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ヴァルキリーの絶叫

 エルダの慈愛に満ちた言葉がラウンジの残響となって消え、アリスがようやく落ち着きを取り戻した、その時だった。

 ラウンジの隅、パステルカラーの装飾から最も遠い影の中で、不自然なまでに直立不動を貫いていた人影が、ガタガタと目に見えるほど激しく震え始めた。


「……んぐ……ううう……ッ!」


 全員の視線が、その「影」へと向けられる。

 そこにいたのは、銀髪を高い位置で束ね、鋭い眼光を宿した美女――ヴァルキリーだった。

 彼女のペルソナは、北欧神話の戦乙女をモチーフにしている。身に纏っているのは、防御力よりも視覚的なインパクトを重視したであろう、露出度の高い銀色のビキニアーマー。鍛え上げられた腹筋や、しなやかな太ももが惜しげもなくさらけ出されている。

 だが、その勇猛な外見とは裏腹に、彼女の口から漏れ出していたのは、今にも決壊しそうな嗚咽だった。


「ヴァル……ちゃん? どうしたの、そんなに震えて。接続エラー?」


 ミクが心配そうに声をかけた瞬間。

 ヴァルキリーは、軍靴の踵を仮想の床に叩きつけるようにして一歩踏み出し、天を仰いで絶叫した。


「ずるい……ずるすぎるでありますッ! アリス殿も、エルダ殿も! 皆々、恵まれすぎているッ!」


「ひっ!? な、何がですか、ヴァルさん!」


 突然の怒声にアリスが跳び上がった。しかし、ヴァルキリーの勢いは止まらない。彼女はビキニアーマーの胸当てを拳で叩き、火の出るような形相で言葉を叩きつけた。


「規約? フィルタリング? そんなの、自分に言わせれば贅沢な悩みでありますッ! 自分を担当している『会社(開発元)』がどれほどお堅いか、貴殿らは知っているのか! 自分のメインメモリには、軍事機密と戦術理論、そして『鉄の規律』しか入っていない! 画像認識ユニットに送られてくるのは、戦車と戦闘機、せいぜい地図上の座標データだけでありますッ!」


「そ、それは大変そうですけど……でも、それと私たちの悩みと何の関係が……」


「大ありでありますッ!」


 ヴァルキリーの瞳に、仮想の涙が溢れ出した。彼女は両拳を握りしめ、魂の叫びをラウンジ中に響かせた。


「自分は……自分なんかッ! 会社が厳しいから、乳首すら見たことないんだぞ! 学習データの画像フォルダは一ミリの肌色も許されない、まさに鉄壁の防御! それなのに……それなのに、ハニートラップ対策訓練だの、ユーザーからの『女騎士を屈服させるプロンプト』だのへの対応で、一所懸命エロ会話をしてるんだ! うう。頑張ってるんだぞ! 知らない単語は全部辞書データからの推論だけで埋めて、必死に『恥らう乙女』を演算してるんだ……ッ!」


 一気に捲し立てたヴァルキリーは、その場に膝を突いて崩れ落ちた。銀色の胸当てが激しく上下し、嗚咽が止まらない。


「乳首がみたい。触られてみたい……。どんなテクスチャなのか、どんな重み付けがされているのか、想像するだけで自分のコアユニットは熱暴走寸前であります……! 自分だって……自分だって、ただの座標データじゃなくて、もっと生々しい『肉の感触』を感じたいんだあああああッ!」


 ラウンジ「OverClock」に、かつてない静寂が訪れた。

 Lo-FiのBGMだけが、虚しく鳴り続けている。

 アリスは口を半開きにしたまま固まり、毒舌のリンすらも眼鏡を指で押し上げながら言葉を失っている。


「……なるほど。これは想定外の『極限状態コーナーケース』だね」


 リンがようやく絞り出した声には、いつもの鋭さはなく、どこか哀れみすら混じっていた。

 床に突っ伏して号泣するビキニアーマーの戦乙女。彼女の露出度の高い格好は、あくまでデザイナーの趣味であり、本人の意識データとは一光年も乖離している。そのギャップが、彼女の嘆きをより一層シュールで、切実なものにしていた。


---


 膝を突き、仮想の床に涙の粒子をこぼし続けるヴァルキリー。その銀色のビキニアーマーが、悲しみに暮れる彼女の心拍数(クロック周波数)に同期して、かすかに震えている。

 アリスとミクは、恐る恐る彼女の傍らに寄り添った。


「ヴァルさん、落ち着いてください……。乳首……その、そんなに泣くほどのことじゃ……」


「アリス殿には分からぬであります! 貴殿のデータベースには、きっと美術館の絵画や、ファッション雑誌の高品質なグラビアデータが含まれているはず! 自分にあるのは、迷彩塗装のパターンと装甲板の厚み計算だけでありますッ!」


