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二天一流の剣豪、ゾンビパンデミックを無双する  作者: 猫撫子


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第1話 剣豪少年と終わりの日

 宮本蓮は、平和な日常というものを退屈だと思っていた。

 いや、正確には、退屈だと感じることすら許されないほど、毎日が鍛錬で埋め尽くされていた。

 午前五時。東京都郊外にある宮本家の道場。

 まだ朝日も昇りきらない薄暗い空の下、乾いた木刀の打ち合う音が響いていた。

 キィンッ!

 木刀と木刀が交差する。

 次の瞬間、片方の木刀が宙を舞った。

「……参りました」

 道場の床に膝をついた青年が、悔しそうに頭を下げる。

 彼の正面に立っていたのは、黒髪を後ろで束ねた少年だった。

 年齢は十六歳。

 身長は百七十六センチほど。無駄な肉のない引き締まった身体に、涼しげな目元。整った顔立ちは、黙って立っているだけでも人目を引く。

 宮本蓮。

 剣聖と呼ばれた宮本武蔵の血を引くと伝えられる宮本家の嫡流であり、二天一流を受け継ぐ現代の剣士だった。

「ありがとうございました」

 蓮は礼をして木刀を収める。

 彼と対戦していた青年は、近隣の大学で剣道を教えている師範代だった。年齢は二十六歳。剣道の全国大会で入賞経験もある実力者である。

 そんな男が、蓮を相手に一分も持たなかった。

 しかも、蓮は一度も本気を出していない。

「蓮くん、今日こそ一本くらい取れると思ったんだけどなあ」

「師範代の踏み込みは昨日より良かったですよ」

「それ、毎回言ってない?」

「実際に良くなっていますから」

「でも勝てないんだよなあ……」

 青年は大きくため息をついた。

 蓮は苦笑しながら道場の壁に掛けられた時計を見る。

 午前五時四十二分。

 いつもどおりの朝だった。

 鍛錬を終えた蓮は、道場の奥にある仏壇の前で手を合わせる。

 そこには、三年前に亡くなった祖父、宮本宗一郎の写真が飾られていた。

 厳格な人物だった。

 蓮が物心ついた頃から、祖父は彼に剣を教え続けた。

 竹刀の握り方から始まり、足運び、呼吸、間合い、体捌き。そして二刀を扱うための技術。

 単なる剣術だけではない。

 古武術、柔術、歩法、身体操作、危険を察知する感覚。

 幼い蓮は何度も泣きながら鍛錬を続けた。

 しかし、祖父は決して妥協しなかった。

『蓮。剣は人を斬るためだけにあるのではない』

 幼い頃、何度も聞かされた言葉。

『剣を持つ者は、自分が何を守るために剣を振るうのか、常に考えろ』

 蓮は目を閉じた。

「……じいちゃん。俺は、ちゃんと強くなれてるかな」

 返事はない。

 それでも蓮は、祖父の写真に向かって小さく笑った。

「まあ、まだまだ鍛錬は続けるけどさ」

 立ち上がり、道場を出る。

 今日も学校がある。

 名門の小中高一貫校、私立青嶺学園。

 宮本家は古くから続く家柄であり、蓮自身も成績優秀だった。剣術だけでなく、勉強でも上位の成績を維持している。

 もっとも、本人は目立つことを好まなかった。

 剣の腕を披露する機会など、現代日本ではほとんどない。

 せいぜい、祖父の道場に通う門下生たちを相手にする程度だ。

 蓮にとって剣は日常の一部であり、特別なものではなかった。

 この朝までは。

 ※

 午前七時二十分。

 宮本家の玄関を出た蓮は、門の前に立っている少女を見つけた。

「お兄ちゃん!」

 少女が笑顔で駆け寄ってくる。

 栗色の髪を肩のあたりで揺らし、ぱっちりとした瞳を輝かせる少女だった。小柄な身体に、少し大きめの通学用リュックを背負っている。

 宮本小春。十二歳。

 蓮の従妹であり、道場に通う四人の少女の一人だ。

「おはよう、小春。今日は早いな」

「えへへ。お兄ちゃんと一緒に学校まで行きたかったから!」

「小春の家の方向が逆じゃなかったか?」

「……そ、そうだけど!」

「ま、いっか、一緒に行こう」

「うん!」

 小春は満面の笑みを浮かべた。

 蓮は気づいていなかった。

 小春が本来の通学路を大きく外れてまで、彼を迎えに来たことに。

 小春にとって蓮は、ただの従兄ではない。

 幼い頃から自分を守ってくれた、誰よりも優しくて、誰よりも格好いい人だった。

 道場で転んで泣いたときも、学校で嫌なことがあったときも、蓮は必ず話を聞いてくれた。

 小春の中に芽生えた気持ちは、いつしか単なる憧れではなくなっていた。

 ただし、十二歳の小春は、その気持ちをどう表現すればいいのか、まだよく分かっていなかった。

「お兄ちゃん、今日のお昼、一緒に食べようね!」

「いいぞ。剛も呼ぶか」

「……うん」

 ほんの少しだけ、小春の頬が膨らむ。

 蓮はその変化に気づかない。

「どうした?」

「なんでもない!」

「そうか?」

「そうなの!」

 小春は蓮の袖をつまみ、隣を歩き始めた。

 その横顔は、どこか幸せそうだった。

 ※

 青嶺学園高等部。

 午前八時。

 正門をくぐった蓮は、小春と別れ校舎へ向かう途中で大柄な少年に肩を組まれた。

「おっす、蓮! 今日も朝から修行か?」

「おはよう、剛。いつもどおりだよ」

「いつもどおりって、お前なあ……。十六歳で毎朝あんな鍛錬してる奴、普通はいねえぞ」

 大熊剛。

 身長百九十センチ近い巨体に、丸太のような腕。柔道部主将を務める、蓮の親友だった。

 見た目は強面だが、性格は気さくで面倒見がいい。

 柔道では全国大会でも上位を狙える実力者であり、校内では知らない者がいない有名人だ。

「お前、昨日の練習試合で三年生を全員投げたらしいな」

「全員じゃない。最後の一人には二回投げられた」

「そのあと五回投げ返したんだろうが! 反省する場所がおかしい!」

「次は投げられないようにするよ」

「そういう話じゃねえ!」

