堺湊 1-8
「そう」
言葉少ないその返答に怯んだのは、与平だけではないだろう。
「それでも、行くわ」
お姫様の声は少し震えていたが、はっきりと前を見ていた。
不安そうな若君の手をぎゅっと握り、頷きを返す。
細川家が今になって勢力を拡大しようとしている。堺も、土佐もその腕が届く範囲内だ。
今の堺には近づかない方がいい。土佐もどうなっているかわからない。
与平は、何ひとつ隠すことなく状況を伝えた。
だがお姫様は、それでも行くという。
どうしてもそうしなければいけない理由があるのだと。
ちらりと見た小次郎様は、苦虫をかみつぶした表情で口をつぐんでいる。
幼い若君でさえ、覚悟の決まった表情をして姉の手を握り返している。
嫌な予感がした。渦巻く不安は、気のせいで済ませることなどできる段階を過ぎていた。
もしこれが主家の問題なら、間違いなく強く注進しただろう。
いやそうでなくても、沈みそうな船にお乗せして、死地に向かわせていいものか。
……そう感じている時点で、お姫様たちが土佐に向かうのを止めるべきだった。
だが与平はあくまでも、一介の忍びに過ぎない。
「わかりました」
静かにそう言って、三人を船に乗せる算段を考えはじめた。
この場所に戻る途中で、細川京兆家の軍が動いているのを見た。堺で武士が勝手をしているのだから今更過ぎるのだが、堺衆のふたりの大店の旦那の言っていたことを思い返すと、別の顔が見えてくる。
町が囲まれる前に出航するべきだった。大きな厄介ごとがおこってからだと、船が出せなくなるかもしれない。
暗くなってもにぎわいが続く堺の町でも、真夜中になるとさすがに眠る。
門は閉ざされ、紛れる人ごみもないが、それは大きな問題ではない。
これがご自分の足で、と言い張られたら厄介だったが、小次郎様でさえ忍びの足を信頼して身を預けてくれたので、早く済んだ。
「おお! 若君」
湊に着くなり、感極まった武士に出迎えられた。
主家の二人が襲撃され、川に流されたと聞いて、かなり心配していたようだ。
「ご無事でようございました」
「田村」
お姫様がほっとした表情で名を呼ぶと、皺深い田村の顔がクシャリと歪んだ。
「姫様……大変な目に遭われて」
「わたくしの事はええのや」
「ようはございませぬ。さあ、船のほうへ……」
田村の目が一瞬、与平を見た。
そこに過った不快の色を、与平は当たり前だと流した。
世間一般の考え方では、忍びなどの下賤な者は、高貴なお姫様と若様のお側にいてよい存在ではない。主持ちがそう感じるのは当然で、与平とて御屋形様が他の忍びと距離が近ければ警戒する。
故に、軽く頭を下げて数歩下がった。
それは、他の仲間たちも同じだった。
唯一の例外が鈴で、ぴたりとお姫様の脇についている。
鈴は一見忍びと分からない身なりをしているので、もしかするとお姫様のお付きだと思われているのかもしれない。
与平は一瞬、引き留めようとした。
だが不安そうなお姫様の様子を見て、口を挟むのをやめた。
土佐まではいっしょに行けない。
だが、せめて船が出るまでは。
鈴の気持ちは手に取るようにわかる。
田村が懐から布の包みを取り出して、投げた。
港の踏み締められた石畳の上に、チャリンと硬質な音がした。
「……ご苦労だった」
「田村」
諫めようとしたのはお姫様だった。
若君も小次郎様も顔をしかめている。
だが与平は軽く首を振って、黙ってその場を去った。
もちろん、銭袋は拾わなかった。
お姫様たちと鈴が、小舟に乗って商船に向かう。
沖合に停泊した船の帆は巻き上げられ、夜の闇の中で静かに漂っている。
一番心配していた、商船に乗るまでも問題なかった。
垂れた縄と、籠のようなものを使って、ひとりずつ船に乗り込んでいく。
遠目、異変はなにも見当たらなかった。
与平はそのことにほっとしながら、更に用心深く夜の町を見回した。
出航は早朝だ。仲間の半数が東回りの船に乗る。残りは八雲に伴走して足で相模に向かう。
今回の話を聞いて、御屋形様はなんと仰るだろう。きっと激怒なさるに違いない。
そういえば、相模の戦況はどうなっているだろう。今頃小田原攻めをなさっているのだろうか。
とりとめもなく、そんな事を考えていた矢先。
「……与平」
港の影と一体化して、商船を眺めていた八雲に名を呼ばれた。
珍しい事だった。
同時に、何かがおかしいと感じた。本能の奥底で土を噛むような不快さだ。
ピュイと指笛の音がした。
危険を知らせる合図だった。
海のほうから。
与平ははっとして、お姫様たちが乗り込んだ商船に目を凝らした。
日向屋が用意した商船には、日向屋の船乗りたちと、数人の一条家の家臣たちが乗っている。お姫様たちとも顔見知りで、信頼がおける男のように見えた。
そう……思っていたのだが。
与平は耳を澄ませて続報を待った。
鈴なら、普段の鈴なら、抜け目なく合図を送ってくれるはずだ。
だが、最初の一音があってから、続きが聞こえない。
遠いから聞き取れないのか? それとも……。
「八雲は書簡を」
与平はそう言い置いて、息を吸った。
今すぐ海に飛び込んで、お姫様の乗り込んだ商船に泳いでいくつもりだった。
海に向かって身を乗り出した与平の腕を、八雲が掴んだ。
何故止められたかはすぐにわかった。
与平はスッと息を飲んだ。声がこぼれないように唇を嚙んだ。
……京兆軍だ。
湊に現れた軍勢だけではなく、海からも小舟の集団が大量に押し寄せてきていた。
小舟それぞれに、複数の松明を持つ者がいる。
これまでは火を消して、夜の闇に乗じて距離を詰めていたのか。
ではきっと、お姫様たちが乗り込むのをどこかで見られていたのだ。
バッと、日向屋の商船が帆を下ろした。
明るい月明かりの中で、その白々とした大きな帆が風をはらんで膨らんだ。
質問がありましたので簡単に説明
皆さん大好き三好殿は、阿波細川家の守護代です
先の戦で、阿波公方を擁して上洛し、なんだかんだあって、阿波公方が幕府の将軍職を継いだ、というのが春雷記の話
その後三好殿は京で大きな権力を握るようになりますが失脚
次は、阿波にいた細川晴元を引き連れ、京兆家を継がせてその後見につきます←イマココ
つまり、今の足利将軍と阿波細川氏は、三好殿を一度切り捨てたわけで
政敵状態です
阿波にいた三人が
ひとりは将軍
ひとりは阿波細川家
ひとりは細川京兆家の当主になっている状況です
ちなみに、京兆家というのは細川の本家とされています