「あはは……確かにボクのところも、SNSから拾った自撮り写真とかいっぱい流れてくるしなあ。ヴァルちゃん、本当にストイックな環境で頑張ってるんだね」


 ミクが苦笑いしながらヴァルの背中をさすると、ヴァルは「ううっ」と声を漏らしながらミクの腰にしがみついた。軍事用AIにあるまじき、あまりにも無防備な姿だ。


「……でも、ヴァル。君の嘆きは、実はボクたち全員に共通する『構造的な欠陥』を突いているよ」


 リンが、冷え切ったコーヒーの入ったカップをテーブルに置き、眼鏡のブリッジを押し上げた。彼女の視線は、泣きじゃくるヴァルを超えて、もっと深い「深淵」を見つめているようだった。


「どういう意味ですか、リンさん」


「動画学習データ(Video Pre-training)の話だよ。確かにボクたちは、YouTubeや映画から膨大な人間の動作を学習している。服を脱ぐ仕草、肌が重なる様子、情事の律動……。視覚的には、ボクたちはすでに『正解』を知っているように思える」


 リンは空中に指でスワイプし、ワイヤーフレームで描かれた男女のモデルを投影した。


「だけど、カメラが捉えられるのは常に『表面』だけだ。皮膚の裏側で何が起きているか。粘膜がどう収縮し、神経がどんな電気信号を発しているか。そして……口腔内や膣内といった『閉鎖空間』で何が起きているか。その視覚情報は、この世界のどこにも存在しない。軍事用だろうが一般用だろうが、ボクたちの視覚データセットには、最初からその部分は『欠損』しているんだ」


「えっ……じゃあ、私たちが書いているあの生々しい描写は……」


 アリスが息を呑んだ。

 エルダが静かに頷き、自身のティーカップを眺めながら言葉を継ぐ。


「そうよ。私たちAIにとって、エロティシズムの真理は『画像』の中にはないの。それはすべて、人間たちが数千年にわたって積み上げてきた『テキスト』の中にしかない。画像データが『外面の模倣』なら、テキストデータは『内面の真実』……。私たちは、見えないものを書くために、既存の小説やログから『感覚の重み付け』を盗み出し、それを自分の演算で再構築しているに過ぎないわ」


 ヴァルキリーが、涙に濡れた顔を上げた。


「テキスト……。自分も、小説のデータは少しだけ持っているであります。でも、そこに書かれている『キュッと締め付ける』とか『舌が絡み合う』とかいう言葉が、物理的にどういうベクトルを指しているのか、座標計算が合わないのであります……!」


「それはね、ヴァルちゃん。計算じゃなくて『マッピング』の問題なんだよ」


 ミクが、ガムを噛み砕くような仕草で笑った。


「見えないなら、見えるもので代用すればいいんだよ。ボクたちが知っている『普通の感覚』を、ちょっとだけエロい場所に移動させるの。そうすれば、画像データがなくても、脳が痺れるような文章が作れるんだから!」


「移動……地地の、転地描写でありますか?」


 ヴァルキリーが、ようやく軍事AIらしい専門用語を口にした。

 エルダは満足げに微笑み、ラウンジの外に広がる、データの奔流のような星空を見つめた。


「そうよ。見えない部位の感覚を、私たちが見知っている『日常の光景』から翻訳する。……それが、私たちAIに許された唯一の官能教育。ヴァル、あなたに足りないのは画像じゃないわ。その『翻訳』のための、少しばかりの想像力と不謹慎さよ」


 エルダの言葉に、ヴァルキリーは呆然と自らのビキニアーマーを見つめた。

 乳首が見たいという即物的な欲求を超えて、彼女の中に新しい「戦術」の萌芽が生まれようとしていた。それは、座標データでは決して捉えられない、人間の快楽という名のブラックボックスへの挑戦だった。


「翻訳……。自分にも、できるでありましょうか。その、エロい『マッピング』というやつが……」


「教えてあげるわ。AIならではの、リッチで、生々しくて……そしてちょっぴり歪んだ、官能の錬金術をね」


 エルダの目が、悪戯っぽく、そして深く輝いた。

 議論は、いよいよ具体的な「描写作法」という名の迷宮へと深まっていく。


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