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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第一章 ~三歳の茶太郎、宇治を巡る~
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第21話 「槇島の武者霊と、使番の本懐」

 ――名を伏せた武者が、“生きて届ける”意味を語る――


 夕暮れの槇島。


 宇治川から分かれた水路が、湿った草地の間をゆっくり流れていた。

 その先には、古い土塁の跡と伝わる小高い場所がある。


 茶太郎たちは、ナギに導かれて草をかき分けて進んだ。勝手に土地へ入らないよう、槇島の使番である長逸へ知らせ、土地を知る者とかん太、伊平じいさんにも同行してもらっている。


「……ここ」


 水路を泳いでいたナギが、長い尾びれを震わせた。


「水が流れたいのに、何かにつかまれてる」


 希太が縁の足元へ身を寄せる。


「にゃ……」


「黒い糸が、土の下へ刺さってる」


 縁が目を凝らした。


「大吉山から続いていた糸と同じ。でも、ここで鉄みたいに固くなってる」


 茶丸が低く告げる。


『古い武者の気配だ。近づきすぎるな』


 そのとき、風が止まった。

 宇治川の水音まで遠ざかったように感じられる。


「……守れ……」


 草むらの向こうから、かすれた声が聞こえた。


「守れ……何を……守るのだ……」


 土の中から、黒い影が立ち上がる。


 折れた矢を背負い、古びた甲冑をまとった武者だった。

 兜の奥に顔はない。暗い空洞の中で、幾つもの声だけが重なっていた。


 橋姫が息をのむ。


「この霊気……寿永のころに刻まれたものです」


「じゅえい?」


「今から三百五十年ほど前、木曽義仲方と、源範頼・義経方の軍勢が宇治川で戦った時代です」


 武者の影が激しく揺れた。


「……義仲さま……」


 ひび割れた声が地面から響く。


「川は速く、馬は怯え、仲間は流された。我らは都へ戻れず……義仲さまを、守れなんだ……」


 黒い霧が武者の足元から広がった。


 茶太郎の舌へ、冷たく苦い味が流れ込んでくる。


 空腹。

 濡れた甲冑。

 傷の痛み。

 それ以上に強いのは、帰れなかった悔しさだった。


「この人、お腹がすいてる」


「腹が?」


 かん太が聞き返す。


「うん。でも、ご飯だけじゃない。伝えられなかった言葉が、喉につかえてる味がする」


 武者は両手で兜を抱えた。


「命を捨てても、守るはずだった。されど我らは、生きることも、死ぬことも果たせなんだ……」


「それは違う」


 長逸が静かに言った。


 傷の残る左腕を布で固定したまま、武者霊を真っすぐ見つめている。


「そなたは、死ねなかったことを恥じているのか」


「……主を守れぬ武者に、何が残る」


「伝えるべきことが残る」


 長逸の声には迷いがなかった。


「使番は、命令を受けただけでは役目を果たしたことにならぬ。矢が降ろうが、馬を失おうが、生きて知らせを届けるまでが務めだ」


 かん太が黙って長逸を見る。

 ただの使番にしては、その言葉はあまりに重かった。


「死ぬことだけが、本懐ではない」


 長逸は続けた。


「主を守れぬこともある。戦に敗れることもある。それでも生き残った者が、何が起きたかを次へ伝えれば、そこで途切れずに済むものがある」


「……我らは、誰にも伝えられなんだ」


「ならば、今ここで伝えよ」


 長逸は茶太郎たちを示した。


「聞く者がいる。そなたが守れなかったことも、守りたかったものもな」


 ◇


 茶太郎は武者霊から離れた場所へ座った。


「何を守りたかったの?」


 黒い影が震える。


「……義仲さまの、帰る道を」


