第68話 「空の鉾と、弟の名が書かれた椀」
――帰る場所を残すということ――
長刀鉾町に、雨上がりの朝が来た。
東へ続いていた長刀の痕跡は、昨夜の雨に消されている。
それでも町では、大工や鍛冶職人たちが動き始めていた。
焼け残った木材を選り分け、曲がった金具を外し、煤に埋もれた鉾の部材を一つずつ運び出していく。
釘打ちの甚八が、空になった鉾の中心を見上げた。
「長刀の代わり……作るんか?」
職人の一人が答える。
「形だけでも戻さな、町の者が不安がる。似たもんを載せればええやろ」
だが、墨屋宗白は首を横に振った。
「作らん」
「けど、月行事——」
「失うたものを、偽物で埋めてはならん。二代目の長刀は、いまもどこかにある」
宗白は帳面を開き、墨のついた筆で記した。
——長刀一振り。所在不明。東へ運ばれた可能性あり。
「無いものは、無いと残す。それも記録や」
茶太郎は、長刀のない鉾を見上げた。
空いた場所から、青い空が見えている。
「空っぽのままでも……いいの?」
「よくはない」
宗白は答えた。
「せやけど、嘘を載せるよりはええ。いつか本物が帰ってきたとき、戻る場所が分からんようになっては困る」
その日の昼、復興に携わる者たちへ汁物が振る舞われた。
お寅婆が、大鍋の底を杓子でさらう。
「今日は薄いで。味噌も大根も、ぎりぎりや」
志乃が笑った。
「薄くても、温かければごちそうですよ」
「ごちそうやない。貸しや。生き延びたら、次の腹ぺこに返し」
京鈴は片方だけの赤い草履を揺らしながら、椀を受け取った。
ひと口すすり、少し考えてから言う。
「……昨日より、うちの味に近い」
「そら結構」
お寅婆は、嬉しそうな顔を見せずに次の椀へ汁を注いだ。
人々が席につくなか、宗白だけが帳面を前に動かなかった。
帳面には、焼けた家の持ち主、借り出した道具、行方の分からない者の名が並んでいる。
その端に、灰童子のカイがしゃがんでいた。
「……ここにも、いるよ」
白灰の指が、帳面の一角をなぞる。
薄い灰の中に、一つの家名が浮かんだ。
宗白の筆が止まる。
お寅婆が、その名を見て目を細めた。
「堺から来た荷担ぎが言うとった。似た家名の親子が、向こうで生きとるらしいで」
宗白は答えなかった。
茶太郎には、その沈黙が重く感じられた。
宗白が見捨てたという弟。
追放された法華宗徒とともに、堺へ逃れた弟の家族。
宗白は、彼らが生きていることを以前から知っていたのかもしれない。
しかし、それを認めれば、空き家として使った蔵や土地にも、帰るべき持ち主がいることになる。
いま町に残る者を救うことと、追われた者の場所を残すこと。
どちらも捨てられないからこそ、宗白は何も言わなかった。
「宗白さん」
茶太郎が呼んでも、宗白は顔を上げなかった。
やがて人々へ椀が行き渡ると、宗白は立ち上がった。
新しい椀を一つ手に取り、その底へ小さく墨で名を書く。
灰に浮かんでいた、弟の家名だった。
宗白は汁をよそい、人のいない場所へその椀を置いた。
謝罪も、説明もない。
ただ、空席の前へ椀を置き、席が塞がれないよう周囲の荷物を静かに退けた。
カイの灰色の瞳が、大きく開く。
豆しばの洛は空席の隣まで歩き、前足を揃えて座った。
まるで、帰ってくる者を待つように。
京鈴が、宗白を見上げる。
「……ここ、座ってええ場所?」
宗白はしばらく黙っていた。
「ああ」
低い声が、ようやく落ちた。
「帰ってきた者の席や」
カイが椀のそばへ指を置くと、灰の中に弟の家族の名が浮かんだ。
今度は誰も、それを消さなかった。
茶太郎は覚書を開き、ゆっくりと文字を記した。
——空いている場所は、失った印だけではない。
——帰ってくる人のために、残しておく場所にもなる。
顔を上げると、長刀を失った鉾の向こうに、細い空が見えた。
鉾の空所も、食卓の空席も、まだ埋まってはいない。
けれど、それは終わりの形ではなかった。
いつか帰るものを迎えるための、入口だった。
東から風が吹き、宗白の帳面を揺らした。
近江へ消えた長刀がどこにあるのか、まだ誰にも分からない。
茶太郎は空の鉾を見上げ、小さく呟いた。
「答えが見つからなくても……探しながら歩けば、道は途切れない」
洛が短く吠えた。
その声は、東へ続く道の先まで届くように、焼け跡の空へ響いていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
空いている場所は、失われたものを示すだけではありません。いつか戻る人や物を迎えるため、あえて埋めずに残しておく場所にもなります。
長刀のない鉾と、弟のために残された椀。二つの空所には、忘れないことと待ち続けることが重なっています。長刀の行方はまだ分かりませんが、東へ続く糸は完全には切れていません。




