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夏颯記  作者:
本編

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10-1 相模 小田原城2-1

 関東は混乱の坩堝にあったが、相模は平穏だった。

 それは嵐の前の静けさではなく、圧倒的な武力による領域の制圧によるものだ。

 穏便に進めようとしたこちらの気遣いを無下にしたのは、相模衆のほうだ。

 うちの軍師どもが仕組んだんじゃないかって? 誰がそんなことを言っているんだ?

 長綱殿のやりたいことを、あえて遮らなかった。それが正しい言い方だろう。

 ……少なくとも、そうと明言できるような形で何かをしたわけではない。

「小田原を手薄にしただけだ」

「おかげで里見が動きましたが」

 孫九郎は、そばを歩いている次郎三郎を横目で見た。

 独り言にいちいち反応しなくていいんだよ。

 日課の散歩は、気晴らしというよりも鍛錬の一環で、同じルートを早足で延々と歩くだけだから、付き従う者も若手が多い。考え事にも最適の時間だ。

 いつもは邪魔をする次郎三郎ではないのだが、その表情を見るに、気になっていることがあるのだろう。

「承菊様は、お急ぎなのだと思います」

 何を、と尋ね返そうとして目で止められた。

 そうだな。ここは外の耳が多い。

 孫九郎の周囲にいるのは信頼がおける者たちがほとんどだが、庭先にはさすがに下働きの者もいて、現に木に梯子を立てかけている庭師たちが、仕事の手を休めてこちらを見ている。

 彼らが孫九郎をじっと見たくなる気持ちはわかる。いくら背が伸びてきたといっても、子供に見えるのは確かだろうから。

 孫九郎は再び考え事をしながら歩き始めた。

 承菊が急ぐ、となれば思いつくのはひとつしかない。

 何年もかけてネチネチと父親を追い詰め、とうとう討ち果たせる状況に落とした。

 承菊にとって、見逃せないメインイベントだ。最前列でその顔が絶望に染まるのを見たいに違いない。

 甲斐か。

 孫九郎は久々に、幸松の顔を思い浮かべた。どうしているだろう。怪我や病気はしていないだろうか。

 父と朝比奈殿がついているから、大丈夫だとは思うが、しばらく状況を聞いていなかったと思い至り心配になってきた。

 何も知らせてこないのが無事の証拠だとは思うが、あとで承菊に聞いてみよう。孫九郎よりも情報を追っているだろうから。

 ふと、庭先に武骨な集団を見つけた。少し煤けた見た目になった、庵原家の者たちだ。

 今、玉縄城には、松永率いる三千の兵が詰めている。後々、周辺の城にも兵を増やす予定だ。

 庵原の軍はそのまま、承菊に従う。

 いずれ相模を離れる時にはついてくるだろう。つまり、甲斐まで。

 そして彼らはその目で、己たちの先代の無様な有様を見せられる。

 ……不憫だが、口出しをする気はなかった。

「御屋形様」

 にこやかな承菊の、つやつやな顔を見上げて複雑な気持ちになる。

 松之助殿が疲労困憊すればするほど、この男の機嫌は上がるのだ。

「使者殿が、話をしたいそうです」

「使者殿?」

 問い返して数秒、ようやく思い出した。

 重傷を負って川を流されてきた生き残りの男だ。

 そういえば、古河公方側に生きている旨は知らせたが、何の反応もないな。

 今はそれどころではないというのもあるだろうが。

簗田やなだというそうだな」

「はい。公方様のご側近の家門の方のようです」

 もちろん側近本人ではなく、その息子か、一族の誰かだろう。

 使者としての格はある。こちらも正式な客人として対応している。書簡は川に流されてしまったから、用件はわからないということになっているが。

「山内上杉家と武蔵の状況を知っているようだったか?」

「いえまったく」

 孫九郎は濯ぎの桶から足を引き抜き、小姓に拭ってもらいながら頷いた。

「ではこのままで。何かが起こったようだが、よくわからぬという体で話そう」

「直接お会いになられますか?」

「簗田殿はそれを望んでいるのだろう?」

「はい」

 特にじらしているつもりも、もったいぶっているつもりもないが、直接会うのにはためらいがあった。

 言われることはわかっているし、上から目線で命じてくるに違いない。

 それが嫌というよりも、問題が顕在化してしまうのを避けたかった。

 古河公方には、ぜひとも今の戦いだけに集中してほしい。

 山内上杉家の内紛だけでも大ごとなのに、たとえば背後から小弓公方がその座を狙っているとか、実は江戸の北条氏は武蔵を食おうとしているとか、四方を敵に囲まれていると気付けば、間違って今度は今川を味方につけようとしてくるかもしれない。

 それだけは本当に勘弁だ。

「勘助はどう言っている?」

「簗田殿に接する者を最小限にし、知る必要がない事は知らせぬようにと」

「それでいい」

 孫九郎は部屋に上がり、出迎えてくれた者たちに頷きを返した。

 すかさず弥太郎が近づいてきて、白湯を差し出す。

「あとは……そうだな、主君の愚痴でも聞かせてやるとよい」

 簗田殿がどういう人物かはわからないが、小田原城の内側に入り込めたからには、なんとしでも情報を持って帰りたいと思っているだろう。

 小出しにされた情報のかけらを必死に拾うはずだ。

「主君というのは、御屋形様のことですか? 左馬之助殿のことですか?」

「どちらでも」

「わかりました。我儘者でやんちゃで、人の話など全くきかない御屋形様の話をさせましょう」

 ……それは嫌味か?

 孫九郎はじろりと承菊を見返し、脇息に肘をのせた。

「とんでもない暴君だとでも言うておけ」

 「ぶっ」と、どこかで誰かが噴き出す音がした。

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― 新着の感想 ―
承菊さんがワクワクテカテカしてらっしゃる。 本懐を果たしても燃え尽きないと良いんですが。
お屋形様評、正確ですよね?
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