第5話 朝白む
ひゅうひゅうと冷気が体を包む。雪で覆われた地面にへたり込むレイラ。
それは呆然と目の前を見る。
「なんなの……これ」
いきなり目の前に現れ、戦い始めた奴隷商達。
それに希望を抱くには、レイラの人生に救われたという経験があまりに無かった。
浅くなった呼吸は小刻みに口から溢れ、白く昇っていく。諦めの感情が支配しても、レイラの思考は回っていく。
こんなことをしている場合ではない。
シエナを助けないと、倒れた騎士の人の治療をしないと。そんな事を思っていても、私は何も出来なかった。何か動こうとする気力すら、もう湧かなかった。
「だってもう……」
あっさり騎士の人はやられて盗賊は4人。それで助けに来た奴隷商も囲まれている。希望を見出す方が無謀というもの。やはり私は光があると勘違いして、ひたすらに暗闇の中に堕ち続ける人生という事らしい。
「はは」
雲に覆われた空を見上げる。もうどうでも良くなってしまっている自分がいる。いつかは来ると思っていた、報われるとき。それが無いと今日やっと教えられたような気がする。いい加減現実を見ろと、お前は所詮奴隷のまま暗闇で死んでいくんだと。
そしてひたすらに時間が経つのを待つ。終わるなら早くしてくれ。殺すなら楽にしてくれ。そうレイラは目を瞑り、静かに雪の上にあった。
すると盗賊の1人がレイラを持ち上げ、首元にナイフを押し当ててくる。
パチっとレイラの目は開かれ、首元のナイフの反射を目にする。
(あぁこういう死に方か)
奴隷商は盗賊の脅し文句に聞く耳を持たず近づいてくる。私の命なんてどうでも良いとでも言わんばかり。
(結局あいつも私を奴隷としか見ていない)
少しだけ、ほんの少しだけ奴隷商に善性を見出した私がバカみたいだった。もしかしたらいい奴かも、そう勘違いしたのも、ただの商品を大切にする功利でしかなかった。
(大人なんて信用するもんじゃないな)
だが、その奴隷商はなぜか立ち止まり、私に問いかけてくる。だとしても、それにまともに答える気の無い私は、思った事をそのまま答える。
「……別に。もう良いかなって」
すると奴隷商は落胆したように、諦めたようにナイフを手に取る。
「お、おい!!だから俺の命令を効かないとこいつが……!」
盗賊のナイフが私の首を傷つける。やはり誰も助けてくれない。いくら人の為に生きても、最後は結局1人で死んでいく。カールもシエラもお父さんもお母さんもいない。私は誰にも必要とされず、一人ぼっちで死んでいく。
真っ暗になっていく思考と視界。息が詰まるというより、自ら呼吸を拒むような閉塞感。
「あーあ。しょうもないな」
残った空気を吐き出すように掠れ小さくレイラが呟く。もう未練はないと、早く終わってしまいたいと。そう願ってしまっていた。
だがふと、その言葉は耳に入ってくる。
「━━5年前。シエナを庇った時の強情なお前はもういないか」
まさか。そう思った。そんな些細な事を覚えていたのか、そんな驚愕だけあった。
「な、なんでそれ覚えて……」
だがそれで私の心が動く訳もなく、ただただそれを奴隷商が覚えていた事に驚いただけ。だけだったはずなのだが、その時の奴隷商の顔が酷く印象に残る。
(……なんでお前がそんな悲しそうな顔するんだよ)
悲しそうな悔しそうな。感情の見えたことの無かった奴隷商の顔に、初めてと言っても良いぐらいの変化。
だがその情報を処理しきる前に、私を掴む盗賊のナイフは振り上げられる。同時に奴隷商も走り出すが、これでは間に合わない。
(最後に変な心残りできちゃったかな)
諦めからか、そんな言葉が心の中に浮かぶ。だがそのせいか、消えていた恐怖心が湧き出て、喉が鳴ってしまっていた。
「助けっ……」
息を吐いただけともとれるぐらいの小さな声。それは誰にも届かないはずの言葉。掻き消すような空を切るナイフの音。
このちっぽけな人生の到着を待つように私は目を瞑る。
だが待てど過ごせもそのナイフは届かなかった。代わりに来たのは5年間嗅ぎ慣れてきた匂いと、かすかな血の香り。
「お前……ッ何やって……」
