第34話 「都から来た灰と、名もなき避難者」
――霊ではなく、人の手が生んだ炎――
天文五年(一五三六年)七月二十三日。
茶太郎、四歳。
夜が明けても、北の空は赤かった。
宇治川には焦げた木片が流れ、茶畑にも薄黒い灰が降っている。
茶太郎は汚れた茶葉を拾った。
「……苦い」
母・志乃が顔をのぞき込む。
「灰の味?」
茶太郎は首を振った。
「怖くて……帰る場所がなくなった味」
茶丸は北を睨み、低く鳴いた。
茶丸(念話)
『霊ではない。人が起こした火だ』
そこへ伊平じいさんが駆け込んできた。
「都で戦じゃ。比叡山と六角の軍勢が洛中へ攻め入り、法華宗の寺々を焼いたらしい」
父・宗次の顔色が変わる。
「都が燃えとるんか」
「下京は大火じゃ。逃げた者らが伏見や宇治へ向かっとる」
やがて宇治橋の向こうに、人の列が現れた。
荷を背負った町人。
足を傷めた老人。
焼けた経巻を抱く僧。
泣きながら親を捜す子ども。
その一人、小さな女の子が橋のたもとで倒れた。
茶太郎が駆け寄る。
「おなか、空いてる?」
「お母ちゃんと……はぐれた……」
志乃が女の子を抱き起こし、宗次は商屋の戸を開け放った。
「立てる者は中へ! 怪我人を先に寝かせるんや!」
「かん太は水を運んで。こたろは走ったらあかんよ!」
「ぼくも運ぶ〜!」
こたろは空の桶につまずいた。
希太
「にゃ……」
◆名を聞かない粥
茶太郎は秘密基地から、亜空間収納に蓄えていた米、味噌、干し茸、茶葉を取り出した。
しかし、運び出せる量には限りがある。
額に汗を浮かべる茶太郎へ、茶丸が告げる。
『無理をするな。霊力だけでは人の腹は満たせぬ』
「うん。だから、みんなで作る」
商屋の前に大鍋が据えられた。
宗次が火を焚き、志乃が米を洗う。
かん太は井戸水を運び、ゆかりは家族とはぐれた者たちの縁糸を探した。
レオとウリハが干し茸を裂き、ナギは水の濁りを確かめる。
茶太郎は揉んだ茶葉を大鍋へ入れた。
先ほどの女の子が、おそるおそる尋ねる。
「名前を言わないと……もらえない?」
「言わなくていいよ」
「どこのお寺の人かも?」
「聞かない。おなかが空いてるなら、食べていいんだよ」
阿弥陀如来像の前で得た答えを、茶太郎は覚えていた。
人の価値を量らず、席を空け、一椀を渡す。
やがて、茶と茸の香りが朝の宇治へ広がった。
「できたよ。《帰り椀の茶粥》」
米を柔らかく煮て、茸と味噌を加えただけの粥だった。
それでも、人々は温かな椀を両手で抱いた。
女の子も一口食べ、涙をこぼす。
「……あったかい」
「おかわりもあるよ」
橋姫が静かに人々を見渡した。
「料理で、起きてしまった戦は消せません」
茶太郎は頷く。
「でも、もう一度歩けるようにはできる」
茶丸(念話)
『それでよい。生きた者を助けるには、米と水、そして人の手が必要だ』
◆森家の蔵
昼を待たず、商屋の米が底をつき始めた。
それでも避難者の列は途切れない。
「このままでは夕方まで持たんぞ」
宗次の言葉に、伊平じいさんが立ち上がった。
「森家を頼る」
「もりけ?」
「宇治の茶園と蔵を束ねる森彦右衛門殿じゃ。皆は“ひこじい”と呼んどる」
「蔵を開けてくれるの?」
「頑固な御仁じゃ。じゃが、一椀の茶に嘘はつかん。茶太郎、お前さんも来い」
茶太郎は空になりかけた鍋と、椀を持って並ぶ人々を見た。
「……行く。みんなが今日を越えられるように」
ゆかりが茶太郎の手を握る。
「糸が、茶園の方へ伸びてる」
茶丸も二人の後ろに続いた。
森家の茶園へ着くと、門前に旅装の男が立っていた。
煤のついた衣をまとい、連歌の懐紙を大切そうに抱えている。
男は赤く霞む都を振り返った。
谷宗牧
「都の句を、炎で終わらせてはならぬ……」
その背後で、森家の重い門が開いた。
白髪の老人が現れ、茶太郎を鋭く見下ろす。
森彦右衛門
「伊平。その童が、噂の料理人か」
「そうじゃ。都から逃げてきた者らのため、蔵を借りに来た」
彦右衛門の眉が動いた。
「蔵を開けてほしければ——まず、わしに一椀飲ませてみい」
茶太郎は灰の降る茶園で、静かに茶葉を取り出した。
人の戦が生んだ苦しみと向き合う、新たな修業が始まった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回から、京の大火を受けた避難者支援が始まりました。
料理だけで傷や病気を治すことはできません。それでも、水と米と人手を集め、今日を越えるための一椀を渡すことはできます。
ただし、善意だけで炊き出しを続けることはできません。米、薪、鍋、運び手――現実の備えが必要です。
そこで茶太郎たちは、宇治の茶園と蔵を束ねる森彦右衛門、通称ひこじいを訪ねます。
次回は、閉ざされた蔵を開けるための「試し茶」です。