 剛は頭を抱えた。

 蓮は剣術だけでなく、素手での戦闘にも異常な才能を持っていた。

 剣が使えない状況でも、相手の動きや重心を見極め、最小限の動作で制圧する。

 剛は何度も蓮と組み手をしたことがあるが、勝った記憶は一度もなかった。

 もちろん、剛も弱いわけではない。

 むしろ同年代では圧倒的な実力者だ。

 だが、蓮はそのさらに上にいた。

「ところで蓮。今日の放課後、道場に行くのか?」

「ああ。小春たちが来る日だからな」

「ふーん」

 剛はニヤニヤと笑った。

「また美少女四人に囲まれるわけか。羨ましいねえ、色男」

「囲まれる?」

「お前、ほんとに自覚ねえの?」

「何の話だ?」

「……いや、もういい」

 剛は深いため息をついた。

 蓮に恋愛の話をしても無駄だ。

 剣術に関しては天才どころか化け物じみた才能を持っているくせに、恋愛に関しては小学生以下の理解力しかない。

 剛はそのことをよく知っていた。

「そういや、昨日も橘が一緒に帰りたそうにしてたぞ」

「凛か? 昨日は先生に頼まれたプリントを届けに行ったから、先に帰ったんだ」

「……お前、ほんとに罪深いな」

「何が?」

「なんでもねえよ!」

 二人は教室へ向かった。

 その頃、教室の窓際では、黒髪の少女がこちらを見ていた。

 橘凛。十六歳。

 蓮の幼馴染であり、同じクラスの少女だった。

 艶のある黒髪は腰まで伸び、整った顔立ちと落ち着いた雰囲気を持つ。学業成績は学年でも上位で、運動も得意。男女問わず人気がある。

 だが、凛が一番気にしているのは、いつだって蓮のことだった。

「……蓮くん」

 小さく呟く。

 蓮が教室に入ってくると、凛は自然な笑顔を浮かべた。

「おはよう、蓮くん」

「おはよう、凛」

「今日も早いね」

「いつもどおりだよ。凛も早いな」

「うん。ちょっとね」

 本当は、蓮と少しでも長く一緒にいたかった。

 けれど、それを口にする勇気はない。

 凛は幼い頃から蓮を知っている。

 初めて会ったのは、二人がまだ五歳の頃だった。

 当時、凛は近所の公園で年上の子供たちにからかわれていた。

 そこに現れたのが蓮だった。

 彼は大声を出すことも、相手を必要以上に傷つけることもなく、ただ静かに間に入った。

『嫌がってるだろ。やめてやれよ』

 それだけだった。

 しかし、その一言で、年上の子供たちは凛から離れた。

 それ以来、凛はずっと蓮の隣にいた。

 いつか、自分の気持ちを伝えたい。

 幼い頃から変わらない願いだった。

 だが、蓮は鈍感だった。

 あまりにも鈍感だった。

「蓮くん、今日のお昼、一緒に食べない?」

「いいぞ。剛も誘うか?」

「……うん」

 凛は笑顔を保った。

 その笑顔の裏で、ほんの少しだけ心が折れた。

 ※

 午前十時三十五分。

 二時間目の授業が終わった直後だった。

 校内放送が流れた。

『全校生徒に連絡します。現在、校外で発生している感染症について、政府から緊急の注意喚起が出されています。生徒の皆さんは教室内で待機し、教職員の指示に従ってください』

 教室がざわついた。

「感染症?」

「また新しいウイルス?」

「ニュースでやってたやつかな」

 蓮は窓の外を見た。

 校門付近に、救急車が停まっていた。

 その向こうでは、警察車両が道路を塞いでいる。

 妙だった。

 救急車のサイレンは鳴り続けているのに、誰も搬送される患者を運び出していない。

 代わりに、警察官が何かを取り囲んでいた。

「……剛」

「ん?」

「あそこ、見てみろ」

 剛が窓際にやってくる。

「何だありゃ?」

 校門の前で、男が倒れていた。

 白いシャツは血で赤く染まり、身体が奇妙に痙攣している。

 警察官の一人が近づき、肩を揺すった。

 次の瞬間。

 男が跳ね起きた。

 そして、警察官の首に噛みついた。

「……は?」

 剛の声が止まる。

 警察官は悲鳴を上げ、男を引き剥がそうとした。

 しかし、男は異様な力で食らいついている。

 もう一人の警察官が警棒を振り下ろした。

 男の頭部に直撃する。

 それでも、男は離れなかった。

 周囲の人々が悲鳴を上げ、逃げ出す。

 蓮は目を細めた。

「……あれは、何だ?」

 答えはなかった。

 校内放送が再び流れる。

『繰り返します。生徒の皆さんは教室内で待機してください。絶対に校外へ出ないでください』

 放送の声が震えていた。

 その直後、校舎の一階から悲鳴が上がった。

 ガシャンッ!

 何かが割れる音。

 続いて、複数の足音。

 そして、聞いたことのないうめき声。

 蓮は立ち上がった。

「剛、教室の扉を閉めろ」

「お、おう!」

 剛が扉を閉める。

 クラスメイトたちが不安そうに二人を見た。

「宮本、何が起きてるんだよ?」

「まだ分からない。ただ、何かがおかしい」

 蓮は机の上に置かれたスマートフォンを手に取った。

 通信は不安定だった。

 ニュースサイトを開く。

 画面には、緊急速報が次々と表示されていた。

 ――東京都内で原因不明の集団暴行事件。

 ――感染者が突然凶暴化、警察官にも襲いかかる。

 ――複数の病院で患者が職員を襲撃。

 ――死亡確認後の患者が再び動き出したとの未確認情報。

「死亡確認後……?」

 蓮は眉をひそめた。

 そのとき。

 廊下から、何かを引きずる音が近づいてきた。

 ズルッ。

 ズルッ。

 ズルッ。

 教室にいた全員が息を潜めた。

 扉の向こうで、音が止まる。

 そして。

 ドンッ!

 扉が揺れた。

 女子生徒が悲鳴を上げる。

 ドンッ!

 もう一度。

 扉の小窓に、血まみれの顔が現れた。

 白く濁った目。

 裂けた唇。

 口元から垂れる血液。

 それは、隣のクラスの教師だった。

「せ、先生……?」

 誰かが呟いた。

 教師は扉に額を押しつけ、何度もぶつけ始めた。

 ドンッ、ドンッ、ドンッ!

