第170話 「偽水輪と、見える信用の組紐」
偽物の水輪甘酒が見つかった翌朝。
下京の共同炊事場には、三本の竹筒が持ち込まれていた。
「昨日ここで買うた甘酒、酸っぱかったぞ!」
「子どもに飲ませてしもうたやないか!」
人々の声が、茶太郎へ突き刺さる。
本物を売った場所とは違う。
印の形も少し崩れている。
それでも買った者にとっては、どちらも“茶太郎の水輪甘酒”だった。
「ぼくが味を見ます」
茶太郎が竹筒へ手を伸ばすと、志乃が取り上げた。
「飲んだらあかん。傷んでいるかもしれへんものは、霊性味覚でも口にせえへん」
曲直瀬道三も頷く。
「異臭、泡、器の汚れ。三つ揃えば、味見をせず捨てる。それが作り手の責任じゃ」
幸い、重く体調を崩した者はいなかった。
だが水輪甘酒の売り場から、客の姿が消えた。
五枚の白札を持つ子どもたちも、空の木椀を前にして黙り込んでいる。
売れなければ手間賃は出ない。
翌日の椀を支える銭も残らない。
「偽物を捕まえれば、また売れるかな」
茶太郎が尋ねると、日野小夜は首を振った。
「一人捕らえても、別の者が同じ印を刻みます」
「じゃあ、もっと難しい印にする?」
「難しい印も、いつかは真似されるでしょう」
小夜は本物と偽物の竹筒を並べた。
「大切なのは、印を見せることではありません。本物が、いつ、どこで、誰によって作られたかを確かめられることです」
茶太郎は幕府台所で受け取った組紐を思い出した。
料理が通る道を、目で見えるようにする紐。
「甘酒にも、通ってきた道をつけよう」
ゆかりが六色の組紐を机へ並べた。
毎日、使う色を変える。
さらに結び目の数で、作った場所を示す。
一つ結びは宇治。
二つ結びは下京の共同炊事場。
三つ結びは幕府台所。
「今日の色と、作った場所の結び方。二つとも合わないと本物じゃない」
茶太郎の提案に、小夜は条件を加えた。
「売り場ごとに渡した竹札の数も帳面へ記します。売れた数、戻った椀、残った甘酒が合わなければ、その日のうちに止めます」
水輪甘酒は作った日のうちに売る。
残ったものを翌日に混ぜない。
酸味や異臭があれば、惜しまず廃棄する。
古い組紐は回収し、翌日には使えなくする。
文字を読めない者にも分かるよう、売り場にはその日の組紐を大きく吊るした。
それは水輪印を組み上げた、小さな《結び簾》だった。
「今日は青い紐、二つ結びや!」
京鈴が通りへ声を張る。
白札の子どもたちは、売り手の竹筒と見本の紐を見比べた。
一番小さな子も、色が違う筒を見つけると首を横へ振る。
子どもに偽物を捕らえさせるのではない。
違いを見つけたら、近くの大人へ知らせる。
追うのは弥七と日置雪、そして影猫衆の役目だった。
その日の午後。
白灯が、偽物を売る男を見つけた。
男の竹筒には、昨日使った古い赤紐が結ばれている。
「今日の紐は青や!」
京鈴の声で町人たちが気づき、男は竹筒を捨てて逃げた。
弥七はすぐには捕らえず、その後を追う。
男が入ったのは、焼け残った古い酒蔵だった。
中には洗っていない甕、古粥、水飴の滓が積まれていた。
さらに、幕府台所の荷運び時刻を書いた紙も見つかる。
男は日置雪に出口を塞がれ、膝をついた。
「俺は言われたとおりに売っただけや!」
「誰に言われた」
「知らん。借金を減らしてやると言われた。水輪の評判を落とせば、証文を返すと……」
男が差し出した借用状には、法外な利が重ねられていた。
墨屋宗白が顔をしかめる。
「返しても返しても、元が減らん書き方や」
茶太郎は男を見た。
「偽物を売ったのは悪い。でも、この証文も変だよ」
「悪い者が騙されたからといって、罪が消えるわけではありません」
小夜は厳しく言った。
「ですが、騙した者の罪まで見逃してよい理由にもなりません」
男は粗悪な甘酒を売った分を、炊事場の清掃と薪運びで返すことになった。
傷んだ材料はすべて廃棄され、甕と竹筒は煮沸しても使えないものを割った。
翌日。
水輪甘酒の客は、すぐには戻らなかった。
茶太郎たちは声を張って安全を訴えず、決めた手順を守り続けた。
その日の色を掲げる。
作った数を記す。
売れ残りを混ぜない。
椀を洗い、乾かす。
偽物なら代金を返し、体調が悪ければ道三へ知らせる。
三日目、御台所から一人の女房が訪れた。
列の先へ割り込まず、青い組紐を確認し、決められた代価を置く。
濃水輪を受け取ると、空になった竹筒を前日の分とともに返した。
御台所は「信用せよ」と命じなかった。
ただ、自ら決まりを守って買い続けた。
その所作を見た町人が、一人、また一人と列へ戻った。
売り上げは以前の半分。
それでも翌日の五つの椀を支えるだけの銭は残った。
「信用って、すぐには戻らないんだね」
茶太郎が言う。
「ええ。けれど、正しい仕事を積み重ねれば戻せます」
小夜は偽造に使われた借用状を灯りへ透かした。
紙の端に、七つの花弁を持つ透かし紋が浮かぶ。
小夜の顔から血の気が引いた。
彼女は袖から七宝の鍵を取り出し、借用状の印へ重ねた。
鍵と紋は、寸分違わず重なった。
「この証文は……母の信用網から流れたものです」
茶太郎が見上げる。
「小夜さんのお母さん?」
小夜は答えなかった。
ただ、震える指で七宝鍵を握り締めた。
「日野家の古い証文蔵を開けます。黒三爪は、銭を集めているのではありません」
「じゃあ、何を?」
「誰が誰を信じ、誰が誰へ借りを負っているか――京の“縁の弱み”を集めているのです」
その夜。
誰もいない古い証文蔵で、一枚の銭が床へ転がった。
表には鳳凰。
裏には、歪んだ月。
銭の上へ、豪奢な小袖をまとった女の霊が姿を現す。
「信用を形にすれば、必ず奪う者が現れる」
女は冷たく笑った。
「さて、小夜。そなたは母の銭を、救いに使えるかえ?」
銭の功罪に囚われた女――日野富子の霊が、長い眠りから目を覚ました。