盗賊の動揺した声に、そっと目を開ける。そこには必死の形相をした奴隷商の顔と、差し出された左腕。そしてその奴隷商は視線は私を捉える。
「悪い。気が変わった」
私を見て安堵した表情になる奴隷商だが、その腕にはナイフが刺さっている。
それなのに何事も無いように、私を優しく抱えてくる奴隷商。そしてそのまま逃げる盗賊を魔法で、あっさりと打ち抜いてしまう。
訳が分からなかった。なんで助かったのかも、なんでここまでして私を助けたのかも。そんな気持ちが先行して、言葉になってしまっていた。
「な、なんで……?」
さっきまで必死の形相をしていたくせに、目の前の男は気取ったようにすました顔をする。
「お前は高く売れたからな。やっぱ目先の金が欲しくなった」
はじめてこの男について知れた気がした。なんで変な所で私達奴隷に甘かったのか、逆らっても逃げようとしても処罰すら無かったのかも。その僅かな違和感が今一つに繋がる気がしていた。
そしていくつか言葉を交わし、また奴隷商は澄ましたように言う。
「なら良かったな。これからも俺の出荷した奴隷として生きて行けるぞ」
さっきまであんな顔で、私を助けようとした人の言葉じゃない。だが、その顔は嬉しそうに少しだけ口角が上がっていた。多分本人ですら気付いていない表情の変化。
それが可笑しくて私も笑ってしまう。そして閉じる瞼に間に合わせるように言葉をひねり出す。
「あんたって温かいんだな」
私は暖かい外套に包まれ、深い眠りに落ちていくのだった。
ーーーー
「こいつのトドメは俺にやらせてくれ」
コンラートは治療が終わるなり、立ちあがりクレートの元へと向かっていた。だがそれを奴隷商が許容するはずもなく、自身の手を治療しながら答える。
「情報を吐き出させないといかん。殺すな」
「だが、こいつは死ぬべき存在だ」
「それはうちの国の司法官様が決める事だ」
手に少しの違和感を抱きながらも治療を完了し、寝息を立てるレイラを再び抱える。だがコンラートは力説するように叫ぶ。
「こいつは俺と姫様を攫った張本人だ!!だから頼む!!!ここで仇を討たせてくれ!!!」
先刻まで鎧の間からナイフを突き刺されていたとは思えない程の元気。それどころか常人なら立っているだけでも苦痛な出血のはず。
合理で考えたら殺すなんてリスクしかない上、みすみす情報を取り逃すような物。だが魔力も底が見え、今のコンラートを止めれる自信が奴隷商には無かった。
たからと、奴隷商は少しだけ譲歩をすることにした。
「……お前が殺人で追及されても庇わないからな」
「これは俺の敵討だ!お前に迷惑はかけん!!」
そうでかい声で返事をするが、やはりやりすぎか言った傍から腹を抑えるコンラート。それをあほらしく思いながら、奴隷商は諦める。
「……好きにしろ」
あまりコンラートに騒がれて魔物や獣が寄ってきてもらっては困る。それにこれ以上相手をするのも疲れる。
そしてコンラートは白刃を抜き、地面にうつ伏せになって転がるクレートへと向ける。
「クレート?だったか」
「……」
返事はない。クレートの体は地面に伏したまま。
「俺の名前はコンラートだ。今からお前を殺す名だ」
コンラートの剣の切先がクレートの首元へと向く。怒りか恨みか、それが湧き出て普段の根明なコンラートにはみえない表情だった。
だが伸びているクレートからは返事がある訳もなく、コンラートは剣の柄を強く握る。震えすぎて切先がわずかにクレートの首裏を傷つける。
「死ねッ!!!!」
コンラートが怒りの湧き出しと同調するように剣を振り上げる。その声は森中へと響き、その怒りの度合いが分かる。
だがそこで隙が出来てしまったらしかった。
伸びていたはずのクレートが、突然体を起こし右手をコンラートへ掲げる。そして何かと思えば、一瞬で周囲の暗闇に橙色の炎が瞬間広がる。それはコンラートとクレートを包んでいく。
「なッ……起きてたのか━━」
コンラートは咄嗟に顔を守るが、自身を攻撃した物では無いとすぐに分かる。シュッと空を切る音と共に、その炎はすぐに消えたからだ。
