9-7 相模 小田原湊2
広間とはいえ、普通の部屋の襖を外した二間続きの部屋だ。
広くはないし、調度品が豪華に整っているわけでもない。
それでも、背筋を伸ばして座る静殿がいるだけで、場の空気そのものの格が上がる気がした。
背筋が伸びる雰囲気とはこういう事を言うのだろう。
孫九郎は上座に座り、部屋の中央に座る母娘を観察した。
たおやかに、毅然として礼を取る静殿と、憮然とした表情でそっぽをむいている葵殿。
なにもかもが、まったく似ていないふたりだ。
「……っ」
しばらくして、葵殿がビクリと身じろいで、渋々と頭を下げる。
孫九郎は見逃さなかった。
静殿の手が素早く動き、背後に伸びたのを。
ここからは見えなかったが、軽く窘めたのだろう。
感心して、頷く。
「さぞ苦労をされただろう」
左馬之助殿もそうだが、扱いづらそうな葵殿のことも。
「さほどのことはございませぬ」
すっと背筋を伸ばして座る小柄な静殿。
その片手は後ろに伸び、ぎゅっと葵殿の着物を掴んだままだ。
「ええ、まったく」
極めてフォーマルなその笑顔は鉄壁で、娘の態度を窘めながらも、一度として夫君たる左馬之助殿を見ない。
……これはもう、旗色は明らかだな。
孫九郎はあっさりと、どちらにつくか決めた。
負ける戦はしない主義だ。
「伊豆に戻りたいと聞いたが?」
「お許しいただけるのであれば。旧領はすでにありませぬが、代々の菩提寺がございます」
「し、静!」
情けない左馬之助殿の懇願の声が上がったが、もはや孫九郎でさえそちらを見なかった。
「この子とふたりで、そちらに世話になろうと思うております」
明確な静殿の返答に、孫九郎は頷く。
「ではその周辺を富永家に返そう」
「まことでございましょうか」
「孫九郎殿!」
夫婦の声が同時に響いた。
静殿ははっきりとした喜色で。左馬之助殿は狼狽の声だ。
「苦労をしたぶん、ゆっくりするがよい」
「ありがとうございます」
ふっと、静殿の微笑みから固いものが抜けた。
そこに本来の、彼女の柔らかさが覗く。
美しく、かわいらしく、妻として申し分ない女性だ。彼女ほどの人を正妻にしておきながら、ふらふら寄り道をする左馬之助殿のほうが明らかに悪い。
とはいえ、長くこの男を駿府に留め置いていた負い目が、孫九郎にもあった。
「戻ってくる気はあるか?」
隣で、左馬之助殿の喉がひゅっと鳴った。
静殿はにこりと笑った。
「さあ、どうでございましょう」
明言はしなかった。だがそれこそが、彼女なりの返答なのだと思った。
「……なるほど」
「いや待て、待ってくれ」
このままだと、静殿と孫九郎との間で話がついてしまうと思ったのだろう。
左馬之助殿が慌てて腰を浮かせる。
「たのむ静、話を……」
「話をする機会なら、随分あっただろう」
「孫九郎殿はどちらの味方なのだ!」
「静殿だが」
衝撃を受けた表情で見られて、孫九郎は肩をすくめた。
こいつ、本当に分かっていないな。
静殿が本気で離縁を望むなら、「戻るつもりはない」と断言しただろう。
つまりこれは、十分に余地が残されているということだ。
これほどの女性にここまで思われて、情けない面をするな。本当の本当に捨てられるぞ。
孫九郎と静殿は、そろって呆れた目で左馬之助殿を一瞥してから、会話の続きに戻った。
「気がかりなのは、側室とその姫君たちのことです」
「そういえばそうだな。方々の意向はどうなのだ? 小田原城に戻るつもりは?」
「先の殿に、姫たちの嫁ぎ先について話しをされましたが、おそらく流れておりましょう。治部大輔様にお任せしたいのですが」
「母上っ!」
それまでは不貞腐れたように黙っていた葵殿が、不意に大声を上げた。落ち着いて芯のある静殿の声とは違い、狼狽し上ずった声だ。
こういうところも父親似だな。
この部屋にいる全員が、性差はあれど父と娘がそっくりだと思っただろう。
他ならぬ、静殿も。
「そなたのことではありませぬ。そなたはまだとても嫁には出せませぬ」
重ねて、ため息が聞こえた。
腰を浮かせていた左馬之助殿と葵殿が、その場で凍り付いた。
「……お直りなさい」
「は、母う」
静殿は背後を振り返らず、ただ葵殿の着物の裾を引いた。
「おまえ様も」
静殿の目が、キラリと硬質に光った。
「治部大輔様の御前で、尻を叩かれたいのですか」
息をのんだのは、左馬之助殿ではなかった。葵殿でもなかった。
見ていて面白いぐらいに、ふたりは同時に口を閉ざし、同時に床に腰を下ろした。
左馬之助殿はともかくとして、反抗期真っただ中の葵殿なら激昂しそうな言葉だが、二人はまるで条件反射のように何も言えなくなっている。
いや、面白い。小柄な静殿が左馬之助殿を折檻するのか。
ほんの少し見てみたい気もしなくはなかったが……武士の情けだ。それは夫婦二人きりになってからにしてもらおう。
「いいだろう」
孫九郎は笑った。
「姫君たちの嫁入り先、あるいは婿取りの件はこちらでも考える。希望があれば申すがよい」
「ありがとうございます」
「ただひとつ。左馬之助殿を許せとは言わぬが、話は聞いてやって欲しい」
「……まあ」
静殿は少し目を大きくして、孫九郎を見た。
じっと見つめられると……なるほど、言葉にはし辛いが、落ち着かない気持ちになるな。
「さて、顔を見ることができた故、引き上げるとしよう。左馬之助殿は残るといい」
「えっ」
露骨に、置いていくなという表情をされたが首を振る。
今ここで逃げたら、本当に静殿を失ってしまうぞ。
すがるように見つめられて、仕方ないなと苦笑する。
「こういう時は、誠心誠意謝罪するものだ」
去り際、こっそりとアドバイスはしておいたが、どうなることやら。
孫九郎は尻を叩かれる前に撤退したので、その後どうなったかは知らない。
これ以上、夫婦間の問題に口を挟むのは、内政干渉、越権行為というものだろう。




