10-3 相模 小田原城2-3
陽光がまばゆく輝いている。
空はどこまでも青く澄み渡り、雲はひとつもない。
庭先の松の木の先に、スズメの倍ほどもある鳥が止まり、甲高い声で鳴いている。
小田原城、大広間。
孫九郎は最上座で、呼び寄せた新参の男を迎え入れていた。
「奥平様より、直接お渡しするようにと申し付かりました」
丁寧な口上と、まだ若干の京訛りを感じさせるよく通る声。
下級の文官から、その才覚で昇りつめた男、松田は、上品な笑みを浮かべながら言った。
「必ず隅々まで目を通すようにと」
「……こんなところまで持ってこなくても」
「いいえ。急を要するとおしゃっておられました。我らも家臣として同じように思うております」
たいそう丁寧に運ばれたつづらの中には大量の書簡。何かなど見ずともわかる。
孫九郎はそっと視線を逸らせたが、側付きその他、ほとんどの者の表情は興味津々だ。
「他には何か、そうだ三河の様子はどうだ」
有能な文官である松田九郎は、必要なことはすべて頭に入れてきたようだ。孫九郎が知るべきことを、書付など見ることなくスラスラと答える。
その合間合間に、つづらの書簡を読むようにと勧めるのはやめて欲しい。
「わかった、わかった。必ず読む故その話はあとにしてくれ」
「では、明日にでもご感想をお聞かせください」
感想? 釣書に感想も何もあるか。
だが……わかっている。ずっと後回しにしてきたが、そろそろ本腰をいれて考えなければならない。
「遅くなりました」
下座のほうから、控えめな声が聞こえた。
邪魔をしないよう静かに広間に入ってきたのは承菊だ。
すっと開いた障子の間から、墨色の法衣が覗いた瞬間、孫九郎の視線はそこに釘付けになった。
一礼して上げた承菊と視線が合う。
普段通りのにこやかな表情で、特別に変わった何かが読み取れたわけではない。
だが、ぎゅっとみぞおちのあたりが強張った。
そう感じたのは孫九郎だけではないようだ。
それまでは穏やかだった場の空気が、いつの間にかガラリとかわっていた。
承菊は孫九郎から視線をはずし、ぐるりと広間を見回した。
その表情は、一見、いつも通りに見える。いや、普段よりも静かで控えめな微笑みだった。
だが、孫九郎は確信した。
承菊が待ちに待っていた知らせが来たのだ。
「甲斐か」
孫九郎がそう問うと、承菊は丁寧に両手を前についた。
「いえ、信濃にございます」
孫九郎はしばらく無言で、そのつるりと綺麗に剃り上げられた頭を見つめた。
承菊の父を筆頭とする旧庵原衆らは、甲斐で蜂起しようとしていた。
いや蜂起というには穏便で、孫九郎にとっての異母兄にあたる男を、当主が討ち死にした家の養子として送り込んだだけだ。
おそらくそこには、甲斐を取り戻そうとした武田家の思惑もあったのだろう。
それは上手く行きかけていて、どこからも苦情は出ないままに、穏便に進むはずだった。
庵原の思惑としては、いずれ甲斐で勢力を増し、あるいは武田を食ってでも大きくなり、今川家の正当な後継ぎだと名乗り出るつもりだったのかもしれない。
だがそこで、武田の当主である太郎殿が帰還した。
太郎殿は中途半端な策謀を許さなかった。
分家が結んだ婚姻は破談にされ、庵原が仕込んだ養子の件もなかったことにされた。
水面下で動いていたいろいろな皮算用を一蹴し、自身の健在を示したわけだ。
甲斐は多少混乱したが、大きな戦いは起こらなかった。いや起こりかけていたのかもしれないが、太郎殿につけた父や朝比奈殿の軍勢が、起こさせなかった。
そこで庵原はどうしたか。
わずかな手勢を連れて、信濃へ向かったのだそうだ。
こんな時代だから、領地や主君を失いさまよう武家は珍しいものではない。
庵原らは小笠原家に拾われた。
もともと能がないわけではなかったのだろう、村上家との戦に重用され、手柄を上げた。
あの村上殿と戦って勝ったのか? そんな疑問もわくが、実際は単純なことで、最前線での槍働きではなく、小荷駄の配備や搦手の動員などの、小笠原家にはこれまでなかった面での才が認められたのだそうだ。
承菊の表情には、かすかな喜びが垣間見える。
それが、まだ多少なりと残っていた親への情なら可愛いものだが、きっと違う。
泥水をすすって生き延びようとしている父を、さらなる地獄へ突き落す瞬間を想像しているのだろう。
孫九郎は、静かに目を閉じた。
太郎殿が甲斐をきちんと押さえてくれた。
おかげで、心配のひとつが減った。
承菊の思惑とは少し違ったかもしれないが、これで庵原は完全に今川家から離れ、次に会う時は敵になるだろう。
小笠原と村上との対立は、変わらず拮抗しているそうだ。
だが、今回の山内上杉家の内紛は、村上殿の信濃における勢力拡大の面では不利に働く。
これまでより更に、リソースを信濃側だけに裂くわけにはいかなくなるからだ。
「小笠原か」
ふと、小笠原家について気になる情報をくれた桔梗の姫の事を思い出した。
十日とあけず文が来ていたから、ここしばらくの分が届いているかもしれない。
目をあけて、つづらのほうを見る。
「奥平様からもうひとつ」
松田が口をひらいた。
「いくつか書簡が届いております。御屋形様がつづらの中をご覧になられず、気づかれないやもしれぬと」
孫九郎の耳に、奥平の小言が直接聞こえた気がして、軽く咳ばらいをする。
「どこからだ?」
「藤波家と、土岐家と、堺衆のいくつかの店からと……一条家です」
孫九郎は立ち上がり、つづらに向かった。
蓋を開けさせて、ぎゅうぎゅうに詰められた中身を見てげんなりする。
この中から探すのか?
松田がにこりと朗らかに微笑んだ。
「長旅故に、混ざってしまってもうしわけございません」
……わざとだな。
よほど釣書を読ませたいらしい。