そしてそれを見て奴隷商はあぁやられた、そう思った。
「目くらましか」
クレートとコンラートを包んだ炎が消えれば、そこにいたはずのクレートの姿が見えない。夜目になっていたからか奴隷商はまだ目がチカチカするが、一応周囲を警戒する。
「あいつやっぱ慣れてるな。負け戦に」
目を擦りながらコンラートの元へと歩み寄る。最初は確実に気絶していたが、どこかで起きてタイミングを計っていたのだろう。
だがそう納得できるはずも無く、コンラートは辺りを鬼の形相で見回す。
「すぐ追うぞッ!!まだ近くにいるはず━━」
コンラートは血管をこめかみに浮かべ辺りを見回し、今にも走り出しそうだった。だが流石に奴隷商はそれを止める。
「こんな暗闇で追えばこっちが深手を負う。奴隷の回収を優先だ」
「だけど!!!いつ次あいつと会えるかも分からないんだぞ!?」
コンラートが剣を振り払い、刃に張り付いていた血が地面へと弧を描く。
「ダメだ。お前の復讐に付き合ってられない」
「お前って奴はッ!!!」
眼の血走ったコンラートが奴隷商の襟を掴む。初陣の興奮で、感情の制御が出来なくなってしまっているらしい。
「無理な物は無理だ。あれを殺してもお前の姫様は帰って来ないぞ」
ここまで歯ぎしりの音が聞こえる。歯が割れてしまうのではと思う程のだ。だがコンラートは少しの逡巡の末、奴隷商の襟から乱暴に手を離す。
「……んだよ。それ」
「知らん。俺はお前の敵討ちに興味は無いからな」
解放された奴隷商は襟を整えながらも、地面へと転がる麻袋へと足を進める。
「あいつが油断してなかったらまずかったかもな」
あの状況から逃げ出されるとは思わなかった。実力を計りかねていたのはお互い様だったって事らしい。
「コンラート。この付近に他の奴隷がいるはずだ。俺は治療しているから先に探しに行け」
「……生きてんのか。その子達は」
「死んでたらどうする。弔ってやらないのか」
そんなつもりコンラートに無いのは分かっている。だが発破をかけるように奴隷商は嫌味を言う。するとやはり分かりやすい男、舌打ちをしながらも全力で走り出す。
「実直な男だ」
奴隷商はそう呟きながら麻袋を開ける。するとまた小さく縮こまったシエナの姿がある。綺麗な青色の髪が見えるが、その顔は上からでは良く見えない。
「おい。怪我してるなら見せろ。治癒するから」
そう言って袋から出そうとするが、頑なに出ようとしないシエナ。こちらも余程トラウマを抱えてしまったのだろう。
「命令だ。出てこい。姉だろ」
魔力は使っていないが、条件反射のように怯えながら出てくるシエナ。だが、出てくるなり外套に包まれたレイラを茫然と見つめる。そして覚束ない足で、駆け寄りその体を揺らす。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。見て見ぬふりしてごめんなさい」
何に謝っているのか。それは分からないが、足裏の皮の捲れ方に腫れ方から、かなり長時間逃げていたのが分かる。
奴隷商はゆっくりと歩み寄り、その肩に手を置く。
「お前がどうにか出来た状況じゃあないだろう。治療するから大人しくしろよ」
シエナの細い足を引っ張り治癒魔法をかける。だがそれでも地面の雪を掻き、レイラへと謝ろうとするシエナ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
昔から責任感が強すぎるというか自罰的な所はあった。だがここまでになるのは、過度なストレスのせいもあるのだろう。
そうしながらも全身を治療し終えると、丁度良くコンラートが森の中から2人を抱え返ってくる。
「その顔は助からなかったか」
コンラートは暗い顔をして俯く。
「……崖から飛び降りたんだと思う」
自分のせいではないというのに、こうも悔しそうな顔をするのはらしいというか。
「奴隷は墓を持てない。ここに埋めてやれ」
「……おう」
コンラートは爪を立て雪を払い地面を掘り出す。
それを見てさえ ただシエナは呆然と立ちつくす。そして表情の抜け落ちた顔でポロポロと涙を流してしまう。
