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二天一流の剣豪、ゾンビパンデミックを無双する  作者: 猫撫子


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第二話 血路を切り開け

午後三時二十分。

 宮本蓮たち六人は、山へ続く道路を目指して歩いていた。

 空には黒煙が立ち上り、遠くからは絶え間なくサイレンが響いている。

 普段なら車が行き交い、買い物客や学生たちで賑わっている住宅街も、今は不気味な静寂に包まれていた。

 道端には乗り捨てられた自動車が並び、開け放たれた玄関からは家具が散乱した家の中が見える。

 時折、路地の奥から人間のものとは思えないうめき声が聞こえてきた。

 それでも、蓮は歩みを止めなかった。

「お兄ちゃん、疲れてない?」

 背中から小さな声がした。

 蓮は顔を少しだけ横に向ける。

「俺は大丈夫だよ。小春は?」

「私も大丈夫!」

「そうか。でも、疲れたらすぐに言うんだぞ」

「うん!」

 十二歳の従妹、宮本小春は、蓮の背中にしがみついていた。

 先ほどから小春は自分で歩こうとしていたのだが、蓮は危険な場所では彼女を背負うことにしていた。

 小春自身は歩けると言い張っていたが、感染者から逃げる際に足を挫いていたのだ。

 大した怪我ではないものの、無理をさせるわけにはいかない。

 蓮にとって小春は、何があっても守らなければならない大切な家族だった。

「……いいなあ、小春ちゃん」

 少し後ろを歩いていた陽菜が、羨ましそうに呟いた。

「何が?」

 隣を歩く美月が尋ねる。

「だって、蓮くんにおんぶしてもらってるんだよ?」

「……陽菜、今そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」

「分かってるけどさあ」

 陽菜は頬を膨らませた。

「私だって疲れたら蓮くんにおんぶしてもらいたいもん」

「……私も、少しだけ羨ましいとは思うけど」

「えっ、美月も?」

「ち、違う! そういう意味じゃなくて!」

 美月の顔が赤くなる。

 双子の姉妹である二人は、顔立ちこそよく似ているが、性格は対照的だった。

 姉の美月は冷静で慎重。

 妹の陽菜は明るく積極的。

 しかし、蓮に対する気持ちだけは、二人ともよく似ていた。

 道場で初めて蓮に会った日から、彼女たちは彼に憧れていた。

 剣術を教えるときの真剣な眼差し。

 自分たちが失敗しても決して馬鹿にせず、何度でも丁寧に教えてくれる優しさ。

 そして、いざというときには誰よりも頼りになる強さ。

 そんな蓮のことを、二人はいつしか特別な存在として意識するようになっていた。

 ただし。

「蓮くん、私も少し疲れたかも!」

 陽菜がわざとらしく肩を回す。

「そうか。無理はするなよ。荷物が重いなら、少し俺が持とうか?」

「……そうじゃないんだけどなあ」

「ん?」

「なんでもない!」

 陽菜は顔を赤くしてそっぽを向いた。

 そのやり取りを見ていた剛が、呆れたようにため息をつく。

「お前ら、こんな状況でも通常運転だな……」

「剛、何か言ったか?」

「いや、何でもねえよ」

 剛は頭を振った。

 蓮の鈍感さは、もはや才能の域に達している。

 世界が崩壊しようとしている状況でも、少女たちの恋心にはまるで気づかない。

 剛は親友として、そのことが少しだけ気の毒になった。

 もちろん、蓮にとって今は恋愛どころではないのだろう。

 守らなければならない人間がいる。

 生き残らなければならない。

 それが最優先なのは間違いなかった。

「蓮くん」

 今度は凛が声をかけた。

