20話 緋色の団結
体育祭期間に入った最初の朝、春人が教壇に立つなり開口一番、
「今日から体育祭期間! 午後の授業はなしだー!」
教室がざわめく。チャイムの余韻もろくに消えないうちから、その一言で空気が一変した。午後の授業がないただその事実が嬉しいのだ。
窓の外には今日も抜けるような青空が広がっていて、体育祭という言葉と一緒に、季節の匂いまで教室に流れ込んできた気がした。
「応援団とパネル制作、それぞれ担当に分かれて動くこと。応援団は渡部、パネルは俺が仕切るから、指示に従ってくれ」
磯貝拓人が補足を加えながらプリントを手元で整える。隣では宇佐美が教壇の隅にぺたりと腰を下ろし、どこからか取り出した文庫本をさっそく開いていた。
授業がないのは生徒だけでなく教師も同様らしく、その所作には微塵の罪悪感もない。
高梨を連れてくるか一瞬考えたが、特にしてもらうことも思い当たらなかったので、大人しくお座りしてもらうことにする。
春人が立ち上がった。坊主頭の上で蛍光灯の光が鈍く反射している。体格のいい背中が、教壇から見渡すようにぐるりと一周した。
「よし、じゃあさっそく動くぞ。まず全員、午後に体育館前の広場に集合。そこで応援団とパネル隊に分かれる。どっちが希望か、今のうちに考えといてくれ」
拓人が手元のプリントを掲げた。
「パネル隊は団カラーのパネル制作がメイン。絵が得意なやつ、コツコツ作業が好きなやつ向けだな。応援団は詳しくは湊と響也が仕切る。体動かすのが好きなやつ、来てくれ」
教室の空気が少しだけ変わった。誰かが隣の席に小声で話しかけ、誰かがどっちが楽か真剣に考えこみ、誰かが窓の外をぼんやりと眺めた。三十人の一年生たちが、それぞれのやり方で体育祭という現実と向き合い始めていた。
湊は自分の席で、昨夜まとめたノートのページをそっと開いた。几帳面な文字ではないが、書き込まれた構成だけははっきりしている。指でなぞりながら、声に出さずに順を追う。
*****
午後。広場の日差しは思ったより強く、湊は手の甲で額の汗を拭った。
1-1の三十人が集まると、改めてその人数の多さと少なさを同時に実感する。
多い——と思うのは、全員の顔と名前を把握しなければならないという意味で。
少ない——と思うのは、これで五分間のパフォーマンスを成立させなければならないという意味で。
太陽が白く照りつける広場の中央で、春人がクリップボードを持って前に出た。
「応援団やりたいやつ、手を上げてくれ」
ぱらぱらと手が上がる。数えると、十三人。男子が九人、女子が四人。湊と響也も入れればちょうど十五人だ。
「残りのパネル隊も十五人か、ちょうどいい」
拓人が手元に書き留めながら言う。なんとなく均等に分かれたのが、少し不思議でもあり、幸先がいい気もした。
湊は上がった顔ぶれをひとりずつ確認する。運動が得意そうなやつ、声の大きいやつ、なんとなく面白そうで手を上げた感じのやつ——それぞれの温度がある。この十三人をまとめて、五分間のパフォーマンスに仕上げる。
——やるしかない。
「応援団の十三人、ちょっと集まってくれ」
湊が声をかけると、ぱらぱらと輪ができた。壁際には響也が立っていて、手元には例の構成図のプリントがある。いつの間にか集めてきたらしいクリアファイルには、すでに何枚かの資料が整然と収められていた。
「まずこっちから動く。パネル隊は拓人に任せる」
「了解」
拓人が手を振って、残り十五人を連れて校舎の方へ歩き始めた。振り返りざまに湊へ向かって「頑張れよ」と親指を立てる。その背中が遠ざかるのを見送ってから、湊は残った面々に向き直った。
広場に、十三人と湊と響也、春人が残る。
*****
「えっと——じゃあ、俺から大まかな流れを説明する」
湊はノートを開いた。昨夜、ベッドに寝転びながらスマホと格闘して書き留めたものだ。文字は少し雑だったが、構成だけははっきりしている。見返すたびに、あのときの集中がよみがえってくる気がした。
「まず全体のコンセプトは『緋』。赤団の赤を、炎みたいに見せたい。和太鼓と現代的なダンスを組み合わせて、静から動に転換する二段構えで行く」
十三人の顔が、じっとこちらを向いた。
「入場は篠笛の音源から始める。全員無言で整列して、俺が前に出て一声かける。そこで太鼓が入る感じ」
「太鼓、誰が叩くんすか」
