第9話「マリアの廃校舎」
ヴォルコフの突きつけた重く冷酷な現実が、織部悟の論理回路に消えないノイズを残した翌日。
灰色の雨が降り続く中、織部は最前線から少し離れた村外れへと足を運んでいた。
本来の任務である「システムのデバッグ」は、三つの文書の送信によってすでに完了しているはずだった。
だが、エイレス・コンソーシアムの主任法務顧問が口にした「正しい文書だけでは半年で崩れる」という宣告を論破するだけの変数が、どうしても見つからない。
人間の底知れぬ欲望というバグに対抗し、システムを長期的に維持するための「コード」。
そのヒントを求めて、織部は泥濘む道を歩き続けていた。
やがて、雨霞の向こうに崩れかけたコンクリートの建物が姿を現した。
外壁には無数の弾痕が刻まれ、窓ガラスは一枚残らず吹き飛んでいる。
かつては村の子供たちが通っていた小学校だ。
今は戦略的な価値もなく、両陣営からも見捨てられた廃校舎である。
織部は雨音に紛れて静かに建物の内部へと足を踏み入れた。
かび臭い埃と、湿った土の匂い。
そして、微かながらも確かな「生気」の匂いがした。
廊下を進み、かつて教室だったと思われる大部屋の入り口に立つ。
薄暗い部屋の中には、十数人の子供たちが身を寄せていた。
年齢はまちまちだが、どの子もやせ細り、泥とすすに汚れている。
親を爆撃で失った子や、避難の途中で離れ離れになってしまった孤児たちだろう。
彼らは冷たいコンクリートの床に薄い毛布を敷き、身を寄せ合うようにして眠っていた。
その子供たちの傍らで、小さなストーブの火の番をしている女性がいた。
六十代半ばだろうか。
白髪交じりの髪を後ろで束ね、すり切れたカーディガンを羽織っている。
彼女の名前はマリアといった。
かつてこの学校で教鞭をとっていた元教師だという情報が、織部のデータベースには記録されていた。
「……こんなところにいては、長くは保たない」
織部の足音に気づいたマリアが振り返った。
織部は部屋の入り口に立ったまま、感情を排した無機質な声で告げた。
「ここは数日中に、オメガ側の砲兵部隊の射程圏内に入る可能性が高い。食料も医療品も枯渇しているはずだ。国際赤十字の難民キャンプが南に三十キロの地点にある。そちらへ移動するのが、生存確率を最大化するための最も合理的な選択だ」
マリアは立ち上がり、静かな足取りで織部の前へと歩み寄った。
彼女の目には、武装した兵士や得体の知れない侵入者に対する恐怖は一切なかった。
ただ、深い慈愛と、岩のように揺るぎない意志があるだけだった。
「教えてくださってありがとう。でも、私たちはここを動きません」
穏やかだが、きっぱりとした声だった。
「なぜ残るのか」
織部は問うた。
彼の論理回路は、マリアの行動を「重大なエラー」と判定している。
ゲーム理論においても、生物としての生存本能から見ても、ここに留まることは完全に間違った選択だ。
マリアは少しの間、織部の冷たい瞳を見つめ返し、それから眠っている子供たちへと視線を向けた。
「この子たちは、ここが自分の家だと思っているからです」
マリアの声が、雨音の響く教室に静かに落ちた。
「親を奪われ、帰る場所を失い、昨日まで信じていた世界が突然崩れ去ってしまった。この子たちに残されているのは、『マリア先生がいるこの学校だけが、自分たちの居場所だ』という小さな思い込みだけです。もし私がここを去り、見知らぬキャンプへ連れて行けば、この子たちは今度こそ、心の中にある『家』を完全に失ってしまう。ここを失えば、この子たちはもう二度と『帰る場所』を持てません」
だから、ここに残る。
それだけの理由だった。
合理的ではない。
効率的でもない。
「あなたの行動は、生存確率を下げるだけの非合理な選択だ」
「ええ、そうかもしれませんね」
マリアは静かに微笑んだ。
「でも、人間は確率だけで生きているわけじゃありませんから」
その時だった。
ストーブの近くで眠っていた小さな影が身動きをし、ふらふらと立ち上がった。
五歳くらいの幼い少女だった。
寝ぼけ眼をこすりながら、マリアの姿を探して歩み寄ってくる。
少女はマリアの隣に立っていた織部の姿を見上げると、不思議そうに小首をかしげた。