「どうした、凛?」

「少し休憩しない? みんな、そろそろ疲れてきていると思う」

 蓮は全員を見回した。

 小春は背負っているから分からないが、凛も双子も歩き続けている。剛も大きな荷物を持っていた。

 自分は鍛錬で体力をつけているが、ほかの五人は違う。

「……そうだな。少し休もう」

 蓮は近くにあった小さな公園を指さした。

 遊具のある公園だったが、今は誰もいない。

 ベンチのそばには、子供用の自転車が倒れていた。

 蓮は周囲を確認してから、全員を公園の奥へ誘導した。

「ここで十分だけ休憩する。水分補給を忘れるなよ」

「はーい」

 陽菜がベンチに腰を下ろした。

 美月も隣に座り、リュックから水を取り出す。

 凛は小春の足を確認した。

「小春ちゃん、痛くない?」

「うん。もう大丈夫だよ」

「本当? 無理しちゃ駄目だからね」

「ありがとう、凛お姉ちゃん」

 小春は笑った。

 凛は優しく頭を撫でる。

 蓮はそんな光景を見て、少しだけ表情を和らげた。

 幼い頃から凛を知っている。

 昔から面倒見がよく、誰かが困っていれば放っておけない性格だった。

 だからこそ、蓮は凛を信頼していた。

 自分が前に出て戦っている間、少女たちを任せられる。

 それは、今の状況では何よりも心強かった。

「蓮くんも休んだら?」

 凛が言った。

「俺は見張りをしているよ」

「でも……」

「大丈夫。こういうのには慣れてるから」

「……分かった。でも、絶対に無理しないでね」

「ああ」

 蓮は公園の入り口に立ち、周囲を警戒した。

 腰には二本の刀。

 祖父から受け継いだ、二天一流の象徴。

 まだ実戦で刀を振るった回数は少ない。

 だが、蓮の身体には、幼い頃から積み重ねてきた鍛錬が染みついていた。

 相手の動きを見る。

 間合いを測る。

 呼吸を読む。

 そして、必要な瞬間に動く。

 それだけだ。

 どれほど相手が異常な存在であっても、基本は変わらない。

 蓮は静かに目を閉じた。

 風の音。

 遠くで鳴るサイレン。

 路地の奥から聞こえる、かすかな足音。

 その中に、妙な音が混じっていた。

 タッ。

 タッ。

 タッ。

 一定の間隔で、何かが地面を叩いている。

 蓮は目を開けた。

「……来たか」

 公園の入り口に、三体の感染者が現れた。

 そのうち二体は、これまでに何度も見た通常の感染者だった。

 しかし、残る一体は違った。

 身体が異様に大きい。

 肩幅は人間の倍近くあり、腕の筋肉が不自然に膨れ上がっている。

 顔は青白く、口元から血液が垂れていた。

 そして、その目は蓮をまっすぐ見つめていた。

 まるで、獲物を選んでいるかのように。

「みんな、立て!」

 蓮が叫んだ。

 剛が即座に立ち上がる。

「何だ!?」

「感染者だ。しかも、普通の奴じゃない」

 少女たちが一斉に立ち上がった。

 蓮は刀の柄に手をかける。

 通常の感染者二体が走り出した。

 蓮は抜刀した。

 銀色の刃が夕陽を反射する。

 一歩。

 半歩。

 最小限の動作で敵の攻撃をかわし、すれ違いざまに刃を振るう。

 二体の感染者が地面に倒れた。

 少女たちが息を呑む。

 だが、蓮はすぐに刀を構え直した。

 大柄な感染者が動いたからだ。

 その巨体からは想像できないほど速い。

 地面を蹴り、一直線に蓮へ突進してくる。

「蓮!」

 剛が叫んだ。

 蓮は正面から受け止めなかった。

 身体を横へずらし、相手の突進を紙一重でかわす。

 しかし、感染者はそのまま方向を変え、再び蓮へ襲いかかってきた。

 速い。

 しかも、動きが単調ではない。

 蓮は一瞬で判断した。

(力任せに攻めてくるだけじゃない……!)

