表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マニュアルキラー 第5部 ~戦争を止める仕様書~  作者: 早野 茂


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/24

第20話「ダニールの賭け」

深夜のセーフハウス。

織部悟は、自らの右手を支配した説明のつかない微振動を静めると、再び冷たいキーボードに指を置いた。

ヴァラン議会の状況は、エイレス・コンソーシアムの莫大な裏金で動いた主戦派の議事妨害フィリバスターによって、完全に膠着している。

撤退派のマクシミリアン議員が提示したアルファ軍前哨基地の作戦命令書の画像データだけでは、主戦派は「巧妙な偽造だ」と強弁して時間を稼ぎ、採決を物理的に引き延ばしていた。

『マクシミリアンの手持ちのカードだけじゃ、あの強引な妨害は押し切れないよ』

暗号回線の向こうで、カレンが焦燥した声を上げる。

『明日の朝、議会が再開されたとしても、また同じことの繰り返しだ。主戦派の嘘を完全に黙らせる、決定的な一撃が要る。現場からの、生きた直接の「証言」が』

「ルートの演算は済んでいる」

織部は平坦な声で答え、一つの不可視の通信チャンネルを開いた。

接続先は、バルカシア地域の前線にいるアルファ軍第十二小隊の兵士、ダニールの小型端末だ。


雨の降る泥だらけの塹壕の中で、ダニールはその通信を受けた。

「こちら織部。頼みがある」

無機質な男の声に、ダニールは息を潜めた。

周囲では疲労困憊した戦友たちが、泥にまみれて浅い眠りについている。

「明日の朝、お前の上官の前で、公開の場でヴァランの顧問団を名指しして、受けた命令の内容を証言してくれ。これまで命懸けで集めてくれた命令書の記録があるからこそ、お前の生きた証言は揺るぎない事実になる。それを映像で、カレンの回線を通じてヴァラン議会のメインモニターへと直接流し込む」

ダニールは、心臓が凍りつくのを感じた。

「……狂ってる」

ダニールは震える声で絞り出した。

「俺はアルファの軍人だ。公開の場で同盟国の顧問団を告発するなんて、反逆罪だ。軍法会議ものだぞ。いや、裁判すらなく、その場でヴァランの憲兵に射殺されるかもしれない」

