第18話「ヴォルコフの最後の警告」
冷たい雨は明け方には上がり、バルカシアの首都は深い朝霧に包まれていた。
地下鉄の旧駅舎で通信インフラの最終的なハブ接続を完了させた織部悟は、システムを自律稼働状態に移行させ、地上へと足を踏み出した。
次のプロセスは、三つのピースを連鎖発火させるための最終同期だ。
そこまでのあいだ、ネットワークの物理的な死角がない地上で通信状態を監視する必要があった。
湿った冷気がコートの襟をすり抜け、肌を刺す。
織部が端末の画面を開くと、冷酷なタイマーが静かに時を刻んでいた。
『05:00:00』
残り時間、きっちり五時間。
路地裏を抜け、人気のない大通りに出ようとしたその時だった。
朝霧を切り裂くように、一台の漆黒の高級セダンが音もなく滑り込んできて、織部の目の前で停車した。
即座に前後から四人の屈強な男たちが降り立ち、無言で織部の逃げ道を塞ぐ。
全員がプロの軍事訓練を受けた暗殺部隊だ。
コートの下で黒光りする銃口が、織部の急所を正確に捉えている。
だが、彼らは引き金を引かなかった。
セダンの後部座席のドアが静かに開き、上品な仕立てのスーツを着た初老の男が降りてきた。
エイレス・コンソーシアムの主任法務顧問、アレクセイ・ヴォルコフ。
三十年という歳月をかけてこの地の「終わらない戦争の仕様書」を書き上げた、巨大なシステムの設計者が、あの夜のバーに続き、今度は朝霧の路上で再び直接その姿を現したのだ。
「銃は下ろせ。私は彼と『交渉』に来たのだ」
ヴォルコフの低く威厳のある声に、男たちはわずかに銃口を下げた。
織部は無表情のまま、一歩も動かずにヴォルコフを見据えた。
彼の論理回路は瞬時に状況を演算する。
エイレスは昨夜の暗殺部隊の失敗を受け、より強力な物理的排除に出るはずだった。
それにもかかわらず、システムの最高責任者自らが危険を冒して接触してきた。
これは「エラー」ではなく、意図されたスクリプトだ。
「昨夜は見事だった。私の部下たちが、完全に手玉に取られた」
ヴォルコフはステッキをつきながら、織部の数メートル手前で立ち止まった。
その氷のように冷たい瞳の奥には、敵意以上に、ある種の深い感嘆の色が浮かんでいた。
「あなたは賢い人間だ。だから正直に言う」
ヴォルコフは静かに切り出した。
「今すぐ作戦を止めれば、エイレス・コンソーシアムはあなたを特別待遇で採用する用意がある」
朝霧の中で、予想外の提案が提示された。
「パブリッシャーのような泥をすする組織にいる必要はない。我々の元に来れば、現在の十倍の報酬と、国家規模の莫大なリソースを君に約束しよう」
それは、裏社会の脅しなどではない。
世界を牛耳る巨大資本からの、最も純粋で合理的な「スカウト」だった。
しかし、織部は一秒の計算も必要としなかった。
「お断りします」
平坦で、一切の抑揚のない声が朝霧に響いた。
ヴォルコフの眉が微かに動く。
「なぜだ。あなたの能力なら計算できるはずだ。これはあなたにとっても、極めて合理的な選択ではないか」
「欠陥のある仕様書を設計する側には、立てません」
織部は冷徹に言い放った。
「意図的にバグを仕込み、現場の人間たちを無限ループの消費材として扱うシステム。それは、私が存在意義とする『デバッグ』と根本的に相反する」
その言葉を聞いた瞬間、ヴォルコフの表情から冷徹な仮面がわずかに剝がれ落ちた。
彼は少しの間、黙って地面を見つめ、やがて自嘲するような、だがどこか深い悲哀を帯びた息を吐き出した。
「……私もかつて、そう思っていた」
ヴォルコフの口から出た言葉に、織部の内部で検索エンジンが高速で駆動する。
「知っている」
織部は告げた。
「あなたは二十年前、ナガラン地域で国連の法務官として停戦を成立させた」
「そうだ。あの時の私は、今のあなたと同じだった。法と論理を駆使し、完璧な停戦文書を書き上げた」
ヴォルコフの声が、わずかに低く、重くなる。
「条約の文言には一切の隙もなく、システムとしては完全に『正解』だった」
ヴォルコフはステッキを強く握りしめ、織部の瞳を射抜いた。