 感染者の拳が振り下ろされる。

 蓮は刀の峰で軌道を逸らし、足元へ踏み込んだ。

 そのまま身体を捻り、斬撃を放つ。

 刃が感染者の腕を切り裂いた。

 だが、感染者は怯まなかった。

 むしろ、口を大きく開けて笑うような仕草を見せた。

「……面白い」

 蓮の目が細くなる。

 この感染者は、痛みを感じていない。

 それだけではない。

 蓮の攻撃を見て、次の動きを変えようとしている。

 先ほど戦った個体よりも、さらに厄介な相手だった。

 感染者が再び突進する。

 蓮は腰から短刀を抜いた。

 二本の刀が、左右の手に収まる。

 長刀が敵の攻撃を誘い、短刀がその死角へ滑り込む。

 右。

 左。

 交差。

 蓮の身体が流れるように動く。

 二天一流。

 その真価は、単に二本の刀を振るうことではない。

 相手の意識を長刀へ引きつけ、短刀で死角を制する。

 攻防を分けず、二本の刀を一つの動きとして扱う。

 祖父から何度も叩き込まれた技術だった。

 感染者の動きが止まった。

 巨体が地面へ崩れ落ちる。

 蓮は刀を構えたまま、しばらく相手を観察していた。

 やがて、動かなくなったことを確認し、ゆっくりと刀を下ろす。

「……終わった」

 剛が口を開けたまま固まっていた。

「お前……今の……」

「何だ?」

「いや、何だじゃねえよ! あの化け物、俺だったら絶対に正面から止められねえぞ!」

「正面から止める必要はないだろ」

「そういう問題じゃねえ!」

 剛は頭を抱えた。

 凛たちは、蓮の姿をじっと見つめていた。

 長刀と短刀を手にした蓮。

 その姿は、いつもの制服姿とはまるで違って見えた。

 恐怖に満ちた世界の中で、彼だけが別の場所に立っているようだった。

 小春は胸の前で手を握りしめた。

「……お兄ちゃん、すごい」

 美月も頷く。

「本当に……すごいね」

 陽菜は目を輝かせていた。

「格好いい……」

 凛は何も言わなかった。

 ただ、蓮の横顔を見つめていた。

 彼が強いことは、昔から知っている。

 けれど、今の彼は、これまで見たことがないほど遠い存在に思えた。

 それでも。

 蓮が振り返り、いつものように笑ってくれたとき。

 凛は胸の奥が熱くなるのを感じた。

「みんな、怪我はないか?」

「うん!」

 小春が答える。

「大丈夫です」

 美月も頷いた。

「私も平気!」

 陽菜が手を上げる。

「私も大丈夫」

 凛が答えた。

「そうか。よかった」

 蓮は刀を鞘へ収めた。

 そして、倒れた感染者たちを見つめる。

「……急ごう。ここに長居するのは危険だ」

 全員が頷いた。

 ※

 午後四時。

 蓮たちは、公園を離れて再び山へ向かっていた。

 先ほどの大柄な感染者との戦いで、蓮は一つの確信を得ていた。

 感染者は、ただ増えているだけではない。

 個体によって身体能力に差がある。

 そして、一部の個体は、人間の動きを学習している可能性がある。

 もしそうなら、今後はさらに危険になる。

「蓮、さっきの奴だけどよ」

 剛が隣を歩きながら尋ねた。

「どう思う?」

「身体能力が異常に高かった。筋力も、反応速度も、普通の人間とは違う」

「だよな……」

「それに、俺の動きに合わせて攻撃を変えていた」

「やっぱり、考えて動いてるってことか?」

「断言はできない。でも、そう考えておいたほうがいい」

 剛は険しい表情を浮かべた。

「……冗談じゃねえな」

 ただでさえ、感染者は痛みを感じず、噛まれれば感染する危険がある。

 それなのに、身体能力まで進化しているとなれば、普通の人間が生き残るのは難しい。

 蓮は前方を見つめた。

「だからこそ、山へ向かうんだ。人が多い場所に留まるのは危険だ」

「確かに、そうだな」

 剛は頷いた。

 そのとき、陽菜が声を上げた。

「あっ、あそこ!」

 彼女が指さした先には、道路脇に停まった一台のワゴン車があった。

 車体には大きな傷があり、フロントガラスも割れている。

 しかし、運転席には誰もいなかった。

「車か……」

 蓮は足を止めた。

 山奥の別荘まで、徒歩で向かえば数時間はかかる。

 しかも、夜になれば視界が悪くなる。

 車が使えるなら、そのほうが安全だ。

「剛、車の中を確認してくれ」

「了解」

 剛が慎重に近づく。

 運転席を覗き込み、後部座席を確認する。

「誰もいねえ。鍵も……おっ、あった!」

 剛がキーを掲げた。

「これ、使えるかもしれねえぞ!」

 蓮は車体を確認した。

 前方の損傷は大きいが、エンジンが無事なら動く可能性はある。

「試してみよう。ただし、音で感染者が集まるかもしれない。周囲を警戒してくれ」

 剛が運転席へ乗り込む。

 キーを差し込み、回した。

 キュルルル……。

 エンジンがかからない。

「くそっ、駄目か?」

 もう一度。

 キュルルル……ブォン!

