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第1話

雨は、しばらく止みそうになかった。

 私は小さな駅の軒下で、空を見上げた。

 傘を忘れたのだ。

 家までは歩いて五分ほど。しかし、この雨では五分でも十分にずぶ濡れになる。

 どうしようかと考えていると、一人の男性が近づいてきた。

 三十代くらいだろうか。

 見たことのない人だった。

 小さな町だから、だいたいの顔には見覚えがある。けれど、その人だけは初めて見る顔だった。

 男性は何も言わず、持っていた透明なビニール傘を私の前に差し出した。

「えっ?」

 思わず声が漏れる。

「安もんだから、返さなくていいですよ」

 それだけ言うと、男性は駅前に停まっていたタクシーへ向かった。

「あ、でも――」

 結構です、と言おうとした時にはもう遅かった。

 男性はタクシーに乗り込み、そのまま走り去ってしまった。

 私は呆然としながら、手元の傘を見つめた。

 見知らぬ人から物を借りるのは好きじゃない。

 それでも、この雨の中ではありがたかった。

 私は傘を開き、家へ向かって歩き出した。

 この傘がなければ帰る頃には全身びしょ濡れになっていただろう。

 正直助かった。

 それは間違いない。

 けれど――。

 返さなくていいと言われても、何となく気持ちが悪かった。

 できることなら返したい。

 でも、名前も知らない。

 どこの人かも知らない。

 そもそも、もう二度と会わないかもしれない。

 そんなことを考えているうちに家へ着いた。

「雨、大丈夫だった?」

 玄関を開けると、奥から母の声が聞こえた。

「うん。傘、貸してもらった」

「そう。良かった」

 母は少し安心したように笑った。

 そして首をかしげる。

「どこの人?」

「分からない」

「えっ?」

 今度は母が驚く番だった。

 この町は小さい。

 誰かの知り合いの知り合いは、別の誰かの知り合いだったりする。

 そんな町だ。

 だから、母が驚くのも無理はなかった。

「本当に知らない人」

「珍しいねえ」

 母は不思議そうに言った。

 私は曖昧にうなずくと、そのまま二階へ上がった。

 着替えながら、ふと考える。

 どこの人だったんだろう。

 聞けば良かった。

 この町なら、出身や勤め先を聞けば誰かにつながることも多い。

 でも、その時は聞けなかった。

 イケメンだったからだろうか。

 いや。

 そうじゃない気もする。

 紳士的だったからだろうか。

 それも違う気がした。

 ただ――。

 あまりにも自然だったのだ。

 傘を差し出して、何も求めず、さっと去っていく姿が。

 だから、かえって声をかけられなかった。

 観光客が来るような町でもない。

 仕事で来たようにも見えなかった。

 不思議な人だったな。

 そう思ったけれど、考えても仕方がない。

 私はそのことを頭の片隅へ追いやった。

 私は二十二歳。

 高校を卒業して四年になる。

 地元のメーカー工場で働いていた。

 家は母子家庭だ。

 母は私を高校まで通わせるために、三つもの仕事を掛け持ちしていた。

 そして私の卒業式の翌日、倒れた。

 働き過ぎだった。

 それ以来、母はめまいを繰り返すようになり、外出もほとんどできなくなった。

 だから今は、私が働いて家を支えている。

 それが当たり前の日常だった。

 あの日、あの雨の駅前で出会った見知らぬ男性が、その日常を少しずつ変えていくことになるとは、まだ知らなかった。

 私はそれから、その透明な傘を毎日持ち歩くようになった。


 雨の日だけではない。


 晴れの日もだ。


 通勤するときも、帰るときも。


 まるでお守りのように。


 職場ではよく聞かれた。


「今日は雨の予報だったっけ?」


 私は曖昧に笑ってごまかした。


 そしてある日、更衣室で仲の良い同僚に聞かれた。


「ねえ、どうして毎日その傘持ってるの?」


 私は少しだけ事情を説明した。


 すると同僚は傘を見ながら言った。


「でもさ、それ、どう見ても安物の傘だよ」


「そうかな」


「本当に返さなくてもいいんじゃない?」


 私は苦笑した。


 確かにそうかもしれない。


 返さなくていいと言われたのだ。


 普通なら、そのまま使えばいい。


 でも――。


 私は返したかった。


 気持ち悪いから。


 そう思っていた。


 けれど、それだけではなかったのかもしれない。


 もしかしたら私は、


「わざわざ返してくれなくても良かったのに」


 そう言って笑う顔が見たかったのかもしれない。


 あるいは――。


 あの人のことが気になっていたのかもしれない。


 顔はあまり覚えていない。


 それなのに、なぜだろう。


 雨の駅で見た後ろ姿だけが、妙に心に残っていた。


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