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夏颯記  作者:
幕間・与平視点

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88/99

堺湊 1-8

「そう」

 言葉少ないその返答に怯んだのは、与平だけではないだろう。

「それでも、行くわ」

 お姫様の声は少し震えていたが、はっきりと前を見ていた。

 不安そうな若君の手をぎゅっと握り、頷きを返す。

 細川家が今になって勢力を拡大しようとしている。堺も、土佐もその腕が届く範囲内だ。

 今の堺には近づかない方がいい。土佐もどうなっているかわからない。

 与平は、何ひとつ隠すことなく状況を伝えた。

 だがお姫様は、それでも行くという。

 どうしてもそうしなければいけない理由があるのだと。

 ちらりと見た小次郎様は、苦虫をかみつぶした表情で口をつぐんでいる。

 幼い若君でさえ、覚悟の決まった表情をして姉の手を握り返している。

 嫌な予感がした。渦巻く不安は、気のせいで済ませることなどできる段階を過ぎていた。

 もしこれが主家の問題なら、間違いなく強く注進しただろう。

 いやそうでなくても、沈みそうな船にお乗せして、死地に向かわせていいものか。

 ……そう感じている時点で、お姫様たちが土佐に向かうのを止めるべきだった。

 だが与平はあくまでも、一介の忍びに過ぎない。

「わかりました」

 静かにそう言って、三人を船に乗せる算段を考えはじめた。

 この場所に戻る途中で、細川京兆家の軍が動いているのを見た。堺で武士が勝手をしているのだから今更過ぎるのだが、堺衆のふたりの大店の旦那の言っていたことを思い返すと、別の顔が見えてくる。

 町が囲まれる前に出航するべきだった。大きな厄介ごとがおこってからだと、船が出せなくなるかもしれない。


 暗くなってもにぎわいが続く堺の町でも、真夜中になるとさすがに眠る。

 門は閉ざされ、紛れる人ごみもないが、それは大きな問題ではない。

 これがご自分の足で、と言い張られたら厄介だったが、小次郎様でさえ忍びの足を信頼して身を預けてくれたので、早く済んだ。

「おお! 若君」

 湊に着くなり、感極まった武士に出迎えられた。

 主家の二人が襲撃され、川に流されたと聞いて、かなり心配していたようだ。

「ご無事でようございました」

「田村」

 お姫様がほっとした表情で名を呼ぶと、皺深い田村の顔がクシャリと歪んだ。

「姫様……大変な目に遭われて」

「わたくしの事はええのや」

「ようはございませぬ。さあ、船のほうへ……」

 田村の目が一瞬、与平を見た。

 そこに過った不快の色を、与平は当たり前だと流した。

 世間一般の考え方では、忍びなどの下賤な者は、高貴なお姫様と若様のお側にいてよい存在ではない。主持ちがそう感じるのは当然で、与平とて御屋形様が他の忍びと距離が近ければ警戒する。