「リンも私が手を取らなかったから……私がレイラを優先したから……」
歳の割に少し幼い顔をしたシエナ。精神年齢は低いわけでは無いが、やはりどうにも自罰的すぎる。いい風に言えば優しいが、これではいつか壊れてしまいかねない。
奴隷商はレイラの薄い首元に手をかざす。
「すまん。少し痛むぞ」
シエナの首元に手をやり魔力を少し流す。所謂睡眠魔法というものだが、失敗した時体の自由が利かなくなる、細心の注意が必要な物。だが成功し、シエナは寝息を立てレイラと同じ外套に包まれる。
するとコンラートが何か思い出したかのように、顔を上げる。そして掲げた手には鞄があった。
「……盗賊のだと思う。一応渡しておく」
「おう。あの盗賊回収していかなかったのか」
奴隷商が鞄を受け取ると、また暗い顔をしてコンラートは一心不乱に地面を掘り出す。それを流し見つつ奴隷商は、薄手に寒さを覚えながら、受け取った鞄を漁る。
するとそこには明らかに質の良い紙が何枚かある。
その紙一枚一枚には王家の押印があり、その内容は奴隷商が初めて見る物だった。
「奴隷身分の解放令」
奴隷商の出荷した全員を奴隷身分から解放すると、そうこの紙に書いてある。こんな事例滅多にないから奴隷商もこの書類を見るのすら初めて。それにこれを盗賊なんかが持っているのが、違和感でしか無かった。
「……この押印が本物なら」
奴隷商の出荷した奴隷全員分の解放令。なのにあの盗賊は3人を殺していて、あまりに行動に一貫性が無い。この書類を手に入れる為の労力を無にしている。
(それにそもそもこいつらを解放するメリットが見たらない)
ますます身に降りかかった火の粉が、どこからの物か分からなくなりつつある。だが、それでも奴隷商には確信に近い直感があった。
「クリスの奴の仕業か」
しばらく絡んでこなかったのに、市場帰りに急に話しかけてきたのにも合点が行く。それにあいつならただの嫌がらせを奴隷商にする理由が思いあたる。ただ王家の押印を使うまでのことなのかと疑いたくなるが。
少しだけ考える。
この書類に奴隷達の血判を押せば晴れて奴隷身分からの脱却だ。だがそれをすれば奴隷商の収入は無くなる上に、取引先との関係悪化は目に見えている。それはあまりに自身の生活を追い詰める事他ならなかった。
だがそもそも解放した所でというのもある。奴隷をここで解放して果たしてこの先生き残れるかも怪しい。金も無ければ身分も無い、それこそ奴隷であるよりもひどい生活を送る可能性がかなり高い。なんなら死ぬかまた奴隷落ちするのが関の山。
頭の中が熱くなる。思考をいくら巡らせてもこれという答えが出せる気がしない。
だが、結局はこれに落ち着く。
「尊厳か貧困か」
とりあえず結論は後回しにして、鞄の中に紙を丁寧に入れる。そして奴隷商もコンラートに並んで地面を掘り始める。
「あまり奴隷達に肩入れするなよ。こうなる事が普通の世界だ」
「……それでも俺は騎士だ。助けを求める子がいれば見捨てない」
そうして月が山の向こうへと沈み出すころ。爪に土が挟まり汚れた2人は、日が明けるまで交互に夜番をする。流石に魔力を使い切り疲れ果てた奴隷商が先に寝ることにした。
夜も更けていく。パチパチと音を立て暖める焚火を眺めながら、コンラートは自分の剣を眺める。それは良く光を反射し、雪の白さを超え暖かい炎の色になっている。
「……姫様」
刀身を撫で、手入れをする。こんな業物を頂いたが、未だこれを使いこなす事は出来ていない。騎士として未熟な故、今日も殆ど奴隷商のお陰でなんとかなっただけ。
「これに見合う騎士に……か」
いつの日か。もう何年も前。姫様の騎士として正式に認められ、この剣を下賜された時、俺はそう宣言した。その時の姫様はなんと言ったか、それはこの剣を撫でる度に思い出す。
「もう既に見合ってますよ。何せ私の騎士ですから」
まだ10幾つかの姫様にそう言われ、俺は人目もはばからず泣いてしまった。しばらくその事で姫様に弄られたが、初めてやっと人に認められた気がして、それだけ嬉しかったのだ。
