第15話「エイレスの反撃」
首都の裏通りにひっそりと佇む、三年前に廃業したホテル。
その五階の一室で、織部悟は青白いモニターの光に照らされながら、静かに息を吐いた。
エイレス・コンソーシアムが持つ最も原始的な手段——物理的な暴力との対峙が、今まさに始まろうとしている。
画面の隅で時を刻むタイマーは『07:42:15』を示している。
その時、メインモニターの中央に、最高優先度を示す真紅のウィンドウが強制的に割り込んできた。
パブリッシャー本部からの緊急暗号通信だ。
『活動を直ちに中止せよ。七十二時間の約束は撤回する。繰り返す。直ちに帰還しろ』
無機質なテキストの羅列から、本部が極度の混乱と恐慌状態に陥っていることが読み取れた。
ヴァランの議会を崩壊させた織部の工作を察知したアレクセイ・ヴォルコフが、ついにパブリッシャーの最高幹部たちに直接の最後通牒を突きつけたのだ。
「今すぐデバッガーを止めなければ、すべての取引を白紙に戻し、報復措置に移行する」と。
巨大な軍産複合体の本気の脅しを前に、パブリッシャーは再び「恐怖」という感情に支配され、織部への支援を断ち切った。織部の指が、一切の躊躇なくキーボードを叩く。
「中止すれば、これまでの工作の痕跡がエイレス・コンソーシアムに回収されます。その結果、現地協力者であるダニールとライラが極めて高い危険に晒されることになります。それは、組織としての許容コストの計算が合っていません」
送信ボタンを押した瞬間、織部は自らの論理回路に生じた微かなノイズに気づいた。
彼は初めて、パブリッシャーに対する公式な報告の中で、彼らの名前を「変数」として使った。
それは、現地の情報源を失うという純粋な「コスト計算」の提示であるはずだった。
だが、キーを叩く直前、脳裏に浮かんだのは、震える手でデバイスを握りしめたダニールの顔と、泥だらけの手で地図を受け取ったライラの微笑みだった。
(……これは、計算だったのか)
織部は自問した。
彼らをコストとして扱ったのか、それとも、彼らを救いたいという不合理な意志が自らの指を動かしたのか。
今の自分には、それを正確に判定することができなかった。
パブリッシャーからの返信はない。重苦しい沈黙だけが回線に落ちた。
その沈黙を切り裂くように、織部の端末の別のウィンドウが音もなく明滅を始めた。
ホテルのセキュリティシステムのステータス画面だ。
廊下に設置された防犯センサーが、一階、二階、そして三階へと、規則的な間隔で反応を示している。
だが、窓の外の雨音以外、建物の中からは一切の音が聞こえない。
足音も、衣擦れの音も、武器が擦れる金属音すらもない。
「プロの侵入者か」
織部は感情を排した声で呟いた。
音を消す訓練を完璧に受けた暗殺部隊。
だが、彼らは自身の質量や体温までは消せない。
空間の赤外線センサーや重量センサーは、プログラムされた「仕様」通りに、彼らの存在を正直に報告し続けている。
エイレス・コンソーシアムが、交渉という盤面をひっくり返し、織部というエラーの元凶を物理的に排除しに来たのだ。
織部がこの廃業したホテルを潜伏先に選んだのには、明確な理由があった。
彼の手が、コンソール上で別のプロトコルを起動する。
このホテルの設備管理システムは廃業した今も完全に生きており、都市のインフラネットワークと繋がっている。
織部は瞬時に管理システム《アドミニストレータ》の権限を掌握した。
モニター上で、センサーの反応が四階に到達したのが見える。
織部がいるのは五階だ。
猶予は数十秒。
「まずは退路を断つ」
織部は、非常階段の防火扉を制御する電磁ロックシステムにアクセスした。
侵入者たちが上がってくるルートの背後、そして五階の特定区画の扉をすべて「施錠」に書き換える。
カチャリ、という微かな電子音が遠くで響いた。
これで彼らは、非常階段を使って素早く退却することも、別ルートへ迂回することもできなくなった。
次に、織部は廊下の照明制御システム《ライティング・コントロール》のコードを展開した。
侵入者たちが進む五階の廊下の照明を、彼らの進行方向に向かって次々と「消灯」していく。
それとは逆に、織部自身が脱出するための裏階段へと続くルートだけを、非常灯のレベルでほのかに「点灯」させた。
「光の仕様書を書き換える」織部は淡々とコマンドを実行する。