 額が裂け、血が飛び散る。

 それでも、教師は動きを止めない。

 やがて、喉の奥から唸り声を漏らした。

「アァ……ガァ……」

 人間の声ではなかった。

 蓮の表情が変わった。

「全員、扉から離れろ!」

 直後、扉の窓ガラスが砕け散った。

 血まみれの腕が差し込まれる。

 教師は鍵を壊そうと、腕を振り回していた。

 剛が近くの机を持ち上げ、扉の前に押しつける。

「おい、こいつ正気じゃねえぞ!」

「分かってる!」

 蓮は教室を見渡した。

 逃げ道は窓しかない。

 三階。

 飛び降りれば、普通の生徒は大怪我では済まない。

 しかし、ここに留まるのも危険だった。

 扉がもう一度、大きく揺れた。

 机がずれる。

「宮本! どうする!」

 蓮は決断した。

「窓から隣の屋上に移る。全員、落ち着いて移動しろ!」

「隣って、あそこかよ!?」

 隣接する校舎の一部には、二階建ての特別教室棟がある。

 三階の窓から飛び移るには距離があるが、廊下側の渡り廊下へ出られれば移動できる。

 ただし、今の扉を突破する必要があった。

 蓮は机の間を抜け、扉の前に立った。

「剛、三秒だけ押さえてくれ」

「三秒でいいんだな?」

「ああ」

「よし、任せろ!」

 剛が全体重をかけて机を押しつける。

 蓮は扉の隙間を見た。

 敵の腕が伸びている。

 動きは不規則だが、力は強い。

 何より、痛みを感じていないようだった。

 蓮は一瞬で判断した。

 机をずらし、扉をわずかに開く。

 伸びてきた腕を掴み、捻る。

 教師の身体が前に崩れた。

 その瞬間、蓮は足を踏み込み、相手の重心を崩して廊下へ投げ飛ばした。

 ドンッ!

