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マニュアルキラー 第5部 ~戦争を止める仕様書~  作者: 早野 茂


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第8話「同じ言語」

首都の夜空を覆う厚い鉛色の雲から、氷のように冷たい雨が降り続いていた。

国際会議場の配線室。無数のケーブルが這う薄暗い空間で、織部悟は三つの文書のコンパイルと送信を終え、無機質なモニターの光を見つめていた。

パブリッシャーからの凍結命令を無視して放たれたスクリプトは、すでにネットワークに潜り込み、連鎖反応を引き起こし始めている。

背後で機材の解体とデータの消去を進めるカレンが、深いため息をついた。

「無茶なことをしてくれたもんだよ、全く」

カレンは自身の端末のデータ消去プロトコルを起動しながら、呆れたように肩をすくめた。

「パブリッシャーの命令違反に、エイレス・コンソーシアムへの直接攻撃。両方をいっぺんに敵に回すなんて、いくらあんたでも命がいくつあっても足りないよ。私は追跡を撹乱しながら別ルートで脱出する。あんたも早く身を隠しな」

「私はまだ行くところがある」

織部が淡々と告げると、カレンは手を止めた。

「……死ぬんじゃないよ、織部。あんたの頭脳は、まだこの世界に必要なんだからね」

カレンの足音が配線室から遠ざかり、完全に消えるのを確認すると、織部は作業着の襟を立てた。

そして、冷たい雨が打ち付ける首都の裏路地へと、一人で足を踏み出した。


織部が向かったのは、国際会議場から数ブロック離れた場所にある、首都で最も豪奢な高級ホテル「グランド・バルカシア」のメインバーだった。

重厚なマホガニーのカウンター、琥珀色に輝く最高級のボトルが並ぶ棚、そして静かに流れるジャズの調べ。

空気は常に適温に保たれ、高級な葉巻の香りが漂う。

薄暗い間接照明に包まれたその空間は、前線の泥と血の匂いとは対極にある、絶対的な安全と権力の象徴だ。

その一番奥の席に、仕立てのいいスリーピースのスーツを着こなした初老の男が一人で座っていた。

エイレス・コンソーシアムの現地法務責任者、アレクセイ・ヴォルコフ。

エイレスの優秀な法務チームを率い、このバルカシア地域に血の雨を降らせ続ける「終わらない戦争」の仕様書を組み上げた、狂ったシステムの中心的な設計者の一人である。

織部は足音を殺して近づき、男の隣に立った。

「パブリッシャーの優秀なデバッガーだな。いつか私の前に現れると思っていた」

ヴォルコフは振り返りもせず、手元のグラスを静かに揺らした。丸い氷がカランと心地よい音を立てる。

その声には怒りも焦りもなく、チェスの盤面を眺めるプレイヤーのような冷酷な余裕があった。

「君が放った三つの修正パッチは、今まさに我々の構築したファイアウォールを内側から焼き払い、世界を大混乱に陥れている。見事な手際だ。称賛に値する」

織部は表情を変えずに、一切の感情を排した無機質な声で告げた。

「あなたも分かっているはずだ。戦争は終わらない方が、都合のいい人間が多い。ヴァランも、エイレスも、委員会の一部の人間も。全員がこの構造から利益を吸い上げている」

「その通りだ」

「だが、あなたはかつて、本気で停戦を成立させようとしていた」

織部は冷徹な視線でヴォルコフの横顔を射抜いた。

「二十年前、ナガラン地域で」


ヴォルコフのグラスを持つ手が、ピタリと止まった。

その目が一瞬だけ揺れ、過去の亡霊を見たかのように細められる。

わずかな沈黙が、重厚なバーの空気を張り詰めさせた。


「……よく調べたな」

ヴォルコフは短く息を吐き、グラスをカウンターに置いた。

二十年前、平和を信じ、血の滲むような努力で完璧な平和条約を起草した若き国際法学者。

それが、かつてのヴォルコフだった。

「あなたの言う通りだ。二十年前の私は、今の君と同じように信じていた。完璧な論理、完璧な法があれば、人間の愚かな流血は止められると。そして私は停戦を成立させた。誰もが称賛する、論理的に完璧な文書だった」