男子の一人——確か松岡という名前だ——が手を上げた。体格がよく、バスケ部の経験者だと自己紹介していたのを覚えている。
「叩けるやつがいたら理想だけど、音源でもいい。誰かできる?」
少し間があって、後ろの方にいた女子グループから手が一本上がった。
「あの、私叩きたいかも」
「えー莉沙、マジで?」
「いや叩きたくね? 絶対楽しいじゃん」
女子グループのテンションが上がりだす。笑い声が混じって、最初の緊張がほんの少しほぐれた。
「じゃあ、お願いするな?」
「やるやる!」
湊は内心でガッツポーズした。音源より生の方が絶対にいい。それは直感だったが、確信に近かった。演者が一人増えるだけで、パフォーマンス全体に熱が生まれる。
「ありがとう、助かる。本当に助かる。で——パフォーマンス前半が和のパートで、後半に音が変わってダンスに移る。フラッグを使いたいんだけど、それについては……」
湊は響也の方を向いた。
「そっちから話してくれるか」
全員の視線が響也に集まる。これだけの人数に一斉に見られても、響也の表情はほとんど変わらなかった。ただ、クリアファイルの中から静かに紙を取り出す。
「配ります」
几帳面に人数分コピーしてきたらしく、一枚ずつ丁寧に手渡していく。受け取った面々が図を見て「おっ」とか「なんか本格的」とか声を漏らした。
湊も手元の一枚を見た。
——思っていたより、ずっと精密だった。
観客席から見た図、横から見た図、真上から見た図、三方向から描かれている。各位置に番号が振ってあり、別紙に番号ごとの役割が書いてある。フラッグの軌道まで矢印で示されていて、矢印の一本一本が、迷いなく引かれていた。
「フラッグは三人。赤・黒・オレンジの三色で持つ。この配置で動くと、観客席の正面から見たときに炎みたいな揺らぎに見える」
響也が淡々と説明する。声は大きくないのに、不思議とよく通った。
「前半のパートでは大きく動かして存在感を出す。後半のダンスに切り替わるタイミングで、この位置で静止する」
指が図の一点を示す。細い指先が、ためらいなく正確な場所に触れた。
「静止したフラッグが背景になる。そこに動く人間が浮き上がる」
しばらく誰も話さなかった。風が一瞬、広場を吹き抜けた。
湊は図から響也の顔に視線を上げた。
「これ……観客席から見たときの見え方を、全部逆算して組んだのか」
「……まあ」
「すごいな、お前」
「褒めても何も出ないぞ」
響也は淡々と答えたが、眼鏡の奥の翡翠色の瞳が少しだけ逸れた。照れているわけでも、困っているわけでもない、ただ視線の逃げ場所を探しているような、そんな動き方だった。
昨夜、二人でパフォーマンス内容を話し合ったとき、「写真を撮られたときのことも考えた方がいいかもな」とは言った。けれどこうなるとは。響也の頭の中にある設計図は、湊が思っていたより何倍も精巧だった。
「衣装も考えてきました」
響也がもう一枚の紙を取り出す。
シンプルなラフ画だったが、方向性は明確だった。黒ベースの詰め襟風シャツに、袖と襟のラインを緋色で入れる。全体のシルエットはすっきりしながら、差し色で赤団としての統一感を出す。「絵うま」という声がどこかから聞こえた。湊もそう思った。線に迷いがなく、どこを強調したいのかが一目でわかる。
「動きやすさ優先で、和風のニュアンスを入れた。素材は綿混で頼む予定」
響也がページをめくる。
「団長のだけ別仕様にしました」
湊のデザインだけ別の紙だった。同じ黒ベースだが、肩に金の飾り紐が入っている。オプションで帽子もある、と余白に小さく書き添えてあった。
「……これ、俺のか」
「団長だから」
「そうか」
湊は紙を見つめた。金の飾り紐。朝の光が当たれば、きっとよく反射するだろう。観客席から見えるだろうか——と考えかけて、もう一歩先まで思考が滑った。
——先輩の目に、届くだろうか。
そんなことを一瞬だけ考えて、湊は咳払いをした。
「よし、衣装はこれで行く。デザイン、文句あるやついるか?」
誰も手を上げなかった。むしろ「かっこいいじゃん」「黒いの好き」という声が上がった。全会一致とはいかないまでも、概ね好評らしい。空気の温度が少し上がった気がした。
「じゃあ一個だけ」
女子の一人が手を上げた。
「フラッグ、三色全部同じサイズですか? 大きさに差をつけた方が動きに変化が出るかなって思って」