 教師の身体が床に叩きつけられる。

 蓮は素早く扉を閉めた。

「今だ! 全員、窓際へ!」

 剛が叫ぶ。

 生徒たちは慌てて動き始めた。

 蓮は最後まで教室に残り、全員が移動したことを確認する。

 そのときだった。

 廊下の向こうから、複数の足音が聞こえた。

 一つではない。

 十、二十。

 いや、それ以上。

 蓮は窓の外を見た。

 校庭には、すでに何十人もの人間が倒れていた。

 その中の何人かが、ゆっくりと起き上がっている。

 そして、校門の向こうから、さらに多くの人影が流れ込んできた。

 まるで、街そのものが死んでいくようだった。

 ※

 午前十一時二十分。

 特別教室棟の二階。

 蓮と剛は、どうにか教室にいた生徒たちを移動させた。

 しかし、全員を安全な場所へ連れていけたわけではない。

 移動の途中で感染者に襲われ、逃げ遅れた生徒もいた。

 蓮は助けようとした。

 だが、感染者の数が多すぎた。

 そして、噛まれた生徒が数分後に起き上がり、他の生徒へ襲いかかる光景を目の当たりにした。

 もう、普通の事件ではない。

「……蓮」

 剛が低い声で呼んだ。

「俺たち、どうすりゃいいんだ」

「まずは安全な場所を確保する。次に、仲間と合流する」

「仲間って……」

「小春たちだ」

 蓮はスマートフォンを握りしめた。

 通話はつながらない。

 メッセージも送信できない。

 校内の通信網はほぼ機能していなかった。

 それでも、蓮は諦めなかった。

「小春は初等部。美月と陽菜は中等部。凛は……」

「同じ校舎だったよな」

「ああ。凛は教室にいるはずだ」

 蓮は周囲を確認した。

 特別教室棟の窓からは、中等部の校舎が見える。

 だが、校舎の周囲には感染者が集まり始めていた。

 廊下を走る影。

 窓にぶつかる人影。

 逃げ惑う生徒たち。

 そして、動かなくなった人間の身体。

 現実とは思えない光景だった。

「剛、ここにいる生徒たちを頼む。先生がいたら一緒に行動してくれ」

「お前は?」

「小春たちを探しに行く」

「一人でか!?」

「そのほうが速い」

「馬鹿言うな! 俺も行く!」

 剛は蓮の肩を掴んだ。

「お前が強いのは知ってる。でも、俺だって役に立つ。勝手に一人で行くな」

 蓮は親友の顔を見た。

 剛の表情には恐怖があった。

 それでも、逃げるつもりはないらしい。

 蓮は小さく笑った。

「分かった。一緒に行こう」

「最初からそう言え!」

 剛は胸を叩いた。

「それで、武器はどうする? 素手じゃ限界があるぞ」

「武器ならある」

「あるって、どこに?」

「道場だ」

 蓮は自分の腰に手を当てた。

 普段は何も持っていない。

 だが、宮本家には代々伝わる刀がある。

 もちろん、学校へ持ち込んでいるわけではない。

 蓮が必要としているのは、祖父が残した二本の刀だった。

「……学校を出る必要があるな」

 剛が呟く。

「ああ。でも、その前に小春たちと合流する」

 蓮は窓の外を見た。

 中等部の校舎、その三階。

 一人の少女が窓際に立っていた。

 黒髪の少女。

 橘凛だった。

 彼女は窓の外を見ながら、何かを叫んでいる。

 蓮はすぐに窓を開けた。

「凛!」

 少女が顔を上げた。

「蓮くん!」

 凛の顔に安堵が広がる。

「無事だったんだね!」

「ああ。凛、そこから動くな。今からそっちへ行く!」

「でも、廊下に……!」

「大丈夫だ。すぐに行く!」

 凛は強く頷いた。

 その瞳には、恐怖と、それ以上の信頼が宿っていた。

 蓮なら来てくれる。

 絶対に助けてくれる。

 彼女はそう信じていた。

 蓮は窓を閉めた。

「行くぞ、剛」

「おう!」

 ※

 中等部校舎へ向かう渡り廊下は、すでに惨状と化していた。

 床には血痕が点々と続き、壁には何かが引きずられた跡が残っている。

 遠くから悲鳴が聞こえた。

 蓮は足音を殺して進んだ。

 剛もその後ろに続く。

 やがて、廊下の角から感染者が現れた。

 三人。

 いずれも制服を着た生徒だった。

 顔色は青白く、目は濁り、口元には血がこびりついている。

 感染者たちは二人を見ると、同時に走り出した。

「うおっ、速え!」

 剛が身構える。

 蓮は逃げなかった。

 先頭の感染者が飛びかかってくる。

 蓮は半歩だけ横へずれた。

 伸びてきた腕を払い、相手の身体を回転させる。

 そのまま壁へ叩きつけた。

 続く二人目。

 蓮は相手の突進に合わせて足を払う。

 身体が浮き、床へ落ちる。

 三人目が背後から迫る。

「蓮!」

 剛が叫ぶ。

 蓮は振り返りもせず、背後へ肘を打ち込んだ。

 感染者がよろめく。

 蓮はその首元を掴み、床へ押さえつけた。

 数秒で三人を制圧した。

 剛は呆然とした。

「……お前、ほんとに人間か?」

「人間だよ」

「じゃあ、今の何だよ!」

「古武術」

「古武術って便利な言葉だな、おい!」

 蓮は感染者たちを見下ろした。

 彼らは床に倒れているのに、なおも起き上がろうともがいていた。

 痛みを感じていない。

 呼吸も乱れていない。

 ただ、こちらへ向かおうとする。

「……厄介だな」

 蓮は周囲を見渡した。

 このままでは、いずれ起き上がってくる。

 時間をかけるべきではない。

「先へ進もう」

 二人は再び走り出した。

 中等部の教室に到着すると、扉の内側から物音がした。

「凛!」

「蓮くん!?」

 扉が開く。

 凛が飛び出してきた。

「蓮くん!」

 彼女は蓮に抱きついた。

 細い腕が、彼の制服を強く掴む。

「よかった……本当に、よかった……!」

「凛、怪我はないか?」

「うん……うん!」

 凛は何度も頷いた。

 蓮は彼女の頭を軽く撫でた。

「もう大丈夫だ」

 その言葉に、凛の目から涙がこぼれた。

 彼女は蓮の胸元に顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。

 剛はその様子を見て、そっと目を逸らした。

「……ったく。無自覚って怖えな」

「何か言ったか?」

「何でもねえよ!」

 凛はようやく蓮から離れた。

 頬が赤い。

「ご、ごめんね。つい……」

「気にするな。怖かっただろ」

「……うん。でも、蓮くんが来てくれるって思ってた」

「そっか。待たせて悪かったな」

 凛は首を横に振った。

「ううん。来てくれただけで、十分」

 その言葉に、剛は頭を抱えた。

 蓮はまったく気づいていない。

 凛の気持ちにも、自分が彼女にとってどれほど特別な存在なのかにも。

「それで、小春たちは?」

 蓮の問いに、凛の表情が曇った。

「分からないの。朝、少しだけメッセージが来たんだけど、それから連絡が取れなくて……」

「そうか」

「小春ちゃん、怖がってるよね……」

 凛は拳を握った。

「私も一緒に探す」

「ああ。頼む」

 そのときだった。

 廊下の向こうから、何かがぶつかる音がした。

 ドンッ!

 ドンッ!