 エンジンがかかった。

「よっしゃあ!」

 剛が歓声を上げる。

 その瞬間だった。

 遠くから、無数のうめき声が聞こえてきた。

「……おいおい」

 剛の顔が引きつる。

 道路の向こうから、感染者たちが姿を現した。

 一体。

 五体。

 十体。

 その数は、あっという間に増えていく。

「全員、車に乗れ!」

 蓮が叫んだ。

 少女たちが後部座席へ駆け込む。

 小春は凛の隣に座り、美月と陽菜は反対側へ乗り込んだ。

 蓮が助手席へ飛び込む。

「剛、出せ!」

「分かってる!」

 ワゴン車が急発進した。

 感染者たちが車体へ飛びつく。

 窓を叩き、ボンネットへ這い上がろうとする。

 剛はハンドルを切り、道路を塞ぐ車両を避けながら走った。

「うおおおっ! どけどけどけえっ!」

 車体が大きく揺れる。

 少女たちが悲鳴を上げた。

「きゃあっ!」

「大丈夫か!」

 蓮が振り返る。

「う、うん!」

 凛が答えた。

「小春ちゃんも大丈夫!」

 小春は凛の腕を握りしめていた。

 美月と陽菜も、互いの手を握っている。

 蓮は前を向いた。

 道路の先に、横転したトラックが見える。

「剛、右だ!」

「分かってる!」

 剛はハンドルを切った。

 ワゴン車が細い路地へ滑り込む。

 その直後、背後から衝撃音が響いた。

 感染者が車体へ飛びついたのだ。

「うわっ!」

 陽菜が悲鳴を上げる。

 窓ガラスに、血まみれの顔が張りついていた。

 感染者が口を大きく開け、ガラスへ噛みつく。

 バキッ。

 亀裂が走った。

「蓮くん!」

 美月が叫ぶ。

「大丈夫だ!」

 蓮は短刀を抜いた。

 窓を開ける余裕はない。

 彼は身体をひねり、感染者が車体へしがみついている位置を見極めた。

 そして、ガラス越しに相手の動きを確認しながら、刀の柄で窓枠を叩いた。

 ガラスが砕ける。

 同時に、蓮は感染者の腕を斬り払った。

 感染者が車体から落ちる。

「よし!」

 剛が叫んだ。

 しかし、安心するのは早かった。

 道路の先に、別の感染者が立っていた。

 しかも、二体。

 どちらも四つん這いで、こちらを見つめている。

「……またかよ!」

 剛がブレーキを踏む。

 車体が激しく揺れた。

 感染者たちは、まるで待ち構えていたかのように左右へ散った。

 そして。

 ワゴン車が通り抜けようとした瞬間、二体が同時に跳躍した。

「伏せろ!」

 蓮が叫んだ。

 片方の感染者がフロントガラスへ激突する。

 もう片方が車体の屋根へ飛び乗った。

 ガラスに大きな亀裂が走った。

「おい、蓮! どうする!?」

「速度を落とすな!」

「このままじゃ、ぶつかるぞ!」

「いいから進め!」

 剛は歯を食いしばり、アクセルを踏み込んだ。

 ワゴン車が加速する。

 蓮は助手席の窓を開け、身を乗り出した。

「蓮くん、危ない!」

 凛が叫ぶ。

 蓮は答えなかった。

 屋根にしがみつく感染者が、車内を覗き込もうとしている。

 蓮は長刀を抜いた。

 そして、身体を捻り、屋根へ向けて一閃。

 感染者が車体から転がり落ちた。

 直後、フロントガラスへ張りついていたもう一体が、蓮へ向かって腕を伸ばした。

 蓮は短刀を突き出し、相手の動きを止める。

 そのまま身体を引き、感染者を車体から引き剥がした。

 道路へ転がり落ちた感染者は、後続の車両にぶつかって見えなくなった。

 蓮は窓を閉めた。

「……ふう」

 剛が呆然とした。

「お前、走ってる車から身を乗り出して戦う奴があるか!?」

「仕方ないだろ。放っておいたら、みんな危なかった」

「そうだけどよ!」

 剛は大きく息を吐いた。

「お前と一緒にいると、心臓がいくつあっても足りねえ……」

 蓮は苦笑した。

「悪いな」

「謝るくらいなら、もう少し自分を大事にしろ!」

 後部座席では、少女たちが蓮を見つめていた。

 凛は胸を押さえ、まだ震えている。

「……本当に、無茶ばかりするんだから」

 その声は、心配と安堵が入り混じっていた。

 蓮は振り返り、微笑んだ。

「大丈夫だよ、凛」

「大丈夫じゃないよ……!」

 凛は思わず声を上げた。

 蓮が目を丸くする。

