第12話「条約の抜け穴」
パブリッシャーが首都の地下に隠し持つ非公式なセーフハウス。
無機質なサーバーの重低音が響く薄暗い空間に、重厚な電子ロックが解除される鋭い音が鳴った。
分厚い鉄の扉を押し開けて姿を現したのは、ずぶ濡れのコートをまとったカレンだった。
彼女はパブリッシャー本部の追跡システムを撹乱し、幾重もの偽装ルートを経て、ようやくこの場所にたどり着いたのだ。
「まさか、本当に本部の最高幹部たちを説き伏せて、七十二時間の猶予を勝ち取るなんてね」
カレンは濡れた髪をかき上げながら、コンソールの前で猛烈な速度でキーボードを叩き続ける織部悟の隣に立った。
「本部はエイレス・コンソーシアムの報復を極度に恐れていた。あんたがどれだけ完璧な論理を提示したとしても、人間の『恐怖』という感情が勝ると思っていたよ」
「彼らが最も恐れているのは、目先の報復よりも、長期的な信用の失墜だ」
織部はモニターから一切視線を外さずに、平坦な声で答えた。
「私はその損益分岐点を正確に提示したに過ぎない。……それよりも、外の状況はどうなっている」
「ダニールが命懸けで録音した『死守命令』の音声データは、ヴァラン国内で完全に発火したよ」
カレンは手元の小型端末を操作し、ニュース映像を空間にホログラムで投影した。
ヴァラン首都の広場を埋め尽くす怒り狂った群衆、即時撤退を叫ぶプラカード、そして議会で紛糾し、怒号を飛ばし合う議員たちの姿が鮮明に映し出される。
「世論は完全に撤退派に傾いている。だが……」
カレンは映像を消し、険しい表情を見せた。
「ヴァラン政府の中枢は、いまだに沈黙を守っている。エイレス・コンソーシアムが裏で強烈な圧力をかけているからだ。『オメガの脅威は健在であり、今撤退すれば条約違反になる』とね。政府は完全に板挟み状態だ」
織部は小さく頷いた。
「エイレスの法務顧問であるヴォルコフが、条約という『仕様書』を盾にして彼らを縛り付けているからだ」
カレンはセーフハウスのデスクに両手をつき、織部のモニターを覗き込んだ。
「撤退不可条項を無力化するには、何が必要だ」
とカレンが問う。
「ダニールの暴露で世論は沸騰しているが、法的な根拠がなければ政府は動けない」
「条約本文の書き換えは不可能だ。両国政府の合意が必要になる」
織部は冷徹な事実を告げた。
エイレスの強固な支配が及んでいる以上、アルファ政府もヴァラン政府も、自ら条約を破棄するような真似は決してしない。
「では詰みか」
カレンが忌々しげに舌打ちをした、その時だ。
「附属文書を見ろ」
織部は画面の一角に、以前ハッキングして入手していた膨大な軍事同盟条約の極秘資料を展開した。
「ここだ。『軍事的脅威の判定は、国際的に認定された停戦機関の評価に基づく』」
カレンは身を乗り出してその一文を読んだ。
その視線が画面の文字列と織部の無表情な横顔を数度往復し、彼女は小さく息を呑んだ。
「つまり——」
「委員会が『停戦によって脅威は解消された』と認定すれば、ヴァランにとって撤退は敗北ではなく、条約で定められた義務の履行になる」
カレンは少し間を置いてから言う。
「……面子が保てるなら、動く、か」
「その通りだ」
織部は頷いた。
「ヴァラン政府の撤退派政治家たちは今、世論の突き上げとエイレスの圧力の板挟みになり、落としどころを必死に探している。彼らに必要なのは『法的な義務を粛々と果たした』という大義名分だ」
「だから、あんたは委員会の研究者に『オメガの脅威は解消された』という真のレポートを送ったんだね。あのレポートが委員会で公式に認定されれば、それがそのままヴァランの撤退派にとっての最強の武器になる」
「だが、ただ待っているだけでは遅すぎる。タイムリミットに間に合わせるためには、彼らの背中を物理的に押す必要がある」
織部は、ヴァラン国内の防衛委員会の重鎮であり、議会で最も強い発言力を持つ撤退派トップの個人回線へと、高度な暗号化を施した不可視のアクセスを試み始めた。
