第10話 最終話
母はリビングの椅子に腰を下ろすと、大きく息をついた。
「あー、疲れた」
「えっ? 大丈夫?」
「心地いい疲れよ」
母は微笑んだ。
「それにしても、楽しかったね」
「うん」
少し間を置いて、母がぽつりと言った。
「それにしても、悠真さん、かなり苦労してきた人なんでしょうね」
「どうして?」
「じゃないと、あんな気遣いはできないわ」
そして、少し笑って続けた。
「顔はともかくとして、いい人ね」
「失礼な。顔も悪くないよ」
「冗談よ、冗談」
二人で笑った。
「でも、本当に楽しかったわ。私は初めてだったけど、栞は学校の社会見学か何かで秋芳洞へ行ってなかった?」
「行ったよ。でも小学生の頃だから、あまり覚えてない」
そんな他愛もない話をして、私は二階の自分の部屋へ上がった。
その時だった。
ピコン。
LINEの着信音。
悠真さんからだった。
『今日はありがとうございました。本当に楽しかったです』
お礼を言わないといけないのは私の方なのに。
母は車がなければ、あんな遠くまで行くことはできなかった。
私は感謝の気持ちを込めて、今日撮った写真を何枚か送った。
画面を見返す。
悠真さんの笑顔が、とても自然だった。
そして、三人並んだ写真は、どこか家族写真のようにも見えた。
「ありがとう……」
小さくつぶやくと、不思議と涙がこぼれた。
私は幸せだった。
ピコン。
またLINEが鳴る。
『特別に、僕の職場を見せます』
送られてきた写真には、電子ピアノと大きなスピーカー。
その横にはノートパソコン。
まるでプロの音楽スタジオみたいだった。
でも部屋には、それ以外ほとんど何もない。
机とベッドがあるだけの、質素な部屋だった。
『誰にも見せたことないんですけど、特別です』
『こんな感じで仕事してます』
私は思わず一人で拍手してしまった。
「すごい……」
でも、それ以上にうれしかった。
誰にも見せたくないと言っていた場所を、私には見せてくれた。
それが何よりもうれしかった。
そして悠真さんは、次に会う約束までしてくれた。
『一つ仕事が片付いて、暇になったので』
私は思わず笑ってしまった。
「その誘い方って……」
一人でツッコミを入れる。
いつもは私から何度かLINEを送り、なんとなく約束をしていた。
でも今回は違った。
悠真さんから誘ってくれた。
数日後。
いつもの喫茶店。
秋芳洞での出来事を思い出しながら、二人で笑った。
仕事の話。
部屋の話。
ゲームの話。
悠真さんは、自分が作っているゲームのことも少しだけ話してくれた。
「チームのみんな、本当にいい人たちなんです」
「こっちへ来て、本当に良かったと思ってます」
そう何度も言っていた。
そして、ふいに表情が真剣になった。
「前に話した彼女のこと……」
私は思わず息をのんだ。
「ずっと引きずっていたんです」
胸が苦しくなった。
鼓動だけが大きく聞こえる。
悠真さんは静かに続けた。
「でも、あの日」
「栞さんが、僕に傘を差し出してくれた時……目に涙をためていたでしょう」
私は、あの日のことを思い出した。
自然と目が潤む。
「家へ帰ってから、何度も考えました」
悠真さんは、まっすぐ私を見た。
「そして気付いたんです」
「栞さんと話していると、安心できるって」
その一言で十分だった。
私は何も言えなかった。
ただ、笑って泣いていた。
こうして私たちは、自然に付き合うようになった。
その帰り道、二人で母に報告へ行った。
母は、最初から分かっていたように笑っていた。
「栞をよろしくお願いします」
悠真さんは少し照れながら、深く頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
そして、記念に三人で写真を撮った。
やっぱり、真ん中には母がいた。
それが、私たちらしい一枚だった。
完