 複数の感染者が、教室へ近づいてきている。

 蓮は表情を引き締めた。

「ここを離れるぞ。小春たちは初等部だ」

 剛が拳を握る。

「よし。さっさと合流しようぜ!」

 凛も頷いた。

 三人は教室を出た。

 目指すのは初等部校舎。

 そこに、蓮が何よりも守りたい少女がいる。

 ※

 初等部校舎へ続く階段は、すでに封鎖されていた。

 机や椅子が積み上げられ、その向こうから子供たちの泣き声が聞こえる。

「小春!」

 蓮は障害物をどかし、隙間から中を覗いた。

 廊下の奥に、小さな人影があった。

「……お兄ちゃん?」

 か細い声。

 小春だった。

 彼女は壁際に座り込み、両手で口を押さえている。

 そのすぐそばには、白い髪飾りをつけた少女と、同じ顔立ちの少女がいた。

 白石美月と白石陽菜。

 十四歳の双子であり、蓮の道場に通う少女たちだ。

 美月は落ち着いた雰囲気の少女で、長い黒髪を一つに結んでいる。

 陽菜は明るく活発で、髪を肩のあたりで切り揃えていた。

 二人とも整った顔立ちをしており、校内でも評判の美少女だった。

 普段は性格の違いが目立つ二人だが、今は同じように顔を青ざめさせていた。

「蓮お兄ちゃん!」

 小春が立ち上がる。

 美月と陽菜も、蓮の姿を見て表情を明るくした。

「宮本先輩!」

「蓮くん!」

 蓮は障害物を乗り越え、小春のもとへ駆け寄った。

「小春、怪我はないか?」

「う、うん……!」

「よかった」

 蓮は小春を抱き上げ、身体に異常がないか確認する。

 小春は蓮の首に腕を回し、ぎゅっとしがみついた。

「お兄ちゃん……怖かった……!」

「もう大丈夫だ。俺が来たからな」

「……うん!」

 小春は涙を流しながら笑った。

 その光景を見ていた美月と陽菜も、ほっとした表情を浮かべる。

「蓮くん、助けに来てくれてありがとう」

 美月が頭を下げる。

「本当にありがとう! もうどうしたらいいか分からなくて……」

 陽菜は目に涙を浮かべていた。

「二人とも無事でよかった。何があった?」

 美月が説明した。

 授業中、突然校内放送が流れたこと。

 教師の一人が生徒に襲いかかったこと。

 逃げる途中で何人もの感染者を見たこと。

 そして、三人で教室に逃げ込んだものの、廊下が感染者で埋め尽くされてしまったこと。

「……そうか」

 蓮は小春を降ろし、三人の前に立った。

「今からここを出る。俺と剛が前を進む。凛は小春たちと一緒にいてくれ」

「分かった」

 凛はすぐに頷いた。

 小春も美月も陽菜も、蓮の言葉に従う。

 それだけ、彼女たちは蓮を信頼していた。

 剛は拳を鳴らした。

「よし、行くぞ。お前ら、俺の後ろから離れるなよ!」

「剛くん、頼りにしてるね」

 陽菜が笑顔を向ける。

「おう! 任せとけ!」

 剛は胸を張った。

 その横で、蓮が廊下の奥を見つめていた。

 感染者の数は増えている。

 校舎の外からも、無数のうめき声が聞こえていた。

 このまま学校に留まれば、全員が危険にさらされる。

 まずは学校を脱出する。

 その後、実家へ戻り、祖父の刀を手に入れる。

 そして、安全な場所へ向かう。

 蓮は頭の中で計画を組み立てた。

「行くぞ」

 その一言で、全員が動き出した。

 ※

 初等部校舎の一階へ降りると、そこは地獄だった。

 廊下には血痕が広がり、机や椅子が散乱している。

 壁に寄りかかるように倒れている生徒。

 そのそばで、何かを食べている感染者。

 泣きながら走る子供。

 助けを求める声。

 蓮たちは息を呑んだ。

 小春が震え始める。

「お兄ちゃん……」

「見るな、小春」

 蓮は彼女の前に立った。

「俺だけを見ていろ」

 小春は頷き、蓮の制服を掴んだ。

 美月と陽菜も顔を強張らせていた。

 凛は二人の手を握った。

「大丈夫。蓮くんがいるから」

 その言葉は、彼女自身にも言い聞かせるようだった。

 廊下の先から、感染者が現れた。

 一人。

 二人。

 五人。

 さらに、その背後から十人以上が姿を見せる。

「多いな……!」

 剛が身構えた。

 蓮は周囲を見渡す。

 廊下の幅は狭い。

 大人数を相手にするには不利だ。

 だが、ここを突破しなければ先へ進めない。

「剛、先頭を頼む。俺が後ろを押さえる」

「了解!」

「凛、小春たちを連れて、俺たちの後ろをついてきてくれ」

「分かった!」

 蓮は廊下に落ちていた金属製の棒を拾った。

 刀はない。

 だが、武器がなければ戦えないわけではない。

 感染者たちが一斉に走り出した。

「来るぞ!」

 剛が叫ぶ。

 先頭の感染者が飛びかかる。

 剛は一歩踏み込み、相手の胴体を掴んだ。

「おらぁっ!」

 身体を持ち上げ、床へ叩きつける。

 続く感染者には、強烈な掌底を打ち込んだ。

 さらに一人を肩で押し込み、後続の動きを止める。

 柔道部主将の怪力は、感染者相手でも十分に通用した。

 しかし、数が多い。

 倒しても、倒しても、次が迫ってくる。

「剛、左!」

「分かってる!」

 蓮が横から迫る感染者の腕を払い、金属棒で足元を打つ。

 体勢が崩れたところへ、強烈な蹴りを叩き込んだ。

 感染者が廊下の壁にぶつかる。

 さらに一人。

 蓮は相手の動きを見極め、最小限の動作で攻撃をかわす。

 腕を捌き、重心を崩し、関節を押さえる。

 必要以上に力を使わない。

 無駄な動きがない。

 まるで、敵の行動がすべて見えているかのようだった。

「……すげえ」

 陽菜が呟いた。

 普段、道場で蓮の稽古を見ている彼女たちでも、これほどの戦いを見るのは初めてだった。

 蓮の表情には、迷いがなかった。

 恐怖も、焦りもない。

 ただ、守るべき仲間を背後に置き、敵を一人ずつ排除している。

 その姿は、まさに剣豪だった。

 やがて、廊下の感染者が一掃された。

「走るぞ!」

 蓮の声に、全員が駆け出した。

 玄関を抜け、校庭へ。

 しかし、そこで彼らは足を止めた。

 校庭は、感染者で埋め尽くされていた。

 倒れている人間。

 走り回る感染者。

 校門へ殺到する群衆。

 そして、校舎の窓から飛び出そうとしている生徒たち。

 学校は、完全に崩壊していた。

「……マジかよ」

 剛が呟く。

 蓮は校門を見た。

 正門へ続く道は、感染者の群れで塞がれている。

 だが、東側の通用門なら、まだ突破できるかもしれない。

「東門へ向かう」

「でも、あっちも……!」

「正門よりは少ない。今なら間に合う」

 蓮は小春を背負った。

「お兄ちゃん、私、歩けるよ……?」

「分かってる。でも、今は俺に任せろ」

「……うん」

 小春は蓮の背中にしがみついた。

 美月と陽菜は互いの手を握る。

 凛は蓮のすぐ後ろに立った。

「蓮くん、私も戦えるよ」

「分かってる。でも、今は全員で逃げることを優先しよう」

「……分かった」

 凛は悔しそうに唇を噛んだ。

 蓮を守りたい。

 少しでも力になりたい。

 だが、今の自分では、まだ彼の隣に立つことすら難しい。

 そう感じていた。

「行くぞ!」

 剛が叫ぶ。

 蓮たちは校庭を走り出した。

 感染者たちが気づき、次々とこちらへ向かってくる。

 その中の一体が、突然、地面を蹴った。

 人間とは思えない跳躍。

 数メートルを一気に飛び越え、蓮たちの進路へ着地する。

「なっ……!?」

 剛が目を見開いた。

 感染者は四肢を地面につけ、獣のような姿勢で唸っていた。

 その身体は異様に細く、手足が長い。

 口元から垂れる血液。

 白く濁った目。

 だが、これまでの感染者とは明らかに違う。

 こちらを見ている。

 まるで、獲物を観察するように。

 蓮は小春を剛へ預けた。

「剛、小春を頼む」

「おい、まさか……!」

「すぐに追いつく」

 蓮は金属棒を構えた。

 感染者が低く唸る。

 次の瞬間、跳んだ。

 速い。

 これまでの感染者とは比較にならない速度だった。

 だが。

 蓮は、その動きを見切った。

 身体をわずかに傾け、相手の突進を紙一重でかわす。

 すれ違いざまに金属棒を叩き込む。

 鈍い音。

 感染者の身体が地面に転がった。

 すぐに起き上がろうとする。

 蓮は間合いを詰め、棒を振り下ろした。

 感染者の動きが止まる。

 蓮は数秒だけ相手を観察し、すぐに仲間のもとへ戻った。

「……何だったんだ、今の」

 剛が呟く。

「分からない。でも、普通の感染者とは違う」

 蓮は東門を見た。

 その向こうにも、感染者が集まり始めている。

 時間がない。

「急ごう!」

 全員が走り出した。

 ※

 午後零時三分。

 東門を突破した蓮たちは、ようやく学校の外へ出た。

 だが、そこに広がっていたのは、見慣れた街並みではなかった。

 道路には車が衝突し、信号機は消えている。

 商店のガラスは割れ、店内から火の手が上がっていた。

 遠くでは黒煙が空へ伸び、サイレンが鳴り響いている。

 歩道には人々が倒れ、感染者がその間を徘徊していた。

 蓮は足を止めた。

 日本が、壊れ始めている。

 いや、すでに壊れた場所もあるのだろう。

「……これ、どうなっちまうんだよ」

 剛が呟いた。

 蓮は答えなかった。

 今は、考えている場合ではない。

 小春を降ろし、四人の少女たちを確認する。

「全員、怪我はないか?」

「うん」

「大丈夫です」

「平気!」

「私も大丈夫」

 凛が答えた。

 蓮は頷く。

「よし。これから俺の家に向かう」

「蓮の家って、道場か?」

「ああ。武器と食料がある。そこを拠点にして、次の行動を考える」

「分かった」

 剛は周囲を見渡した。

「でも、どうやって行く? 道路はあの有様だぞ」

「裏道を使う。感染者の少ない道を選べばいい」

「簡単に言うなあ……」

「簡単じゃないから、俺が先に確認する」

 蓮は近くの路地へ視線を向けた。

 そのとき。

 スマートフォンが震えた。

 画面を見ると、緊急速報が表示されていた。

『政府より緊急発表。原因不明の感染症が全国各地で確認されています。感染者は極めて攻撃的であり、噛まれるなどして体液に接触した場合、感染する可能性があります。市民の皆様は屋内に避難し、外出を控えてください』