だからこの剣に嘘を付かない、姫様の騎士で在ろうとし続けたい。
「で、結局俺はどこに居るんだってな」
冷めた空気が肺に流れ込んでくる。パチッと焚火に入れた枯れ木が割れる。手入れの終わった剣を鞘にしまい、コンラートは後ろを向く。
「奴隷商。時間だ」
木にもたれ掛かり腕を組んで寝ている奴隷商。コンラートが呼びかけると、すぐに顔を上げ首を鳴らす。
「そうか。分かった」
奴隷商は立ちあがり、焚火の近くへと歩み寄りコンラートの隣に座る。
「寝るなら寝ておけ。明日はずっと移動だからな」
「おう。わーってるよ」
鎧は脱ぐ訳にいかないので、さっきまで奴隷商がもたれていた木に背中を預け目を閉じる。そうして数分の後に意識が落ちると、奴隷商は静かに木の棒で焚火を突っつく。
「腹減ったなぁ」
焚火の向こうにはコンラートの置いた石と盛り上がった土。奴隷商とコンラートしか知らない墓。彼らの人生はなんだったのか、そう思いたくなってしまう。
「……まぁもう何度目か。これも」
そうしてしばらく夜番をすること数時間。隣でササッと布の擦れる音がし、視線を滑らせるとどうやらレイラが起きたらしい。まだ寝ぼけているのか、ボーっとしているようだが段々と焦点が合う。
「よう。よく寝れたか」
「……あ、はい」
同じ外套で寝ているシエナに気を使いつつ、体を起こすレイラ。その端正な顔は、焚火の明りに照らされる。
「手は。大丈夫なんですか」
起きてすぐ他人の心配をするのかと、呆れが来るがとりあえず答える。
「まぁな。この通り傷口は塞がってる」
手をヒラヒラとし大丈夫だとアピールする奴隷商。だがどうにもレイラの顔は晴れず、ジッと焚火を見続ける。
そこで奴隷商は、鞄の中を漁りその紙を出す。
「お前が選んでいいぞ。どうするか」
奴隷商から受け取った紙を見て固まるレイラ。
「……え」
それもそのはず、その紙には奴隷身分から解放すると、そう書いているのだから当たり前の反応だろう。
「お前はどうしたい」
レイラは耳に黒髪をかけ、その紙に書いてある事をジッと見つめたまま。だが奴隷商の問いかけには答える気は無いのか、質問で返してくる。
「これラウラとかロルフには譲れないの?」
また最初に聞くことがそれかと。そう思ってしまうが、レイラらしいと言われればそうだった。
「無理だな。お前の奴隷契約限定だな」
レイラは、紙から顔をあげフーっと息を吐く。
「じゃあさ。もし、私が自由になったらさ」
「おう」
東の空が段々と白み、雲に顔を出す前の朝日が反射する。いつの間にか天気も晴れ、西の空は紫の夜空に星が浮かぶ。だがまだ気温は上がらず、言葉を発せば白く昇っていく。
「ラウラたちはどうなるの?」
やっと自分の進退を話すかと思えば、また他人のこと。奴隷商は、レイラと同じように夜空を見上げ答える。
「……国から補償が出るから金は大丈夫だ。取引先の伯爵とは関係悪くなるかもだが」
こうは言った傍からだが、補償は出ないと思っていい。輸送までが奴隷商の責任な以上、この一件もあくまで自己責任で処理される可能性が高い。なぜこんな嘘を奴隷商がつくのかと言えば。
「だから気にせず自由になって貰っても構わない」
レイラに選択肢を残す為。レイラの性格からして、ラウラ達残された奴隷達を気にして、自身が奴隷である事を選ぶかもしれない。それこそ聡いレイラだ、奴隷商に金銭的余裕がない事ぐらい察しがついているのだろう。
だがその考えを見透かしたように、レイラは膝を抱え奴隷商を見る。
「……あのさ」
「決まったか?」
レイラの黒い瞳が顔を出した日光に反射をする。どうやら東の空を覆っていた雲が、段々と明けてきたらしい。
「嘘でしょ。それ」
見通したようにレイラの瞳が奴隷商を貫く。少しだけ心拍が跳ねる感覚を覚えるが、根拠のない妄言だと奴隷商は切り捨てる。
「?何のことだ」
レイラはふふっと零れるように笑う。
「あんたの部屋の本。大体読み込んでるから。補償なんて出ないでしょ」
確かに本は読ませていた。それこそ伯爵家に売ると決まった時からは、教養の為殆ど自由に読ませていた。
