21話 兄妹
久我家の二階。階段を上がってすぐ左手にあるのが、兄・湊の部屋だ。廊下には夜の静けさが満ちており、わずかに開いた窓から入り込む風が、薄いカーテンをかすかに揺らしている。どこか遠くで虫が鳴いていた。夜特有の、少しひんやりとした空気が肌をなでる。
その扉の前に、ひとりの少女がいた。
小柄な体を壁に寄せ、息を潜めるようにして立っている。伸ばしかけの髪が頬にかかっているのも構わず、耳をそばだてて室内の気配を探るその姿は、とてもではないが淑女とは言い難い。廊下に落ちる彼女の影が、電灯の光の下でひっそりと揺れていた。
――初めまして皆様。
私は東雲中学三年の久我渚と申します。
名前を見ればお分かりかと思いますが、この部屋の主、久我湊の妹です。どうぞ以後、お見知りおきを。
さて。そんな私が、なぜ実の兄の部屋の前で、こんなにも怪しい行動をしているのかと申しますと。
(あにぃに女ができたかもしれない!!)
これに尽きます。
高校に入ってからというもの、兄の様子は明らかにおかしかった。もともと多少変なところはあったものの、ここまで分かりやすい異変は初めてだった。それも、日に日に度合いが増している気がする。
部屋の中から奇声が聞こえてくることがある。カレンダーを見つめては、にやにやと意味深に笑っていることもある。さらには、一日中どこか浮ついたような、気味の悪い笑顔を貼り付けて過ごしているのだ。普段の兄を知っているからこそ、余計に気持ちが悪い。
極めつけは――。
「なあ、もしお前がデートするなら、ここどう思う?」
そう言って、スマホの画面をこちらに突きつけてきたのだ。しかも一箇所ではなく。十箇所近くも候補を見せてきたのだから、正気の沙汰とは思えない。しかも全部、候補のジャンルもバラバラで、一体どんな相手を連れて行くつもりなのか、まるで方針が見えてこないのも不安を煽った。
当然、私はすべてに対して「どこも向いてない」と返してやった。
その瞬間の兄の顔といったら――それはもう、見るに耐えないほど悲惨だった。みるみる萎んでいくさまは、叩き落とした凧のようだった。さすがに少しだけ気の毒になり、無難そうな映画館を勧めてやったついでに、観光客にも人気のカフェも教えてあげた。
……ああ、なんて、なんて素敵な妹なのでしょう、私は。
――いえ、今はそれどころではありません。
問題は、兄の変化があまりにも顕著すぎるという点だ。
第一に、あんなチビに相手ができるわけがない。
つまりこれは――遊ばれている可能性が極めて高い。うちの兄は顔だけは悪くないから、どこかのとんでもないビッチに引っかかっているに違いない。夢と現実の区別もついていない愚かな男を、うまいこと手玉に取られているのだ。きっとそうだ。
妹として、兄がそんなツツマタセ?のような目に遭っているのを見過ごすわけにはいかない。
ここは一つ、現実というものを叩きつけてやらねば。
(よし……!)
意を決し、渚は勢いよく扉を開け放った。ノックなど不要だ。いや、むしろノックをしてしまっては、この勢いが半減する。
「たのもー!」
「うおっ!?……渚、人の部屋に入るときはノックをしろ。特に夜の兄の部屋にはな――」
「この!色ボケ男!さっさと現実を見なさい!」
「急なディスはお兄ちゃん泣いちゃうよ?」
湊はベッドの上でだらりと横になっていたのを体を起こしながら、困ったように笑う。スマホを手に持ったまま、画面を伏せるあたりが実に分かりやすい。その様子すら、どこか浮かれて見えるのが腹立たしかった。
渚は腕を組み、びしっと指を突きつけた。
「単刀直入に言います!あなたは今、恋をしていますね?」
「ぎくっ」
分かりやすすぎる反応だった。動揺を隠す気がまるでない。
「は、はぁ? いったい何の証拠があってそんなことを……」
「ありますとも。あなたはスマホの通知を見るたびに微笑み、デートスポットの下見までしている。この家でそれに気づいていないのは、観察力のないノンデリのお父さんくらいよ!」
「お父さんに謝れ。あれでも頑張ってるんだから」
「お父さんはもっと色んなことに気づくべきです。この前なんて、私が髪を伸ばしてるの見て『美容室に行くのが面倒なのか?』とか言ってきたんだよ? 信じられない!」
「だって、お前今までずっとショートだっただろ。なんで急に伸ばしたんだ?」
その問いに、渚は一瞬だけ言葉を詰まらせる。
伸ばしかけの髪の毛先に、無意識に指が触れた。まだ肩につくかつかないかという中途半端な長さ。大人っぽく見えるようになるには、まだもう少しかかりそうだった。
そして、そっぽを向きながらぼそりと呟いた。
「……こっちの方が大人っぽく見えるし」
小さな声だったが、湊の耳には届いていたらしい。
「へえ。別に今でも十分子供っぽいけどな」
「はぁ!?なんでお父さんも兄もそうなの!なんでうちの男は揃いも揃ってデリカシーないのよ!父さんの遺伝子がチビすぎるのよ!」
「それ、本人に言うなよ。昔それで俺、ガチ泣きさせたことあるから」
「あ、それなんか覚えてる気がする」
言い合いの空気は、どこかいつも通りの兄妹のそれだった。勢いよく踏み込んできたはずなのに、いつの間にかこうして流れてしまうのがこの兄妹のパターンだ。渚は少し悔しかったが、まあ悪い気はしなかった。
だが――そのとき。
ピコン、と軽やかな電子音が室内に響いた。
湊のスマホが、通知を告げる。
一瞬で、空気が変わった。
兄の目が、すう、と細くなる。口元にかすかな笑みが浮かんだ。それはさっきまでの、妹相手のゆるい笑顔とはまったく違う種類のものだった。
「はっ……! お、おい渚。お兄ちゃん忙しいから出てけ」
「は? 湊のくせに生意気」
「お兄ちゃんとお呼び!……ああもう、ほら! 綿貫先輩に早く返信しないといけないから! 出て行け! 出て行け!」
半ば強引に背中を押され、渚は廊下へと追い出される。抵抗する間もなかった。
バタン、と扉が閉まった。
「むぅ……! まだ言いたいことあったのに……」
頬を膨らませながらも、ふと渚は首を傾げる。閉まった扉の向こうから、小さく弾んだような声が漏れ聞こえた気がした。
「……それにしても、綿貫?」
どこかで聞いたことのある苗字だった。ありふれた名前でもない。記憶の引き出しをそっと開けるように、渚は思考を手繰り寄せる。
胸の奥に、かすかな引っかかりが残る。
「『アイツ』と同じ苗字……珍しいなぁ」
でも、まさか。そんな偶然があるだろうか。
思考を巡らせようとした、そのとき。
「なぎちゃーん、頂き物のクッキーがあるんだけど食べる?」
一階から母の声が飛んできた。
「食べる〜!」
即答だった。
さっきまでの疑念も、使命感も、すべて一瞬で吹き飛ぶ。クッキーの前には何もかもが些事だ。
軽やかな足取りで階段を下りていく渚の背中は、年相応の少女そのものだった。伸ばしかけの髪が、ぱたぱたと揺れながら遠ざかっていく。
――かくして。
本来の目的は、見事に忘れ去られたのである。