「だが、六ヶ月だ。あの完璧な文書は、たったの六ヶ月で崩壊した。……資源利権だ。地下に眠る莫大なエネルギー資源を狙う軍産複合体と、それに群がる政治家たちの欲望。どれだけ正しい文書を書いても、どれだけ完璧なシステムを構築しても、それを動かし続ける金と権力がある限り、人間の欲望というバグには絶対に勝てない」
朝霧の向こうに、かつて理想に燃え、そして完全に打ち砕かれた一人の男の幻影が見えるようだった。
彼こそが、かつては織部と同じ「完璧なデバッガー」だったのだ。
「その時、私は理解したのだ。正しい側にいることと、現実を変えることは、別の話だ、と。システムを維持したければ、人間の醜いバグをあらかじめ組み込んだ『欠陥のある仕様書』を作るしかないのだと」
「あなたは現実に負けた」
織部は容赦なく切り捨てた。
「現実に従ったのだ」
「同じことだ」
織部の冷たい拒絶に、ヴォルコフはゆっくりと首を横に振った。
そして、ヴォルコフは静かに織部を見つめ、彼の中枢に直結する鋭い問いを投げかけた。
「……それは感情か、それとも原則か」
織部の思考プロセスが、一瞬だけピタリと停止した。
論理回路が警告音を鳴らす。
ダニールが胸に忍ばせた家族の写真。
ライラの泥だらけの笑顔。
そして、あの廃校舎で、マリアの傍らにいた子供が強く握りしめてきた、小さな冷たい手の感触。
自分はなぜ、パブリッシャーの意向に逆らってまで彼らの名前を出し、この理不尽なシステムを破壊しようとしているのか。
ヴォルコフの言う通り、金と権力の前では、いくら仕様書を直しても無駄なのかもしれない。
それでも、自分の中に確かにある「熱」の正体は、何なのか。
「……原則です」
三秒の遅延の後、織部はそう答えていた。
だが、その出力された答えが正しいかどうか、織部の高度な演算能力をもってしても、もはや判定することができなかった。
感情と原則の境界線が、自分の中でどこにあるのか、彼にはまだわからなかった。
ヴォルコフは、それ以上は追及しなかった。
ただ、織部のその「遅延」を静かに見届けると、背を向けてセダンへと歩き出した。
「あなたは今日、文書を書き換えるかもしれない。停戦を成立させるかもしれない」
車のドアに手をかけたヴォルコフが、振り返らずに言った。
「だが、六ヶ月後、一年後……誰かがまた必ず欠陥を仕込む。人間の欲望は終わらない。私はそれを二十年間、繰り返してきた」
ヴォルコフは冷たい視線を最後に織部に向けた。
「……あなたも、いつかそれを知る」
ドアが重い音を立てて閉まり、漆黒のセダンは護衛たちと共に、朝霧の中へと音もなく消え去っていった。
白く煙る大通りに、織部は一人残された。
冷たい風が吹き抜け、ヴォルコフの言葉が頭の隅に深く引っかかったまま、消えなかった。
『六ヶ月後、一年後、誰かがまた欠陥を仕込む』
それは単なる脅しではなく、絶望という現実を知り尽くした男の、冷酷で正確な予測データだった。
自分がやろうとしていることは、一時的なバグ修正《パッチ当て》に過ぎず、結局は巨大な構造に飲み込まれてしまうのか。
織部はコートのポケットから端末を取り出し、画面を見た。
『04:50:42』
残り時間は、五時間を切っている。
——それでも。
自分の内側で脈打つ、名状しがたい微熱。
あの名もなき変数たちが命を懸けて自分に託してくれた、圧倒的なエネルギー。
未来がどうなるかは計算できない。
だが、今、目の前にあるバグを修正しなければ、彼らの明日は永遠に来ない。
「……それでも今日は、止まれない」
織部は冷たい空気を肺の奥深くまで吸い込み、自らの内に生じた「エラー」を完全に受容した。
完璧な機械だった男は、ヴォルコフという最大の幻影(呪縛)を振り払い、世界を不可逆のフェーズへと押し進めるための、午前十時の最初のトリガーを引くべく、力強く歩みを進めた。
【マニュアルキラーシリーズ】
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
https://ncode.syosetu.com/n4150lw/
マニュアルキラー 第4部
~源流…~
https://ncode.syosetu.com/n7895mb/