「彼にこの『附属文書の抜け穴』の法解釈と、間もなく委員会から脅威解消のレポートが公式に出されるという情報を匿名でリークする。彼らが議会で政府を突き上げ、エイレスの圧力を跳ね除けるための、決定的なスクリプト(脚本)を提供するのだ」
カレンは、猛烈な速度でキーボードを叩く織部の横顔を見つめ、信じられないものを見るように目を細めた。
「……あんた、変わったね」
「何がだ」
「以前のあんたなら、人間の『面子』だの『保身』だのという非論理的な感情は、徹底的に排除して計算式を組んでいたはずだ。それを今は、システムを強制的に駆動させるための極めて重要なパラメーターとして逆用している」
織部の指が、一瞬だけ止まった。脳裏に、エイレスの設計者ヴォルコフの言葉が蘇る。
『人間の底知れぬ欲望と金という非論理的なバグが介入すれば、君のちっぽけなパッチなどあっという間に食い破られる』
そして、あの廃校舎で出会ったマリアの揺るぎない微笑みと、幼い少女が自らの手を握ってきたときの、あの冷たい感触。
「ヴォルコフは、人間の欲望というバグがシステムを壊すと言った」
織部はモニターを見つめたまま、静かに口を開いた。
「ならば、その欲望や保身、面子といった『削除できないコード』を、システムを正常化するためのベクトルとして利用すればいい。感情は単なるノイズではない。方向さえ明確に定めれば、それは巨大な壁を突き崩すための圧倒的なエネルギーになる」
カレンはふっと笑みをこぼした。
「なるほどね。完璧な機械が、ついに人間の心という泥臭いバグを使いこなすようになったってわけだ。ヴォルコフも真っ青だろうさ」
リーク情報の送信が完了し、モニターに緑色の「TRANSFERCOMPLETE」の文字が点灯した。
「ヴァランの議会は、数時間以内にこの情報を元に爆発する。委員会のレポート認定と同時に、彼らは雪崩を打って撤退の義務を履行し始めるだろう」
織部はモニターの隅で容赦なく時を刻み続けるタイマーを一瞥した。
『58:14:32』
残り、五十八時間。
「ヴァランという重石が消えれば、アルファとオメガの当事者同士による真の停戦合意が可能になる」
「でも、現場の兵士たちはどうするんだい?」
カレンが鋭く指摘した。
「前線の塹壕では、いまだに両陣営の兵士たちが互いを『殺すべき敵』だと認識している。いくら上層部で撤退や停戦が合意されても、現場の憎しみの連鎖が止まらなければ、ちょっとした小競り合いから再び暴発して、無限ループに逆戻りするよ」
「その通りだ。だからこそ、現場の『認識』を物理的に上書きするための、最後の変数が必要になる」
織部の脳裏に、中立地帯の古い井戸の前でダニールと会話を交わしていた、オメガの医療支援員の姿が浮かんだ。
彼女の華奢な腕に巻かれた、泥に汚れた赤十字の腕章。
「……ライラだ。彼女に、両陣営の兵士を停戦の座標へと導く『正しい地図』を配布させる」
それが、三十年続いた血みどろの戦争を強制終了させる、三つ目の最後のピースだった。
冷徹なデバッガーは、いまだ見えぬ最終的な停戦のラインを見据え、次なるプロセスをコンパイルするために、再び無数のコードの海へと没入していった。
【マニュアルキラーシリーズ】
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
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マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
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マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
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マニュアルキラー 第4部
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