「わかっている」

織部の声には、一切の慰めも同情もなかった。

極めて冷酷に、死のリスクを肯定した。

「俺はただの一介の歩兵だ。使い捨ての砂袋だ。なぜ、俺がそこまでしなきゃならない」

「……頼む理由がわかるか」

織部の問いかけに、回線は長い沈黙に包まれた。

ダニールの胸のポケットには、防水布に包まれた一枚の写真が入っている。

妻と、幼い娘の笑顔。そして、その背景に広がる、故郷の金色の麦畑。彼は泥に汚れた手で、その写真を包む胸の布を強く握りしめた。

これ以上の戦争は、彼の故郷を、愛する者たちの未来を確実に焼き尽くす。

「……農家に戻りたいからだ」

ダニールは、吐き出すようにそう言った。


その答えがスピーカーから流れ出た瞬間、セーフハウスの暗闇の中で、織部の計算式に「説明できない重み」が加わった。

農家に戻りたい。

ただそれだけの理由で、一人の人間が、銃殺されるリスクと軍法会議の恐怖を引き受けるというのか。

それは、合理的ではない。

効率的でもない。

システムを最適化するだけの変数なら、絶対に選択しない行動だ。

だが、織部にはそれを「エラー」として処理し、止めることができなかった。

自らの命を懸けてでも「大切なもの」を奪還しようとする圧倒的なエネルギー。

それこそが、三十年続いた巨大な呪縛を突き崩す、唯一の光だったからだ。

「そうだ」織部の声に、微かな、しかし確かな体温が宿った。

「お前は、お前の未来を取り戻すために証言する。映像のルートは、私が必ず繋ぐ」


翌朝。

雨が上がり、重い雲の隙間から朝日が差し込むアルファ軍の前哨基地。

ヴァラン軍事顧問団のシュミット少佐が、アルファ軍の上官たちを引き連れて朝の巡回に現れた。

広場には、夜番を終えた数十人のアルファ兵士たちが力なく座り込んでいる。

その広場の中央に、泥だらけの軍服を着たダニールが歩み出た。

彼は広場の真ん中に置かれた木箱の上に立ち、自らの小型端末を前に掲げ、カメラのレンズを真っ直ぐに見据えた。

カレンが構築したバックドアを通じ、その映像はすでに数千キロ離れたヴァラン議事堂のメインモニターへの接続を開始している。

「……俺は、アルファ共和国軍、第十二小隊のダニールだ」

ダニールの声が、静まり返った朝の広場に響き渡った。

シュミット少佐が足を止め、鋭い眼光をダニールに向けた。

「貴様、持ち場を離れて何をしている!」

シュミットの怒声と共に、彼の背後に控えていたヴァランの憲兵たちが一斉に自動小銃を構え、銃口をダニールに向けた。

極限の恐怖がダニールの全身を貫き、膝が激しく震えた。

だが、彼は胸のポケットにある写真の感触を心の拠り所にして、決して木箱から降りなかった。

「俺たちは、同盟国としての支援など受けていない!ヴァランの軍事顧問団は、俺たちアルファの兵士を奴隷として支配している!」

ダニールは、声を限りに叫んだ。

「撃て!反逆罪だ、その場で射殺しろ!」

シュミットが顔を真っ赤にして命令を下した。

憲兵たちの指が引き金にかかり、広場に死の静寂が広がる。

ダニールは強く目を閉じた。

永遠にも思える、冷たく張り詰めた一瞬の間——。

「撃たせるな!!」

周囲にいたアルファの兵士たちが一斉に立ち上がり、手にした小銃の安全装置を解除して、ヴァランの憲兵たちを逆に取り囲んだのだ。

彼らもまた、使い捨ての砂袋として死地に追いやられることに、限界まで耐え続けてきた人間たちだった。

銃口と銃口が至近距離で睨み合う、一触即発の空間。

ダニールはその絶望と光が交錯する嵐の中心で、決して視線を逸らさずに目を開き、告発を続けた。

「弾薬補給の意図的な却下!無意味な死守命令!そして指揮権の完全な簒奪!俺たちは彼らの利権のために、意味もなく殺されている!これが、同盟の真実だ!」


——その映像と悲痛な叫びは、リアルタイムでヴァランの議事堂の巨大なメインモニターに投影されていた。

銃口を向けられながらも、自らの命を懸けて軍産複合体の不正を告発する一兵卒の姿。

そして、それを守ろうとヴァランの憲兵に銃を向けるアルファ兵士たちの「反乱」の空気。

圧倒的な現実の前に、議場は水を打ったように静まり返った。

「見よ!」

撤退派のマクシミリアン議員が、議長の制止を振り切って叫んだ。

「偽造だと言い張るのなら、この現場の生きた証言をどう説明する!我々の軍隊は今、同盟国の兵士たちから銃を向けられるほどの圧政を敷いているのだ!これ以上の議事妨害は、我が国の名誉を決定的に失墜させる!」

フィリバスターを行っていた主戦派の議員たちは、この強烈な証言の突き上げの前に完全に言葉を失い、青ざめて座り込んだ。

人間の「保身」というバグが、エイレスの裏金の効力を完全に上回ったのだ。

「ただちに、撤退決議の採決を要求する!」

議場は、嵐のような賛同の拍手に包まれた。


セーフハウスのモニターの前で、織部は議会が不可逆の結末へと雪崩を打って進んでいくのを静かに見届けていた。

『織部、やったよ!』

カレンの歓喜の声が通信機から弾ける。

『ダニールの証言が、議会の空気を完全にひっくり返した!主戦派はもう身動きが取れない。採決が始まる!』

「……ダニールの生存確率は」

織部はタイピングの手を止め、一言だけ尋ねた。

『アルファの兵士たちが彼を何重にも取り囲んで守ってる。ヴァランの顧問団は暴動を恐れて手を出せない状態だ。彼は生き残るよ。……あんたの設計通りさ』

「設計ではない。確率では説明できない選択だ。彼が、自分で選んだのだ」

織部は小さく、本当に小さく息を吐き出した。

単なる砂袋として消費されるはずだった名もなき変数が、死の恐怖を乗り越え、強固なシステムを完全に破壊したのだ。

三つのピースは、今度こそ完璧に発火した。

エイレス・コンソーシアムが三十年かけて構築した「終わらない戦争の仕様書」は、一人の農家の息子の手によって、完全に引き裂かれたのだった。

【マニュアルキラーシリーズ】

マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/

マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

https://ncode.syosetu.com/n4641ls/

マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

https://ncode.syosetu.com/n4150lw/

マニュアルキラー 第4部

 ~源流…~

https://ncode.syosetu.com/n7895mb/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