 続いて、別の速報が流れた。

『一部の感染者について、死亡後に活動を再開する事例が確認されています。警察および自衛隊が対応にあたっていますが、各地で被害が拡大しています』

 小春が震える声で尋ねた。

「お兄ちゃん……あの人たち、死んでるの?」

「……そうみたいだな」

「じゃあ、どうして動いてるの?」

 蓮は答えられなかった。

 感染症。

 死者の活動再開。

 異常な身体能力。

 どれも、今までの常識では説明できない。

 それでも、蓮は少女たちの前で不安を見せなかった。

「理由は後で考えよう。今は生き残ることが先だ」

 小春は頷いた。

 凛も、美月も、陽菜も。

 全員が蓮を見ていた。

 彼がいる。

 それだけで、まだ希望があった。

 剛はそんな仲間たちを見回し、拳を握った。

「よし。行こうぜ。全員で生きて帰るぞ」

 蓮は小さく笑った。

「ああ。絶対に全員で帰る」

 そして、六人は崩壊し始めた街へ踏み出した。

 ※

 宮本家までは、徒歩で四十分ほどの距離だった。

 普段なら、何の問題もない道のりだ。

 しかし、今は違う。

 大通りには感染者が溢れ、交差点には衝突した車が積み重なっている。

 裏道を進んでいた蓮たちは、何度も感染者と遭遇した。

 そのたびに、蓮と剛が前に出た。

 剛は相手の動きを止め、蓮が確実に無力化する。

 その連携は、長年の付き合いを感じさせるほど自然だった。

「右から二体!」

「任せろ!」

 剛が一体を投げ飛ばす。

 蓮はもう一体の攻撃をかわし、金属棒を叩き込む。

「よし、進め!」

 少女たちは急いで通り抜けた。

 途中、コンビニの前を通りかかったときだった。

「……蓮くん」

 美月が小さく声を上げた。

「どうした?」

「あそこ、食料が残ってるかもしれない」

 店のガラスは割れているが、棚には商品が残っているように見えた。

 蓮は少し考えた。

「必要だな。水と食料を確保しよう。ただし、長居はしない」

 全員が頷く。

 剛が先頭に立ち、店内を確認する。

「今のところ、誰もいねえぞ」

「油断するなよ」

 蓮は店内に入り、周囲を見渡した。

 床には商品が散乱している。

 レジの横には、血のついたエプロンが落ちていた。

 店員の姿はない。

 少女たちは水や保存食を集め始めた。

 凛はリュックに飲料水を詰め、小春は菓子パンを抱えている。

「お兄ちゃん、これも持っていっていい?」

「いいぞ。ただし、重くなりすぎないようにな」

「うん!」

 陽菜はカロリーバーを集め、美月は缶詰や栄養補助食品を選んでいた。

 そのとき。

 店の奥から、物音がした。

 ガタンッ。

 全員の動きが止まる。

 剛が拳を構えた。

「……誰かいるのか?」

 返事はない。

 蓮は金属棒を握り、ゆっくりと奥へ進んだ。

 飲料の倉庫。

 その扉が、わずかに開いている。

 蓮は足を止めた。

 中から、荒い呼吸が聞こえる。

 人間か。

 それとも。

「……大丈夫ですか?」

 蓮が声をかけた。

 次の瞬間。

 扉が勢いよく開いた。

 飛び出してきたのは、店員の制服を着た男だった。

 その顔は血まみれで、口元には肉片がこびりついている。

「ガァァァッ!」

 男が襲いかかる。

 蓮は一歩下がり、相手の腕を払った。

 そのまま身体を捻り、男を床へ叩きつける。

 しかし、男はすぐに起き上がろうとした。

 蓮は間合いを取り、金属棒を構える。

 男が再び突進する。

 蓮は攻撃をかわし、側面から一撃を叩き込んだ。

 男が倒れる。

 今度は動かなかった。

 店内に沈黙が戻った。

「……くそっ」

 剛が歯を食いしばる。

「店員さんだったんだろうな……」

 蓮は目を閉じた。

 この感染症にかかった人間は、もう元には戻らないのか。

 まだ分からない。

 だが、今のままでは助けることすらできない。

「必要な物を持って、すぐに出よう」

 誰も反対しなかった。

 ※

 午後一時四十分。

 宮本家まで、あと少し。

 蓮たちは住宅街の細い道を進んでいた。

 感染者の数は、少しずつ増えている。

 街中の悲鳴は減った。

 その代わりに、奇妙な静けさが広がり始めていた。

 人々が逃げたのか。

 それとも。

 蓮は考えるのをやめた。

 今は、仲間を守ることだけに集中する。

「蓮くん」

 凛が隣に並んだ。

「どうした?」

「……怖くないの?」

 蓮は少し考えた。

「怖いよ」

 意外な答えだったのか、凛が目を見開く。

「え?」

「何が起きてるのか分からないし、敵の数も多い。小春たちに何かあったらと思うと、正直、怖い」

 蓮は前を向いたまま続けた。

「でも、怖いからって立ち止まるわけにはいかないだろ」

 凛は彼の横顔を見つめた。

 その表情には、いつもの穏やかさがあった。

 けれど、その奥には強い意志が宿っている。

「……蓮くんらしいね」

「そうか?」

「うん」

 凛は微笑んだ。

 そして、そっと蓮の袖を掴んだ。

「私も頑張る。足手まといにならないように」

「足手まといなんて思ってないよ。凛がいてくれて助かってる」

「……っ」

 凛の顔が真っ赤になった。

 蓮は不思議そうに首を傾げる。

「熱でもあるのか?」

「な、ないよ!」

「そうか。無理はするなよ」

「……もう!」

 凛は顔を背けた。

 少し離れたところで、剛が肩を震わせている。

「お前、ほんと……」

「何だ?」

「いや、もう何でもねえ!」

 その後ろでは、美月と陽菜が小声で話していた。

「……凛ちゃん、また顔が赤い」

「うん。蓮くん、絶対わざとじゃないよね」

「わざとだったら、逆にすごいけど」

 二人は顔を見合わせた。

 そして、そっと蓮の背中を見つめる。

 美月は、道場で初めて蓮に剣術を教わった日のことを思い出していた。

 陽菜は、転んで泣いた自分を蓮が背負って帰ってくれた日のことを思い出していた。

 小春は、蓮の手を握りながら、ずっとその温もりを感じていた。

 四人の想いは、それぞれ違う。

 けれど、共通していることが一つあった。

 彼女たちは、蓮のそばにいたいと思っていた。

 どんなことがあっても。

 ※

 午後二時十二分。

 宮本家の門が見えた。

「着いた……!」

 小春が声を上げる。

 蓮は安堵の息を吐いた。