「帰る道?」


「戦から戻られたとき、温かな火と、飯の湯気がある場所を……守りたかった」


 茶太郎はかん太を見上げた。


「持ってきたもので、お粥を作れる?」


「ああ。火を使える場所は確かめてある」


 伊平じいさんと土地の者が安全な場所へ小さな火鉢を据える。分福には、出発前から清い水を入れてあった。


「ぽんぽこぽん。帰る場所には、温かい湯が要るで」


 分福が蓋を鳴らした。


 茶太郎は炒った雑穀を湯へ入れ、かん太に混ぜてもらった。柔らかく煮えたところで、乾かした茶の茎とわずかな塩を加える。


 豪華な料理ではない。

 冷えた体へ少しずつ温かさを戻す、薄い雑穀粥だった。


 茶太郎は大人に椀を運んでもらい、武者霊の前へ置いた。


「あなたたちが守りたかった、帰る場所の味だよ」


 白い湯気が、黒い甲冑へ触れる。


「……我らにも、帰る場所があるのか」


「どこへ帰るかは、僕には決められない」


 茶太郎は正直に答えた。


「でも、ここで何があったのか、聞くことはできるよ」


 武者は椀へ手を伸ばした。

 黒い指が湯気へ触れた瞬間、影の奥から大勢の声が漏れ出す。


 馬のいななき。

 川へ落ちた仲間を呼ぶ声。

 矢の飛ぶ音。

 主の名を叫ぶ声。


 そして、帰りを待つ者の顔を思いながら、戦場へ倒れた武者たちの泣き声。


 茶太郎は耳を塞がなかった。

 長逸も、その場から動かなかった。


「……橋を落とした」


 武者霊が語る。


「敵を止めるためであった。されど、退く者の道まで失わせた」


 別の声が重なる。


「川へ落ちた者へ、手を伸ばせなんだ」


「主へ敗報を届ける者も、残せなんだ」


「何を守り、何を失ったのか……誰にも伝えられなんだ」


 長逸は一つずつ聞き届けた。


「ならば、私が記憶しておこう」


 武者の声が止まる。


「そなたらが戦い、敗れ、帰れなかったこと。命を捨てたかったのではなく、帰る場所を守りたかったことを」


「……使番よ。届けてくれるか」


「ああ。ただし、飾り立てて手柄にはせぬ。敗れた者の言葉として、そのまま受け取る」


 黒い甲冑へ、細い白線が走った。

 すべての悔いが消えたわけではない。

 それでも、言葉を塞いでいた黒い霧が少しずつ薄くなっていく。


「……温かい」


 武者は、粥の湯気へ顔を向けた。


「我らは、ようやく戦の続きをやめられる」


 ◇


 影の中から、淡い光が幾つも浮かび上がった。


 大勢の武者の記憶が、白い糸となって宇治川の流れへ帰っていく。

 しかし、一つだけ、その場に残る影があった。


「君は帰らないの?」


 茶太郎が尋ねる。


「まだ、戻らぬ者がいる」


 残った武者は、水路と草地を見渡した。


「戦の記憶に迷い、帰る道を見失った者がいる。ならば我は、ここで待とう」


「また戦うの?」


「いや」


 武者は折れた槍を地面へ立てた。


「死地へ向かう者を送り出すのではない。迷った者を、生きる者の道へ戻したい」


 縁の瞳に、白い糸が見えた。


「この人の糸、槇島と帰る道へ結び直されてる」


 武者は兜へ手を添えた。


「されど、己の名を思い出せぬ」


 茶太郎は少し考えた。


「槇島で、人の帰りを待つ者なら……マキトという呼び名はどう?」


「マキト……」


「決めるのは、君だよ。昔の名前を探してもいいし、名前を持たずに守ることもできる」


 武者は水路へ目を向けた。

 ナギが淡い水色の尾びれを揺らし、その返事を待っている。


「昔の名は、戦場へ置いてきた」


 やがて武者は答えた。


「これからの我を呼ぶ名ならば――マキトを選ぼう」


 黒い影が、一人の武者へ収束していく。

 古びた甲冑に銀灰色の光が戻り、兜の奥へ穏やかな顔が現れた。ただし、甲冑に残る傷や欠けは消えていない。