人間は本能的に暗闇を警戒し、不自然な光には誘い込まれるか、あるいは罠を疑って極度に歩調を遅らせる。
暗殺のプロフェッショナルであればあるほど、その環境の急激な変化に対して熱源探知や暗視ゴーグルの切り替えといった「確認作業」を余儀なくされる。
そのコンマ数秒、数秒の遅延の蓄積が、織部にとっては十分すぎる逃走時間となる。
画面上で点滅を続けていたセンサーの反応が、暗闇と施錠された扉の前でピタリと停止した。
プロの暗殺者たちが完全に「詰んだ」瞬間だった。
遠く下の階から、強固な防火扉に重い体当たりを繰り返す鈍い衝撃音が一度、二度と響く。
完全に立ち往生し、混乱する侵入者たちを尻目に、織部はメイン端末のデータを完全に消去すると、最小限のデバイスだけをコートのポケットに押し込んだ。
そして計算され尽くした光のルートを通り、誰一人と遭遇することなくホテルの正面玄関から外へと出た。
冷たい雨が、熱を持った頬を打ち据える。
彼が建物を離れて裏路地に入った直後、上階で防火扉を力任せにこじ開けようとする、金属が軋む激しい音が聞こえたが、すでに遅い。
雨の降る裏路地を足早に歩きながら、織部は暗号化回線でカレンに通信を入れた。
「こちら織部。エイレスが物理的排除に動いた。潜伏先が割れたため、破棄した」
『無事かい!?』
カレンのひどく焦燥した声がイヤホンに響く。
『こっちにもパブリッシャーからの緊急の作戦中止命令が来て、大混乱になってる!エイレスの法務顧問が、本気でうちの上層部を脅し上げたんだ。あんたの居場所も、パブリッシャー内部からエイレスに漏れた可能性がある!』
「設備の仕様を逆用して対処したが、次は彼らも学習してくる」
織部は水たまりを避けながら、冷徹に状況を分析する。
「今回はセンサーと光の誘導で出し抜けたが、七十二時間以内にシステムの書き換えを完了させなければ、より精度の高い暗殺チームが複数送り込まれるだろう。次は、物理的な仕様の書き換えだけでは防ぎきれない」
カレンは電話の向こうで息を呑んだ。
『……怖くないのかい、織部。相手は国家規模の軍産複合体だ。裏社会のゴロツキじゃない、本物のプロが本気であんたを殺しに来てるんだぞ』
「怖いという感情の定義を明確に示してくれれば、私の現在の状態と照合して確認する」
織部は一切の抑揚のない平坦な声で返した。
『……あんたって人は、本当に……』
呆れたような、だがどこか安堵したようなカレンの吐息が聞こえた。
「通信を切る。エイレスのシステムに最後のエラーを突きつけるため、次のプロセスに移行する」
通信を切り、織部は冷たい雨が降りしきる首都の闇へと溶け込んでいく。
事態は極限まで加速している。
ダニールとライラの名前をパブリッシャーに告げた時の、あの説明のつかない微熱が、まだ胸の奥で静かに燻っていた。
計算だったのか、それとも不合理な意志だったのか。
「……今は、演算を続けるだけだ」
エイレス・コンソーシアムは言葉から行動に移った。
残り時間の計算を更新する。
七十二時間以内に完了しなければ、次は確実に仕留めにくる。
端末の画面を開くと、容赦なく減り続けるタイマーが冷たい光を放っていた。
『07:35:12』
残された時間は、あと七時間半。
完璧な仕様書を完成させ、この狂った戦争を終わらせるための最後の戦いが、いよいよ最終局面へと突入していた。
【マニュアルキラーシリーズ】
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
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マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
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マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
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マニュアルキラー 第4部
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