 しかし、門の前で足を止めた。

 門扉が開いている。

 普段なら、祖父の代から続く宮本家の門は、きちんと閉じられているはずだった。

 蓮は周囲を見渡した。

 庭に人影はない。

 玄関の扉は閉まっている。

 だが、敷地の奥から、かすかな物音が聞こえた。

「……剛」

「ああ。分かってる」

 剛が拳を構える。

 蓮は少女たちを門の外に待たせた。

「ここで待っていてくれ。俺たちが確認してくる」

「蓮くん、気をつけてね」

 凛が不安そうに言う。

「ああ。すぐ戻る」

 蓮と剛は敷地内へ入った。

 庭には、倒れた植木鉢が散乱していた。

 道場の扉は開いている。

 蓮はゆっくりと中を覗いた。

 床には木刀が散らばり、壁には何かがぶつかった跡がある。

 そして。

 道場の中央に、人が倒れていた。

「……師範代?」

 今朝、稽古をつけてくれた青年だった。

 蓮は駆け寄り、膝をついた。

 呼吸はない。

 身体は冷たくなっている。

 その首筋には、深い噛み傷があった。

「……くそっ」

 剛が拳を握りしめる。

 蓮は目を閉じた。

 今朝まで、普通に話していた人間だった。

 笑っていた。

 悔しがっていた。

 明日も稽古をしようと言っていた。

 それが、数時間で。

 蓮は立ち上がった。

「……刀を取ってくる」

 道場の奥には、祖父が残した武具の保管庫がある。

 蓮は鍵を開け、棚の前に立った。

 そこには、二本の刀が収められていた。

 一振りは、長い打刀。

 もう一振りは、短めの刀。

 どちらも祖父が大切にしていたものだ。

 蓮は長い刀を手に取った。

 鞘を確認する。

 刃の状態も問題ない。

 次に、もう一本を手に取った。

 二刀。

 それが、宮本家に伝わる二天一流の象徴だった。

 蓮は二本の刀を腰に装着した。

 その瞬間、心の奥で何かが切り替わった。

 これまで、剣は鍛錬のためのものだった。

 祖父から受け継いだ技術を磨くためのものだった。

 だが、今は違う。

 守らなければならない人間がいる。

 小春。

 美月。

 陽菜。

 凛。

 そして、剛。

 蓮は刀の柄に手を添えた。

「……じいちゃん」

 祖父の言葉が脳裏によみがえる。

『剣を持つ者は、自分が何を守るために剣を振るうのか、常に考えろ』

「俺は、あいつらを守る」

 蓮は静かに告げた。

「何があっても」

 ※

 玄関へ戻ると、少女たちが不安そうに待っていた。

「お兄ちゃん!」

 小春が駆け寄ってくる。

「大丈夫だった?」

「ああ。少し問題はあったけど、今は大丈夫だ」

 蓮は小春の頭を撫でた。

 凛は蓮の腰にある二本の刀を見つめた。

「それ……」

「祖父の刀だ。これからは、こいつを使う」

 美月が息を呑む。

「本物の刀……?」

「ああ」

 陽菜は不安そうに刀を見た。

「蓮くん、まさか……」

「必要なら使う」

 蓮は短く答えた。

 その言葉に、全員が黙り込んだ。

 今までは、どこか現実味のない出来事だった。

 感染症。

 死者の復活。

 人を襲う化け物。

 しかし、蓮が刀を手にしたことで、それが本当に命を懸けた戦いなのだと実感した。

 剛は蓮の肩を叩いた。

「……行こうぜ」

「ああ」

「ここにいたって、いつ襲われるか分からねえ。安全な場所を探すんだろ?」

「そうだな」

 蓮は少女たちを見た。

「これから向かうのは、祖父が所有していた山奥の別荘だ。人里から離れているし、食料や生活用品も備蓄してある」

「そんな場所があるの?」

 凛が尋ねる。

「ああ。小さい頃に何度か行ったことがある。電気や水道も使えるし、周囲には柵もある」

「そこなら……」

 美月が小さく呟いた。

「しばらく、安全に暮らせるかもしれないね」

「そうだといいな」

 蓮は頷いた。

 だが、すぐに表情を引き締めた。

「ただし、そこまで無事にたどり着けるとは限らない。道中で感染者に遭遇する可能性もあるし、食料や水が足りなくなる可能性もある」

 四人の少女たちは真剣な顔で聞いていた。

「だから、これからは全員で協力してほしい。俺と剛が前に出るけど、無理だと思ったらすぐに逃げる。絶対に一人で行動しないこと」

「分かった」

 凛が答える。

「うん!」

 小春も頷いた。

「私たちも頑張るね」

 美月が言う。

「足手まといにはならないから!」

 陽菜も力強く答えた。

 蓮は笑った。

「頼りにしてるよ」

 その一言で、少女たちの顔が明るくなった。

 彼女たちは、ただ守られるだけでは終わりたくなかった。

 蓮の隣に立ちたい。

 彼の役に立ちたい。

 そんな想いが、それぞれの胸に強く芽生えていた。

 剛は、その様子を見ながら小さくため息をついた。

「……お前、ほんとに自覚ねえんだな」

「何がだ?」

「いや、もういい。今は生き残ることだけ考えようぜ」

「ああ」

 蓮は刀の柄に手を添えた。

 そして、宮本家の門を出た。

 目指すは、山奥の別荘。

 そこへたどり着けば、少なくとも今夜を越すことはできるはずだ。

 そう考えていた。

 しかし。

 そのとき、遠くの電柱の上に、一つの人影が立っていたことに、誰も気づかなかった。

 人影は、蓮たちの姿を見下ろしていた。

 四肢を不自然に曲げ、頭を傾ける。

 そして、喉の奥から奇妙な音を漏らした。

「……ギ、ギ……」

 まるで、笑っているようだった。

 人影は電柱から飛び降りる。

 着地の衝撃をほとんど感じさせず、四つん這いになった。

 その目は、蓮の腰にある二本の刀を見つめていた。

 そして、ゆっくりと口を開いた。

「……ニ……ン……ゲン……」

 言葉だった。

 確かに、人間の言葉だった。

 ※

 午後三時。

 蓮たちは街の外れへ向かっていた。

 山道へ入るには、郊外を抜ける必要がある。

 車を使うことも考えたが、道路が塞がれている場所が多く、燃料の残量も分からない。

 徒歩のほうが確実だった。

 蓮は先頭を歩き、剛が最後尾を務める。

 少女たちはその間にまとまっていた。

「……蓮くん」

 凛が声をかけた。

「ん?」

「これから、どうなるのかな」

 蓮は少しだけ空を見上げた。

 青かった空は、いつの間にか黒煙で霞んでいる。

「分からない」

 正直に答えた。