 凛は自分の言葉に気づき、慌てて顔を伏せた。

「……ごめん。心配だったから」

「……そっか。ありがとう」

 蓮は優しく答えた。

 凛はますます顔を赤くした。

 陽菜が小声で美月に囁く。

「ねえ、美月」

「何?」

「凛ちゃん、もう告白しちゃえばいいのにね」

「……今それを言う?」

「だって、見てるこっちが恥ずかしいんだもん」

 美月はため息をついた。

 けれど、その視線もまた、蓮に向けられていた。

 彼が無事でよかった。

 それだけは、誰もが同じ気持ちだった。

 ※

 午後四時四十分。

 ワゴン車は、郊外の幹線道路へ出ていた。

 市街地から離れたことで、感染者の数は少しずつ減っていた。

 だが、道路の状態は悪かった。

 乗り捨てられた車両。

 横転したトラック。

 道路脇に放置された荷物。

 逃げ惑う人々。

 そして、倒れたまま動かない人間。

 剛は慎重にハンドルを握っていた。

「このまま進めば、山道に入れるはずだ」

「そうだな」

 蓮は地図を確認した。

 祖父の別荘は、山奥にある。

 普段なら車で一時間半ほどの距離だ。

 しかし、今は道路が使えるかどうかも分からない。

 途中で燃料が切れる可能性もある。

 それでも、徒歩よりはずっと速い。

「……蓮くん」

 美月が声をかけた。

「どうした?」

「さっきの感染者たちなんだけど……」

「うん」

「まるで、私たちを待っていたみたいだった」

 蓮は黙った。

 美月の言うとおりだった。

 先ほどの二体は、道路の真ん中に立っていた。

 偶然そこにいただけなのか。

 それとも、車が通るのを待っていたのか。

「……偶然かもしれない」

 蓮は答えた。

「でも、そうじゃない可能性もある」

 陽菜が不安そうに尋ねる。

「それって、ゾンビが車を使う人間を狙ってるってこと?」

「そこまでは分からない。ただ、さっきの個体は明らかに普通じゃなかった」

 剛が舌打ちした。

「進化してるってことか……」

「可能性はある」

 蓮は窓の外を見た。

 街の向こうに、山の稜線が見え始めている。

 あそこまで行けば、ひとまず落ち着けるかもしれない。

 そう考えたときだった。

 車載ラジオから、突然、音声が流れた。

『こちらは緊急災害対策本部です。現在、首都圏全域で大規模な感染被害が発生しています。住民の皆様は、可能な限り自宅や指定避難所に留まり……』

 ノイズが混じる。

『……感染者は、通常の拘束手段では制圧できない場合があります。噛みつきや体液への接触を避け、決して単独で行動しないでください』

 さらにノイズ。

『繰り返します。一部の感染者には、通常個体を大きく上回る身体能力が確認されています。警察および自衛隊は……』

 そこで音声が途切れた。

「……通常個体を上回る身体能力、か」

 剛が呟く。

「政府も、もう把握してるんだな」

「少なくとも、俺たち以外にも異常な個体を見た人間がいるってことだ」

 蓮は考え込んだ。

 原因は分からない。

 感染経路も、治療法も不明。

 そして、感染者は進化している可能性がある。

 このまま被害が拡大すれば、都市部は維持できなくなるだろう。

 そうなれば、食料や水を手に入れることすら難しくなる。

 だからこそ、山奥の別荘を拠点にする判断は間違っていないはずだった。

 そのとき。

 道路の先に、数台の車両が停まっているのが見えた。

「……何だ?」

 剛が速度を落とす。

 道路は完全に塞がれていた。

 大型トラックが横転し、その周囲に複数の車が衝突している。

 そして、その向こうには。

 数十体の感染者が群がっていた。

「……くそっ」

 剛がハンドルを握り直す。

「迂回するしかねえな」

「待ってくれ」

 蓮は前方を見つめた。

 感染者たちは、ただ車両に群がっているわけではなかった。

 何体かは道路脇に散らばり、周囲を警戒するように動いている。

 その中央には、一体だけ、異様に大きな感染者が立っていた。

 ほかの感染者たちは、その個体の周囲を動き回っている。

 まるで、指示を受けているかのように。

「……剛。車を止めてくれ」

「はあ!? 何言ってんだ!」

「見てくれ。あの感染者たち、動きがおかしい」