「だが、崩壊した」

織部が言う。

「そうだ。わずか六ヶ月後にな。理由は資源利権だ」

ヴォルコフの声に、過去の絶望と、そこから這い上がるために彼が削り落とした「良心」の重さが滲み出た。

「文書がどれだけ完璧でも、それを動かし続ける金と権力がある限り、戦争は終わらない。……私はその時、理解したのだ。正しい側にいることと、現実を変えることは、まったく別の話だと」

「だから、欠陥を設計する側に回った」

織部の静かな指摘に、ヴォルコフは薄く笑った。

「現実に従った、と言いたい」

ヴォルコフは織部に向き直り、その冷酷な知性をむき出しにした。

「あなたの手法は知っている。マニュアルの微細な書き換えによる社会の修正。やっていることは、私たちと同じだ。違いは目的だけ。そしてあなたも、いつか必ず理解する日が来る。正しい文書だけでは、何も変えられないことを」

「私の設計した三つの文書は、論理的に完全に連動している。エイレスの無限ループはすでに崩壊を始めている。止めることはできない」

「確かに見事だ。だが、君のその三つの文書も、半年で崩れる」

ヴォルコフの断言には、揺るぎない確信があった。

織部の論理を正面からへし折る、圧倒的な現実の重み。

「私はそれを過去に三度見てきた。いかに完璧な設計図であろうとも、人間の底知れぬ欲望と、エイレスが擁する莫大な資金力という非論理的なバグが介入すれば、君のちっぽけなパッチなどあっという間に食い破られる。そして世界は再び、血と泥の惨状へと回帰する。それが、システムというものの現実だ」


織部の口が、微かに開いて、止まった。

これまでいかなる盤面でも最適解を即座にはじき出してきた頭脳が、完全にフリーズしている。

猛烈な速度で演算を繰り返すが、ヴォルコフの宣告を論破するだけの明確な定数エビデンスが、今の織部にはどうしても見つからない。

ヴォルコフの言葉は呪いのように重く、そして圧倒的に正しかった。

織部は一言も発することなく踵を返し、バーを後にした。


その夜。雨の冷気が入り込む、街の片隅の古びた隠れ家。

一人になった織部は、端末の青白い光に顔を照らされながら、展開された設計書コードを静かに見つめ続けていた。

ヴォルコフはかつて正しい側にいて、現実に敗れた。

それが彼の答えだった。

では、自分の答えは何か。

正しい文書だけでは世界を救えないのなら、システムを正常に稼働させ続けるためには計算式に何が足りないのか。

織部の脳裏に、記憶の断片がノイズのように明滅する。

泥の中で自らの命を懸けて絶望的な死守命令を告発した兵士ダニールと、血まみれの手で未来の病院を夢見た医療支援員ライラの姿だ。

ヴォルコフの言う「金と権力」という強大なバグを食い破り、システムを長期的に維持できる力があるとしたら。

それはあの名もなき人間たちが持つ不合理なまでの「未来を渇望する意志」というコードだけなのではないか。

「……」

織部は目を閉じ、深く息を吐き出した。

完璧であるべき仕様書に、感情という不確定な変数をどう組み込むのか、いまだに明確な計算式は成り立っていない。

だが、キーボードに置かれた指先には、確かな熱が宿っていた。

正しい文書だけでは終わらないのなら、終わらせるための真のエンディングを記述するまでだ。

キーを弾く音だけが、静かな隠れ家に響き渡る。ヴォルコフの突きつけた絶望的な現実を覆すための、新たなる変数の探求。

マニュアルキラーの孤独な戦いは、ここからが本当の正念場だった。

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 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

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マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

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