「だが、そんな嘘をついて俺にどんな利益がある。ただの勉強不足だな」
そう平静を装うが、知られてしまっている以上無理のある嘘であることは、奴隷商も自覚していた。だがそれでも奴隷商は嘘と言わなければいけない。
それでも差し込む朝日は、レイラの黒髪をより照らす。
「あんたにそんな嘘を付く理由が無いからこそ。私の為の嘘なんでしょ」
奴隷商はため息と共に、朝日に目を細める。どいつもこいつも強情で面倒臭いと、疲れてしまいそうになる。
「嘘だったとしてどうする」
「奴隷のままでいる。それがラウラたちの生活の為になるから」
即答だった。奴隷商の想定した通りの答えが迷いなく、目の前の齢18の女の子の口から放たれる。
確かにレイラまで奴隷を辞めると売却益が無くなってしまう。そうなれば経営が行き詰まり生活レベルを落とさざるおえない。それに最悪ラウラ達を他所に売らねばならなくなるかもしれない。
だがそれはあくまでの可能性の話。奴隷商が金銭をどうにか工面するかもしれないし、それこそもしかしたら補償される可能性もある。それでもレイラは、根拠の薄い推論で自身を売る判断をしようとしている。
「理解出来ないな。もっと利己的になったらどうだ」
するとレイラは立ちあがり、朝日に向かって思いっきり背を伸ばす。風が通り抜け、揺れる黒髪を手で押さえながら、レイラは微笑み奴隷商を見下ろす。
「やっぱ私の人を見る目は正しかったのかもね」
「……」
「世間も捨てたもんじゃないのかも。まだ大丈夫って思える」
憑き物が落ちたような、そう表現をするのが正しい様子だった。だが奴隷商は、奴隷商としてそれを認める訳にはいかない。
「……勘違いは良いが、知らないぞ。本当に良いんだな?」
本人がそれでいいなら良い。奴隷商はそう割り切ることにした。レイラの”勘違い”もどうせこの危機的現状が起こした幻覚の様な物だろうと。
だがレイラは両手を後ろに組み、朝日を背中にする。こうして見ると5年前に比べ、随分と身長が伸びた。
「良いよ。ま、どっちにしてもあんたの事は嫌いだし。そこは勘違いしてないから」
これは何を言っても無駄らしい。そう奴隷商は判断し、尻を払い立ち上がる。
「言われなくとも、好かれたと思ったことは一度も無い」
寝不足の時に見る朝日は、どうしてこうも眩しく感じるのだろうか。もう焚火は消えかけ、細々と煙が昇っていた。
「分かってるなら良いけどね。だけどその辺の大人よりかはマシだったとは思ってるから」
「そりゃどーも」
奴隷商の何を見てそうレイラが判断したのか。全く奴隷商には分からない。だが数時間前まであんなに暗かった顔は、いつの間にか人を煽るような無邪気な笑顔になっている。
「てか私が奴隷でいるって言ってるのに、あんたが嫌がるなんて普通におかしいの気付いてる?」
「……」
答えない。おそらくここで弁明して無駄。その上これ以降会うことは無いのだから無意味だと。
「食事も薬も服も上等。訓練は厳しいけど直接暴力は振るわないし、私達女に手を出そうともしない」
変に褒められ気恥ずかしくなり、顔を逸らしてしまう奴隷商。
「……それは商品だからな」
だがその逸らした顔を覗こうと、レイラは見上げてくる。
「だとしてもでしょ。まぁ普段から偉そうな態度で、その訓練が死にそうなぐらい厳しくはあったから、皆嫌いだったけどね」
「……」
奴隷商は居心地の悪さを覚え口を結び、足元の灰の火種を足で踏み潰す。するとコンラートの目が覚めてきたのか、寝返りをうつ。
それを見てレイラはもう時間かと、最後にと奴隷商に伝える。
「ま、あんたもせいぜい頑張りな。何も聞かないし、なんでそんな仕事してるのか知らないけど」
特有の朝の香り。こびりついた血の匂いもどこかへ行った。私達が出荷された時と何も状況は変わっていないのに、どうしてこうも心は軽いのだろうか。
そしてそんな私を奴隷商は困ったように、でも少しだけ微笑む。
「……一応その言葉は受け取っておく」
多分だった。だが、それでもまだ頑張ろう、まだ前を向こう。そう思えた気がした。