 剛は前方を凝視した。

 確かに、感染者たちは無秩序に動いているようには見えなかった。

 一部の個体が道路脇へ移動し、別の個体が車両の周囲を巡回している。

 そして、中央の大柄な個体が首を動かすたびに、周囲の感染者たちも向きを変えていた。

「……嘘だろ」

 剛の声が震えた。

「まさか、あいつら……」

「分からない。でも、近づくのは危険だ」

 蓮は地図を確認した。

 この先の道路は塞がれている。

 迂回路はあるが、細い山道を通らなければならない。

 車が通れるかどうかも分からない。

 だが、ここで立ち往生するわけにはいかなかった。

「左の脇道へ入ろう。少し遠回りになるけど、あそこなら山道へ出られる」

「分かった」

 剛がハンドルを切る。

 ワゴン車は、道路脇の細い道へ入った。

 その直後。

 中央にいた大柄な感染者が、ゆっくりとこちらを向いた。

 距離は、まだ百メートル以上ある。

 それなのに。

 感染者は、蓮の姿を見つけたかのように、じっと見つめていた。

 そして。

 右腕を持ち上げた。

 その動きに合わせて、周囲の感染者たちが一斉に動き始めた。

 数十体の感染者が、道路脇へ向かって走り出す。

「……っ!」

 蓮は目を見開いた。

「剛、飛ばせ!」

「分かってる!」

 ワゴン車が加速する。

 背後から、無数の足音が迫ってきた。

 感染者たちが追いかけてくる。

 しかも、その動きは明らかに統率されていた。

 先頭の個体が道を塞ぎ、後続が左右から回り込もうとしている。

 まるで、人間の集団戦術を真似ているかのようだった。

「何なんだよ、あいつら……!」

 剛が叫ぶ。

 蓮は刀の柄を握りしめた。

「……分からない」

 だが、一つだけ確かなことがある。

 感染者たちは、確実に変化している。

 そして、その変化は、想像していたよりもずっと速い。

 ※

 午後五時二十分。

 ワゴン車は、ようやく山道へ入っていた。

 背後の感染者たちは、しばらく追いかけてきたものの、次第に姿が見えなくなった。

 剛は車を走らせながら、何度もバックミラーを確認していた。

「……もう、いねえよな?」

「今のところはな」

 蓮は窓の外を見た。

 山道の両側には木々が生い茂り、街の騒音は遠ざかっている。

 夕暮れの光が、木々の間から差し込んでいた。

 ようやく、少しだけ安心できる場所に来た。

 そう思った瞬間。

「……蓮くん」

 凛が小さく声をかけた。

「どうした?」

「さっきの感染者たち……あれは、本当に何なのかな」

 蓮は答えなかった。

 彼自身も、分からない。

 ただの感染症なら、あれほど急激に身体能力が変化する理由がない。

 死者が動き出すことも、説明できない。

 そして、群れを統率するような行動。

 それらすべてが、今までの常識を否定していた。

「……今は、考えても仕方がない」

 蓮は静かに言った。

「まずは別荘へ行こう。そこに着いたら、状況を整理する」

 凛は頷いた。

 小春は蓮の背中に寄りかかり、疲れたように目を閉じていた。

 美月と陽菜も、いつの間にか眠ってしまっている。

 剛はハンドルを握りながら、ぽつりと呟いた。

「……蓮」

「ん?」

「俺たち、これからどうなるんだろうな」

 蓮はしばらく考えた。

「分からない」

 そして、前を向いた。

「でも、俺たちは生き残る。何があっても」

 剛は小さく笑った。

「……だよな」

 ワゴン車は、山道を進んでいく。

 やがて、木々の向こうに小さな看板が見えた。

 そこには、古びた文字でこう書かれていた。

 ――宮本山荘。

 祖父が遺した、山奥の別荘。

 彼らが目指していた場所だった。

「……着いた」

 蓮は小さく呟いた。

 しかし、すぐに表情を引き締めた。

 別荘の門が、開いていた。

 そして、門の内側には。

 血の跡が、点々と続いていた。

「……誰かが、ここに来たのか?」

 剛が車を止める。

 蓮は刀の柄に手をかけた。

 山奥の別荘。

 安全な拠点になるはずだった場所。

 そこに、何が待っているのか。

 蓮は静かに息を吐いた。

「全員、警戒してくれ」

 五人が頷く。

 蓮は車を降り、二本の刀を構えた。

