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マニュアルキラー 第5部 ~戦争を止める仕様書~  作者: 早野 茂


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第16話「パブリッシャーの賭け」

数千キロ離れた安全な都市にそびえ立つ、パブリッシャー本部の最高幹部室。

巨大な円卓を囲む幹部たちの顔は、かつてないほどの緊迫と恐怖に青ざめていた。

部屋の正面に設置された巨大なメインモニターには、真紅の警告ランプが絶え間なく明滅を繰り返している。

エイレス・コンソーシアムの主任法務顧問、アレクセイ・ヴォルコフからの直接の恫喝。

それは、裏社会のゴロツキの脅しとは次元が違う、国家規模の軍産複合体による本気の「最後通牒」だった。

『——ただちに貴組織のデバッガーによるバルカシア地域への介入を停止せよ。三十分以内に完全な撤退が確認されない場合、我々は全世界のネットワークインフラへの攻撃を実行し、全取引を白紙に戻す。並行して、あらゆる物理的手段で貴組織の資産を排除する』

白髪の幹部が、震える手でテーブルを叩いた。

「エイレスは本気だ!ヴァラン議会での撤退決議の動きを見て、完全に理性を失っている。これ以上奴らを刺激すれば、我々の組織そのものが地上から消し飛ぶぞ!」

「だからといって、今ここで引き下がるというのか」

別の幹部が反論する。

「ヴァラン議会の撤退は目前だ。ここで我々が手を引けば、すべての工作が水泡に帰す」

「エイレス・コンソーシアムとの関係を壊すリスクは計算できない!ここは彼らの要求に従うべきだ!」

白髪の幹部が怒号を上げた直後、メインモニターの端に新たなウィンドウが展開された。

織部悟からの、暗号化された返信だった。


『中止すれば、これまでの工作の痕跡がエイレス・コンソーシアムに回収されます。その結果、現地協力者であるダニールとライラが極めて高い危険に晒されることになります。それは、組織としての許容コストの計算が合っていません』


その短いテキストを読み上げた白髪の幹部は、忌々しげに吐き捨てた。

「コストの計算だと?一介の工作員二人の命と、我々パブリッシャーという巨大組織の存亡を天秤にかけろとでも言うのか!完全にシステムエラーを起こしている。今すぐ彼のアクセス権を——」

「待て」

眼鏡をかけた初老の幹部が、震える声でその言葉を遮った。

彼はモニターに映し出された織部のテキストを、食い入るように見つめていた。

「……君たちは、今の彼の報告書の『異常性』に気づかないのか」

「異常性だと?命令違反という最大の異常を起こしているだろうが」

「そうではない」

初老の幹部は、円卓の面々をゆっくりと見回した。

「織部悟はこれまで、現地の人間を『変数』や『対象』、『オブジェクト』としか呼んでこなかった。我々がいくら被害状況を尋ねても、彼は常に確率と数値だけで報告してきた男だ。……その彼が今、初めて公式な報告書の中で、『ダニールとライラ』という固有名詞を使っているんだぞ」

幹部室に、水を打ったような静寂が落ちた。

「彼らを死なせるわけにはいかない。彼はそう言っているんだ。純粋なコスト計算の体を装ってはいるが……あの冷徹で無機質だったデバッガーが、自らの意志で、現地の二人の人間を『救いたい』と主張している」

「だからなんだと言うんだ!」

白髪の幹部が声を荒らげる。

「感情に流されて組織を滅ぼすというのか!」

「しかし織部の分析は、これまで一度も外れていない。彼に賭ける価値はある」

初老の幹部は一歩も引かなかった。

「中止すれば、これまでの工作の痕跡がエイレス・コンソーシアムに回収される。ダニールとライラという現地協力者が危険に晒される。それもコストとして計算すべきだ。彼らを見殺しにしてエイレスに屈することは、我々が標榜する『世界を正しくデバッグする』という理念そのものの死を意味する!」


