いや、おそらく、別の理由なのだろう。
復帰したグラディス――注意深く見れば、確かに変わった部分もあった。以前よりずっと生き生きしている。前にもまして、光り輝くように美しくなった。
そしてその目が時折、誰に向けられているのか――傍にいるだけに嫌というほど痛感させられていることだろう。
彼は、少し前の私と同じ心境にあるようだ。徐々に現実を受け入れて、自分の心を立ち直らせる作業。
いつか、お互いに家を継いで対等な立場になった時にでも、本音で語り合える日が来るかもしれない。
すでにきっぱり振られているのに、我ながら未練がましいことだと、思わず失笑する。
かけがえのない相手としての想いが、恩師としてのものか、それとも気になる女性としてのものなのか――私は答えを出すのが遅かった。断られてから、これが失恋だと自覚したのだから。
その身を案じるあまり、曖昧なままでプロポーズを敢行したことは、今となっては男として大きな不覚だったと恥じ入るばかりだ。
グラディスの心を動かすことなど、私にはどの道できなかったのだとしても……。
それからは、お互い何事もなかったかのように、表向きは教師と生徒としての態度と関係を貫いている。――貫けて、いると思う。
今もまだ胸の痛みは感じるが、彼女が心穏やかに、気持ちを陰らせることなく日々を過ごせているなら、それでいい。
だから、確かめずにはいられなかった。
廊下でたまたま姿を見かけたチャンスに、教師として不自然にならないよう声をかけた。
短いやり取りでもいい。間近で見て声を聞けば、今の彼女の本当の姿が見えるはずだ。
知ったところで、私にどうこうできることなどないのだとしても、何もしない理由にはならない。
「はい、もうすっかり。先日はご助言いただいてありがとうございます」
体調を尋ねた私に、グラディスは当たり障りのない言い回しで礼を返す。
自責の念に駆られる姿に居ても立ってもいられず、どうにか慰めようと発した言葉に対してのものだろう。
しかし返答よりも、私に向けられたその表情に、目を奪われた。
長い時間をかけて積もっていた澱が、全て洗い流された後の澄み渡るような眼差し。――昔からなんとなく感じていた壁がきれいさっぱり取り払われた、どこまでも晴れやかな笑顔だった。
「――そうか」
一言だけ答える。かすかな切なさと同時に、深い安堵が胸に広がった。
長い長い時間をかけて、本来あるべき場所にようやく戻れたのだろうと、理解できた。
心から幸せであるなら、それでいい。何がどう変わろうが、あなたへの感謝と忠誠は、この先も少しも揺らぐものではない。
たとえこの笑顔を引き出せるのが、自分ではなくとも。
結局私は彼女にとって、教え子の一人にすぎなかった。
そして今は、教師の一人。
だが、それではやはり寂しすぎるとも思う。
あなたの新しい人生の、せめて友人にはなれるよう、この先は目指してみよう。
――いずれ、教師の立場を辞した時には……。
この時、己の気持ちの整理に意識を割かれていた私は、気付かなかった。
我が家の猪突猛進な問題児が、彼女に対して今まさに、私とは別の意味で抑えがたい感情を燃え上がらせていたことを。