「我はマキト」


 武者は茶太郎たちへ頭を下げた。


「これよりは、死地へ向かう者ではなく、帰る者の道を守ろう」


 水路を塞いでいた黒い糸が緩み、止まっていた水がさらさらと流れ始めた。


「流れた!」


 ナギが嬉しそうに水面を跳ねる。


「水、もう苦しくない」


 橋姫も表情を和らげた。


「武者たちの記憶が消えたのではありません。帰れなかった悔しさを、帰る者を見守る役目へ結び直したのですね」


『よい選択だ』


 茶丸が尻尾を揺らした。


 ◇


 長逸は、マキトをじっと見つめていた。


「そなたは、ここに残るのか」


「うむ。されど、縛られて残るのではない。自ら選んで待つ」


「ならば、槇島の者にも伝えよう。この水路と古い道を、粗末に扱わぬようにとな」


「かたじけない」


 二人の武者は、短く頭を下げ合った。


 茶太郎は長逸を見上げる。


「長逸さんは、どうして使番の気持ちがそんなに分かるの?」


「教えられたからだ」


「誰に?」


 長逸は少しだけ目を細めた。


「戦で最も困るのは、勇ましい者が足りぬことではない。悪い知らせを持ち帰る者がいなくなることだ――とな」


「長逸さんのご主人に?」


「さてな」


 長逸はそれ以上答えなかった。


「使番は、主のことを軽々しく語らぬものだ」


 茶丸だけが、その言葉の奥に隠された身分を感じ取っていた。

 しかし、今は問いたださない。


 マキトは水路のほとりへ立ち、折れた槍を杖のように地面へついた。


「ここを通る者は、我が見守ろう。生きて帰る者も、帰る場所を探す者も」


 夕暮れの風が戻った。

 草が揺れ、宇治川の水音が再び聞こえ始める。


「マキトは、ずっとここにいるの?」


 ナギが尋ねた。


「今宵はな」


 マキトは遠くの茶畑へ顔を向けた。


「されど、そなたらの帰る場所というものも、一度見てみたい」


「秘密基地へ来る?」


「秘密の場所へ、初めて会った武者を招いてよいのか」


「帰る道を守ってくれるなら、仲間だよ」


 茶太郎の答えに、マキトは初めてわずかに笑った。


「ならば、務めを終えた夜に訪ねよう」


 茶太郎は空になった椀を抱え、長逸へ向き直る。


「長逸さんも、ちゃんと帰ってきてね」


 長逸は一瞬だけ驚き、それから小さく笑った。


「ああ。知らせを届け終えたら、また茶太郎の粥を食べに戻ろう」


 名を伏せた使番と、名を選び直した武者。


 二人が交わした「生きて届ける」という約束は、やがて槇島の城を越え、阿波から畿内へ新しい時代を運ぶ者のもとへ届くことになる。


 その夜。

 秘密基地へ続く細い道に、折れた槍をつく武者の影が現れた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


 今回の背景にある宇治川合戦は、寿永三年(一一八四年)、木曽義仲方と、源範頼・義経方の間で起きた戦いです。


 物語の時代から見れば、およそ三百五十年前の出来事になります。マキトは実在の武将ではなく、宇治川周辺へ残った名もなき武者たちの記憶から生まれた創作上の霊です。


 茶太郎の粥は、武者たちの敗北や悔しさを消したわけではありません。語れなかった記憶を言葉にし、これから何を守るか選ぶための温かさを渡しました。


 また、長逸が語った「生きて知らせを届けるまでが務め」という言葉は、今後の彼自身にも返ってくることになります。


 次回は、マキトが初めて秘密基地を訪れる夜。


 水路を読むナギと、帰る道を守るマキト。それぞれが、自分の役目を見つけていきます。

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『茶太郎がゆく』
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