「理念で組織が守れるか!」


激しい議論が交錯する中、議長席に座る男は深く目を閉じ、腕を組んだまま微動だにしていなかった。

脳内で、極限の損益計算が猛烈な速度で回っている。

エイレスの報復による莫大な損失と組織崩壊のリスク。

対して、織部が今まさに引き起こそうとしている、バルカシア地域の真の停戦と、それに伴うパブリッシャーの国際的な信用の劇的な高まり。

そして何より、議長の心を強く揺さぶっているのは、あの完璧な機械だった男が示した「不合理な熱」だった。

人間を単なる変数としてしか見ていなかった男が、命を懸けて二人の人間を守ろうとしている。

その「変化」がもたらす爆発的な推進力は、いかなる強固なシステムをも凌駕するのではないか。

長い沈黙の後、幹部の筆頭である議長が、ゆっくりと目を開いた。

その鋭い眼光に、白髪の幹部も初老の幹部も息を呑み、言葉を失った。

議長は、組んでいた指を静かに解き、テーブルの上に両手を置いた。

「……計算は終わった」

議長は、低く、しかし議場全体を圧するような重厚な声で告げた。

「オペレーター。織部の端末へ、私の権限で直接返信を打て」

「織部。継続を認める。ただし失敗した場合の責任はすべてお前が負う。そして、エイレス・コンソーシアムとの関係破綻による損失も、お前の任務の成果で補填しろ。……そう送れ」


——バルカシアの首都、冷たい雨が降り続く暗い裏路地。

エイレスの暗殺部隊の追跡を躱し、身を潜めていた織部悟の端末が、微かに振動した。

パブリッシャー本部からの最終決定。

画面に映し出されたその過酷な条件式を読み、織部の無表情な顔に、微かな、本当に微かな安堵の影が走った。

「承知しました」

織部はたった一言、そう返信を打った。

彼の胸の奥で燻っていた

「ダニールとライラを救う」という計算外の意志は、今や組織の承認を得て、システムを強制駆動させるための公式な仕様コードとして完全に定着したのだ。


通信が切断された本部幹部室では、重苦しい空気がいまだ漂っていた。

白髪の幹部が、信じられないものを見るような目で議長を見つめ、静かに呟いた。

「……正気か。あの男に、組織の運命を賭けるというのか」

議長は、窓の外の暗闇を見つめながら、毅然とした声で答えた。

「織部の分析はこれまで一度も外れていない。賭ける」

白髪の幹部はそれ以上反論できず、重く口を閉ざした。

保身と利益計算だけで動いてきた巨大組織の最上層部に、かつてない異質な沈黙が下りた。


雨の裏路地を歩きながら、織部は暗号化回線を開き、カレンに短い通信を送った。

「こちら織部。本部の認可が下りた」

『本当かい!?あの石頭の幹部たちが、エイレスの脅しを突っぱねたって言うのか!』

イヤホン越しに聞こえるカレンの声は、驚きと歓喜で上ずっていた。

「彼らもまた、人間という不確実な変数だったということだ」

織部は歩調を速めた。

「エイレス・コンソーシアムの報復は、これからさらに激しさを増すだろう。

奴らの物理的排除の手から逃れつつ、残るタスクを完遂させる」

『残るタスクって、もうヴァランの議会は動いたし、委員会のレポートも出た。前線も停戦状態だ。あとは何を設計するんだい?』

「三つのピースを、不可逆な現実として完全に『定着』させるための、最後のコンパイルだ。秒単位の時間軸で、すべての変数を同時に発火させる」

織部はコートの襟を立て、漆黒の闇の中へと鋭い視線を向けた。

タイマーの残時間は、容赦なく減り続けている。

『06:12:45』

残り時間、約六時間。

エイレス・コンソーシアムが三十年かけて構築した巨大な呪縛を完全に断ち切り、ダニールとライラ、そしてマリアとあの子供たちが生きるための「新しい未来の仕様書」を書き上げるための、最後の戦い《プロセス》がいよいよ幕を開けようとしていた。

第16話まで読んでいただき、ありがとうございます。

七十二時間のカウントダウンが始まっています。

残り八話、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

【マニュアルキラーシリーズ】

マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/

マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

https://ncode.syosetu.com/n4641ls/

マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

https://ncode.syosetu.com/n4150lw/

マニュアルキラー 第4部

 ~源流…~

https://ncode.syosetu.com/n7895mb/

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