湊は響也を見た。
響也は少し考えてから、手元の図に視線を落とした。数秒の沈黙があって、
「……それ、いいな」
と言って、ペンを走らせた。湊は意見が出るならどんどん出してほしいと思っていたが、これほどあっさり採用するとは思っていなかった。響也は自分のプランに固執するタイプではないらしい。いや——自分の設計に絶対の自信があるからこそ、よりよい意見を組み込む余裕があるのかもしれなかった。
「他にあるか?」
もう春人が手を上げた。
「後半のダンス、振り付けってどうなるんだ?」
「それはこれから考える。誰か、ダンス経験者いるか?」
一人だけ手が上がった。部活でやっていたわけではなく、習い事で少しだけ、という話だったが、ないよりずっとある。
「じゃあその子に中心になってもらって、みんなで作っていこう。難しいことはしなくていい。そろっていて、声量があって、見ていて熱くなれればそれでいい」
湊はメンバーを見渡した。十三人の顔がある。それぞれ違う事情で、違う気持ちで、ここに立っている。
「これは俺一人がかっこよくなるためのパフォーマンスじゃない。全員が揃ったときに一番かっこよくなる形を作りたい。だから練習、付き合ってくれ」
少しだけ沈黙があって、
「おう」
と松岡が言った。低い、腹から出た声だった。それを合図に、「やってみよう」「頑張りましょう」という声がそこここから上がった。全員の声が揃ったわけではないし、温度差もある。でも——前を向いた十三人の顔が、確かにそこにあった。
湊は一度深く息を吸った。広場の空気が肺に満ちる。
やれる気がした。
*****
準備を終えて解散した帰り道、湊は響也と並んで校舎を出た。夕方の斜光が校庭を橙色に染めていて、昼間より幾分か涼しい風が吹いていた。二人の影が長く伸びて、アスファルトの上を先に進む。
「今日の図、本当によく考えてたな」
湊が言うと、響也は前を向いたまま短く答えた。
「写真の構図と同じだから」
「どういうこと?」
「写真は引き算だ。何を写すかじゃなくて、何を省くかで絵が決まる。フラッグが静止したとき、観客は動いているものしか見ない。余計な情報を省けば、見せたいものが浮く」
湊はしばらくそれを反芻した。響也の言葉はいつも、説明のようで詩のような間合いがある。
「……なんか、難しいな」
「別に難しくない」
「俺には難しい。でもお前がいてくれるなら、俺は声の方に集中できる」
響也が少しだけ足を止めた気がした。一歩分の間があって、また歩き出す。夕暮れの中で、その横顔はいつもより少しだけ柔らかく見えた。
「……それ、俺が便利ってこと?」
「頼りにしてるってこと」
響也は答えなかった。
夕方の風が二人の間を通り過ぎる。返事をしない沈黙が、否定でも肯定でもなく、ただそこに漂っていた。湊はそれで十分だと思った。
*****
夜、部屋に戻った湊はベッドに腰かけてスマホを取り出した。
外はもうすっかり暗い。机の上には開きっぱなしのノートがあって、昨夜書き込んだ構成がそのままになっている。今日一日で、あそこに書いたことが少しずつ形になり始めた。まだ骨組みにもなっていないが、それでも確かな手応えがあった。
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何と打つか、少し考えた。
——団長になりました、というのは昨日資料室で言ってしまった。だから続きの話として送ればいい。
『応援団長の衣装決まりました、団長の衣装、肩に金の飾り紐が付く仕様です』
送信してから、少し恥ずかしくなった。なんでそんなことをわざわざ報告しているんだ、と思ったが、送信取消はもっと恥ずかしい。
画面を伏せて天井を見上げる。白い天井に、先輩の顔が浮かんだりはしなかった。ただ、黒ベースの衣装に金の飾り紐が映える情景だけが、なんとなく頭の中にあった。
三分ほどして、既読がついた。
『かっこよさそう』
それだけだった。
それだけなのに、湊は少しの間スマホの画面を見つめていた。文字は五文字。余分なものが何もない、先輩らしい返し方だと思う。
「……うん」
誰にも聞こえないところで、小さく呟いた。部屋の中に声が吸い込まれて、消えた。
スマホをそっと胸の上に置いて、湊は目を閉じた。