 そして、血の跡が続く門の向こうへ、ゆっくりと足を踏み入れた。

 ※

 同じ頃。

 東京都内の地下施設。

 薄暗い研究室で、一人の研究者がモニターを見つめていた。

 画面には、山道を走るワゴン車の映像が映し出されている。

 その車両を追いかける感染者たち。

 そして、車内にいる少年。

 研究者は、少年の顔を拡大した。

「……宮本蓮」

 画面に表示された情報を読み上げる。

「十六歳。剣術経験、長期。二刀流を使用。通常個体および変異個体との交戦を確認……」

 研究者は、震える手で別の画面を開いた。

 そこには、感染者の行動記録が表示されていた。

 通常個体。

 高速移動個体。

 跳躍個体。

 筋力増強個体。

 そして。

 統率個体。

 研究者は目を細めた。

「……予想より早い」

 画面の片隅に、新しい警告が表示された。

 ――感染者群、学習行動を確認。

 ――特定個体の戦闘動作を模倣。

 ――人間の武器使用に対する適応を開始。

 研究者は椅子から立ち上がった。

「まさか……あの少年が、進化を促しているのか?」

 そのとき、研究室の扉が開いた。

 白衣を着た別の研究者が、青ざめた顔で駆け込んでくる。

「主任! 大変です!」

「どうした!」

「隔離区域の感染者が……消えました!」

「何だと?」

「監視カメラを確認したところ、感染者は自分で扉を開けて外へ出ています!」

 主任の顔から血の気が引いた。

「……そんな馬鹿な」

 感染者が扉を開ける。

 それは、単なる筋力の増大では説明できない。

 鍵の構造を理解し、操作したということだ。

 主任は震える手でモニターを見つめた。

 画面の中で、山道を進む少年が刀を構えている。

 そして、その少年の姿を見つめる感染者がいた。

 感染者は、ゆっくりと首を傾げた。

 まるで、人間の表情を真似しようとしているかのように。

 主任は呟いた。

「……人間を学んでいる」

 その声は、震えていた。

「戦い方だけじゃない。道具の使い方も……人間そのものを、理解しようとしているんだ」

 モニターに、新たな文字が表示された。

 ――進化段階、第三段階への移行兆候。

 ――知能の上昇を確認。

 ――観察対象、宮本蓮。

 主任は、画面を見つめたまま動けなかった。

 そして、研究室の奥から。

 再び、金属を叩く音が響いた。

 ドン。

 ドン。

 ドン。

 ※

 宮本山荘。

 蓮は、門の前で足を止めた。

 血の跡は、玄関へと続いている。

 しかし、周囲に感染者の姿はない。

 風が吹き、木々がざわめいた。

「……お兄ちゃん」

 小春が不安そうに声をかける。

「大丈夫だ。ここにいろ」

 蓮は刀を抜いた。

 長刀を右手に、短刀を左手に。

 そして、玄関へ向かって歩き出す。

 祖父が遺した場所。

 家族の思い出が詰まった場所。

 そこが、すでに安全ではないかもしれない。

 それでも。

 蓮は前へ進んだ。

 守るべき仲間たちがいる。

 生き残るための拠点が必要だ。

 だから、確かめなければならない。

 玄関の扉に手をかける。

 鍵は、かかっていなかった。

 ゆっくりと扉を開く。

 ギィ……。

 暗い玄関。

 倒れた花瓶。

 床に散らばったガラス片。

 そして、廊下の奥に。

 一人の人影が立っていた。

 白いシャツ。

 血まみれの顔。

 不自然に曲がった首。

 感染者だった。

 だが、その感染者は蓮を見ると、襲いかかってこなかった。

 ただ、じっと見つめていた。

 そして。

 口を開いた。

「……ミヤ……モト……」

 蓮の目が見開かれた。

 感染者が、自分の名前を呼んだ。

 いや。

 正確には、名前を発音しようとした。

 その声は、人間のものとは思えないほど歪んでいた。

 しかし、確かに。

 宮本蓮という名前を、口にしたのだ。

「……お前、何者だ?」

 蓮が問いかける。

 感染者は、ゆっくりと笑った。

 そして、次の瞬間。

 人間とは思えない速度で、蓮へ飛びかかった。

 蓮の二本の刀が、夕闇の中で閃いた。

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