そして、何も疑うことのない無垢な動作で、小さな手を伸ばし、織部の右手をきゅっと握ったのだ。
織部の全身の思考プロセスが、一瞬にして凍りついた。
小さな、ひどく冷たい手だった。
泥にまみれたその小さな指先から、脈打つ命の鼓動が、織部の皮膚を通して直接流れ込んでくる。
(……危険対象ではない。直ちに接触を解除し、物理的距離を確保せよ)
織部の脳内で、冷徹なシステムが明確な指示を出力した。
これまでの彼なら、相手が誰であろうと、一秒の迷いもなくその手を振り払っていたはずだった。
感情などという不確定なノイズに振り回されることは、マニュアルキラーの仕様には存在しない。
織部は、その手を振り払おうとした。
だが。
……一秒。……二秒。……三秒。
振り払えなかった。
なぜ今日は三秒もかかったのか。
いや、三秒かかってもなお、自分はこの小さな手の温度を確かめるように、無意識のうちに握り返そうとしていたのではないか。
「……これは、処理の遅延だ」
織部は小さく呟き、ようやく少女の手をそっと離した。
マリアが少女の肩を抱き寄せ、優しく背中を撫でている。
「原因を特定しなければならない」
織部は内部でそう処理しようとした。
自分のシステムに未知のバグが発生している。
ダニールやライラと接触した時から蓄積されていた「何か」が、今、臨界点を超えようとしている。
だが、検索をかけてもエラーの原因が見つからない。
これは「感情」ではない、と織部は即座に定義しようとした。
感情などという非効率なパラメーターを、自分が許容するはずがない。
だが、感情でないなら何なのか、今の彼には分類できなかった。
胸の奥で、計算式では弾き出せない何かが熱を持ち、静かにうねりを上げている。
それ自体が、彼にとって生まれて初めての経験だった。
織部はマリアと少女に一瞥もくれず、踵を返して廃校舎から歩み去った。
背後で、マリアの「気をつけて」という声が微かに聞こえたような気がしたが、振り返ることはしなかった。
その夜。
冷たい雨の降る隠れ家で、織部は端末の画面に向かっていた。
画面には、パブリッシャー本部へ定期送信するための暗号化された報告書のフォーマットが開かれている。
ヴォルコフの言う「金と権力」という強大なバグ。
それを打ち破るためのコードは、正しい法律の条文でも、完璧なロジックでもない。
絶望的な状況でもなお、子供たちの「家」を守るために留まり続けるマリアの非合理な決意。
そして、迷いもなく自分の手を握ってきた、あの少女の小さな手の感触。
彼らが命を懸けて示す「非合理な想い」こそが、どんな強固なシステムをも内部から食い破る、最大の変数なのだ。
織部の指先がキーボードを叩き始めた。
現在の状況、三つの文書の連動状況、そしてヴァランとエイレスの動向。
冷徹な事実を羅列した後、織部はこれまで決して書いたことのない一文を、報告書の末尾に追記した。
『本件において、エイレス・コンソーシアムの排除に伴う組織の許容コストの再計算を要請する』
それは、パブリッシャーの「作戦中止命令」に対する実質的な反抗であり、一人のデバッガーが巨大な組織に交渉を要求する前代未聞の記述だった。
「……これは感情ではない」
織部は青白いモニターの光の中で、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「対象となる変数(人間)たちの生存確率を最大化し、システムを正常に稼働させ続けるための、純粋な数値の問題だ。論理的帰結に過ぎない」
そう定義づけながらも、彼の指先には、あの廃校舎で触れた少女の冷たい手の感触が、まだ微かに残っていた。
エンターキーが押され、暗号化されたデータが闇夜のネットワークへと射出される。
エラーのない完璧な機械だった男は、自らの内に生じた「削除できないコード」を抱えながら、世界を書き換えるための次なる演算へと没入していった。
【マニュアルキラーシリーズ】
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
https://ncode.syosetu.com/n4150lw/
マニュアルキラー 第4部
~源流…~
https://ncode.syosetu.com/n7895mb/