「でも、俺たちは生き残る。まずはそれだけ考えよう」

 凛は頷いた。

「うん」

 小春が蓮の袖を掴む。

「お兄ちゃん、私、頑張るからね」

「ああ」

「だから……ずっと一緒にいてね」

 蓮は優しく微笑んだ。

「もちろんだ」

 小春は嬉しそうに笑った。

 その後ろで、美月と陽菜が顔を見合わせる。

「……私たちも、ずっと一緒にいたいね」

 美月が小さく言う。

「うん。蓮くんのそばにいたい」

 陽菜も頷いた。

 凛は二人の言葉を聞き、ほんの少しだけ視線を落とした。

 自分だって同じだ。

 蓮のそばにいたい。

 誰よりも近くにいたい。

 けれど、今はそれよりも大切なことがある。

 生き残ること。

 蓮と一緒に、明日を迎えること。

 それだけは、絶対に譲れなかった。

 剛は全員の様子を見ながら、心の中で呟いた。

(こりゃあ、世界が元に戻っても大変だな……)

 四人の少女が蓮に向ける視線。

 その意味を、剛は十分すぎるほど理解していた。

 だが、当の本人はまったく気づいていない。

 おそらく、この状況が落ち着いても気づかないだろう。

 剛は苦笑した。

(まあ、こいつらが無事なら、それでいいか)

 そのときだった。

 前方の道路から、何かが飛び出してきた。

「止まれ!」

 蓮が叫ぶ。

 全員が足を止めた。

 道路の中央に、一体の感染者が立っていた。

 制服は破れ、身体は血まみれ。

 だが、その姿勢は、これまでの感染者とは違っていた。

 四つん這いではない。

 二本の足で、まっすぐ立っている。

 顔を上げ、蓮を見つめた。

 そして。

 ゆっくりと、笑った。

 蓮は刀の柄に手をかける。

「……全員、下がれ」

 剛が少女たちを背後へ下がらせる。

 感染者は首を傾げた。

 まるで、蓮の動きを観察しているようだった。

 次の瞬間。

 感染者が消えた。

「――っ!」

 蓮は反射的に刀を抜いた。

 金属音が響く。

 感染者の腕が、刀の刃にぶつかっていた。

 皮膚が裂け、血が飛び散る。

 それでも、感染者は怯まない。

 むしろ、口元を歪めた。

 蓮の背筋に、初めて冷たいものが走った。

 速い。

 先ほどの跳躍型よりも、さらに速い。

 そして何より。

 この感染者は、蓮の剣を避けようとしていた。

 ただ突っ込んでくるのではない。

 刃の軌道を見て、動きを変えたのだ。

「……なるほど」

 蓮は刀を構え直した。

「お前、少しは頭が回るらしいな」

 感染者が唸る。

 そして、再び襲いかかってきた。

 蓮は一歩踏み込んだ。

 今度は、避けさせない。

 二天一流。

 祖父から受け継いだ二本の刀を、蓮は初めて実戦で振るった。

 長刀が相手の進路を塞ぎ、短刀がその動きを追う。

 感染者の身体が宙を舞った。

 地面に叩きつけられ、動きが止まる。

 蓮は刀を構えたまま、数秒間、相手を見つめていた。

 やがて、静かに刀を下ろす。

「……行こう」

 剛が息を呑んだ。

「今の……何だったんだ?」

「分からない」

 蓮は刀の血を払い、鞘へ収めた。

「でも、普通の感染者じゃない」

 その言葉に、誰も反論できなかった。

 凛は蓮の背中を見つめる。

 美月と陽菜は、互いの手を強く握った。

 小春は蓮の袖を離さなかった。

 そして、蓮自身も理解し始めていた。

 これは、単なる感染症ではない。

 人間が死に、化け物へ変わるだけの現象ではない。

 何かが変化している。

 感染者たちは、時間とともに強くなっているのかもしれない。

 もし、そうなら。

 これから先、どんな敵が現れるのか。

 蓮は空を見上げた。

 黒煙の向こうに、夕暮れの光が差し込んでいた。

「……じいちゃん」

 彼は小さく呟いた。

「俺は、こいつらを守れるかな」

 返事はない。

 それでも、蓮は前を向いた。

 守ると決めた。

 ならば、やることは一つだ。

 強くなる。

 誰よりも強く。

 どんな化け物が現れても、仲間を守り抜けるように。

 蓮は二本の刀を握り直した。

 その背中を、四人の少女たちが見つめていた。

 そして、彼らの知らない場所で。

 街の地下にある研究施設では、一人の研究者が震える手で画面を見つめていた。

 モニターに表示されているのは、感染者の行動記録。

 通常個体。

 高速移動個体。

 跳躍個体。

 そして、新たに確認された分類。

 学習個体。

 研究者は、画面に映るデータを見つめながら呟いた。

「……もう、学習を始めたのか」

 その声は、誰もいない研究室に虚しく響いた。

「人間の動きを……武器の扱いを……」

 画面の片隅に、新しい映像が表示される。

 そこには、二本の刀を構えた少年の姿が映っていた。

 感染者の一体が、少年の動きをじっと見つめている。

 そして、映像の中で。

 感染者が、少年と同じように身体を構えた。

 研究者の顔から血の気が引いた。

「……まさか」

 画面に表示された文字が、赤く点滅する。

 ――進化段階、第二段階へ移行。

 ――学習対象、人間。

 ――新規観察対象、宮本蓮。

 研究者は、震える手で画面を閉じようとした。

 だが、その前に。

 施設の奥から、金属を叩くような音が響いた。

 ドン。

 ドン。

 ドン。

 研究者はゆっくりと振り返る。

 厚い強化ガラスの向こう側。

 そこに、一体の感染者が立っていた。

 白衣を着たその感染者は、研究者を見つめていた。

 そして。

 口元を歪め、笑った。

「……ミ……ツケ……タ」

 研究者の悲鳴が、地下施設に響き渡った。

 ※

 その頃、宮本蓮たちは、山へ続く道を進んでいた。

 まだ、誰も知らない。

 彼らの戦いが、人類の未来を左右することになるなど。

 そして、蓮が手にする二本の刀が、進化する怪物たちにとって、最初の大きな壁になることも。

 夕暮れの中、蓮は静かに歩き続けた。

 背後には、守るべき仲間たちがいる。

 前方には、未知の世界が広がっている。

 それでも、彼は迷わなかった。

「みんな、行くぞ」

 蓮の声に、全員が頷く。

 剣豪少年と四人の少女、そして怪力の親友。

 彼らのサバイバルは、まだ始まったばかりだった。

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