 故に、軽く頭を下げて数歩下がった。

 それは、他の仲間たちも同じだった。

 唯一の例外が鈴で、ぴたりとお姫様の脇についている。

 鈴は一見忍びと分からない身なりをしているので、もしかするとお姫様のお付きだと思われているのかもしれない。

 与平は一瞬、引き留めようとした。

 だが不安そうなお姫様の様子を見て、口を挟むのをやめた。

 土佐まではいっしょに行けない。

 だが、せめて船が出るまでは。

 鈴の気持ちは手に取るようにわかる。

 田村が懐から布の包みを取り出して、投げた。

 港の踏み締められた石畳の上に、チャリンと硬質な音がした。

「……ご苦労だった」

「田村」

 諫めようとしたのはお姫様だった。

 若君も小次郎様も顔をしかめている。

 だが与平は軽く首を振って、黙ってその場を去った。

 もちろん、銭袋は拾わなかった。


 お姫様たちと鈴が、小舟に乗って商船に向かう。

 沖合に停泊した船の帆は巻き上げられ、夜の闇の中で静かに漂っている。

 一番心配していた、商船に乗るまでも問題なかった。

 垂れた縄と、籠のようなものを使って、ひとりずつ船に乗り込んでいく。

 遠目、異変はなにも見当たらなかった。

 与平はそのことにほっとしながら、更に用心深く夜の町を見回した。

 出航は早朝だ。仲間の半数が東回りの船に乗る。残りは八雲に伴走して足で相模に向かう。

 今回の話を聞いて、御屋形様はなんと仰るだろう。きっと激怒なさるに違いない。

 そういえば、相模の戦況はどうなっているだろう。今頃小田原攻めをなさっているのだろうか。

 とりとめもなく、そんな事を考えていた矢先。

「……与平」

 港の影と一体化して、商船を眺めていた八雲に名を呼ばれた。

 珍しい事だった。

 同時に、何かがおかしいと感じた。本能の奥底で土を噛むような不快さだ。

 ピュイと指笛の音がした。

 危険を知らせる合図だった。

 海のほうから。

 与平ははっとして、お姫様たちが乗り込んだ商船に目を凝らした。

 日向屋が用意した商船には、日向屋の船乗りたちと、数人の一条家の家臣たちが乗っている。お姫様たちとも顔見知りで、信頼がおける男のように見えた。

 そう……思っていたのだが。

 与平は耳を澄ませて続報を待った。

 鈴なら、普段の鈴なら、抜け目なく合図を送ってくれるはずだ。

 だが、最初の一音があってから、続きが聞こえない。

 遠いから聞き取れないのか? それとも……。

「八雲は書簡を」

 与平はそう言い置いて、息を吸った。

 今すぐ海に飛び込んで、お姫様の乗り込んだ商船に泳いでいくつもりだった。

 海に向かって身を乗り出した与平の腕を、八雲が掴んだ。

 何故止められたかはすぐにわかった。

 与平はスッと息を飲んだ。声がこぼれないように唇を嚙んだ。

 ……京兆軍だ。

 湊に現れた軍勢だけではなく、海からも小舟の集団が大量に押し寄せてきていた。

 小舟それぞれに、複数の松明を持つ者がいる。

 これまでは火を消して、夜の闇に乗じて距離を詰めていたのか。

 ではきっと、お姫様たちが乗り込むのをどこかで見られていたのだ。

 バッと、日向屋の商船が帆を下ろした。

 明るい月明かりの中で、その白々とした大きな帆が風をはらんで膨らんだ。

質問がありましたので簡単に説明

皆さん大好き三好殿は、阿波細川家の守護代です

先の戦で、阿波公方を擁して上洛し、なんだかんだあって、阿波公方が幕府の将軍職を継いだ、というのが春雷記の話

その後三好殿は京で大きな権力を握るようになりますが失脚

次は、阿波にいた細川晴元を引き連れ、京兆家を継がせてその後見につきます←イマココ

つまり、今の足利将軍と阿波細川氏は、三好殿を一度切り捨てたわけで

政敵状態です

阿波にいた三人が

ひとりは将軍

ひとりは阿波細川家

ひとりは細川京兆家の当主になっている状況です

ちなみに、京兆家というのは細川の本家とされています

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― 新着の感想 ―
与平の感覚ても今回の一件は御屋形様激怒案件なんですね 一条家の危機を知って何も手を打たないなんて事はないだろうけれど、駿河と土佐では離れすぎているし、関与するにしても取れる手段が限られていそう 最終的…
ずっと不穏な展開で目が離せません。愛姫さまや若君、他のみんなも無事に脱出できるといいのですが。 若君は土佐に戻らないといけないのは、政敵がいて立場が悪くなるからなのですかね。
続きが早く読みたい 怖くて読みたくない 頼むからみんな無事で、せめて命だけでも助かって帰還してほしいんだよぅぅうおおお
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