9-6 相模 小田原湊1
小田原へ戻る道は平穏だった。
だが、行きのようにのんびりと進むわけにはいかない。
また足止めを食らう前に渡河し、小荷駄は後からゆっくり来てもらうことにして、先を急ぐ。
やがて見えてきた城の形は、出る時とそれほど変わらないように見えた。
普請は中断しているが、どこかが燃えたとか、破壊されたとかいう感じではない。
「ご無事で」
孫九郎の顔を見るなり、勘助が言った。
特に何事もなく通常通りのその凶相に、無言の頷きで返す。
早馬で息が上がっているわけではない。
無事な顔に出迎えられてほっとしたのだ。口には出さないけど。
小田原では、相模衆の蜂起は「すでに終わった事」として扱われていた。
加担した者たちの処分は終わり、そいつらの領地は接収した。
勘助はちゃっかりそれを今川の直轄にしていた。ただ取り上げただけなら不満も出たかもしれないが、今のところ納得しているものが大半のようだ。
もちろん、実際に謀反に加担したのは全員ではない。中には、そういう動きがあるかもしれないと進言してきた者もいた。
目端の利く者は出世し、素早く変化に順応できない者は立場を落とす。
どの時代も、社会の基本は変わらないということだ。
孫九郎は帰還してすぐ、小田原湊へ向かった。
先触れは出したが、返答を待つことなく出発した。
数キロの距離なので、時間は掛からない。
川も馬で直進できる程度の水位だった。
近づくにつれ、町が見えてくる。
建物が連なったその外観よりも、周囲に立っている旗や幟のほうが目について、小田原城より厳重に守られているように見えた。
孫九郎はちらりと、傍らの男を見上げた。ものすごく緊張しているのが伝わってくる。
戦場であれば、どれほどの敵に囲まれてもここまで難しい顔はしないだろう。
だが今は肩を丸め、少し血の気の引いた顔で視線を落としている。
「左馬之助殿」
こぼれかけたのは慰めだが、途中でそれは不要だろうと思った。
夫婦間の問題は、なるようにしかならない。
無理に仲裁をするつもりもなかった。
ただ、この男のへこんだ顔は、見ていて気の毒だとは思う。
自業自得だという思いも多少はあるけど。
「奥方がどうしても」
「そんな事を言うてくれるな」
孫九郎の言葉にかぶせた返答。
左馬之助殿は情けなく眉を下げ、広角も下げた。色男が台無しだ。
いや、こういうのが女性の母性本能をくすぐる顔なのかもしれない。……参考には出来そうにないけど。
足の重い左馬之助殿を引き連れて、町の一番高台にある屋敷に向かう。
厳重に守られた屋敷だ。ジロジロと、左馬之助殿を見る目が厳しい。
咎め立てするその視線からみて、奥方の実家である富永の者なのだろう。
入口の四つ足門のところで、左馬之助殿の足が止まった。
孫九郎は振り返って、青白くなったその顔を見る。
仕方ないなと溜息をついた。
引き返して、その背中を押す。
「行きますよ」
「うっ……心の準備が」
「準備など不要です」
ぐいぐいと力を込めて押すと、やがて渋々と足を踏み出した。
おおむね丁寧な礼をもって迎え入れられた。
だが少し来るのが早すぎたらしい。
支度が整っていないからと広間で待たされた。
白湯が運ばれてくる。ガブガブと一気飲みするのは左馬之助殿だ。
「……」
その喉ぼとけの動きが、不意に止まった。
孫九郎も気づいた。
かすかに声が聞こえる。穏やかならざる声だ。
言い争っているのは、女のようだった。
その段階でもう、左馬之助殿は役に立たなくなった。
誰の声かわかったからだろう。
これは……聞こえないふりをしたほうがいいのか?
しばらくして、ひと際大きく激しい口調なのが、葵殿だというのがわかった。
母上! と叫んでいるから、相手は左馬之助殿のご正室だろう。
肝心な左馬之助殿は固まったまま動かない。
ため息がこぼれた。
「母上! い、痛い……痛いです!」
たっぷり四半刻ほどの言い争いの末、声が近づいてきた。
痛い痛いと叫んでいるのは葵殿だ。
それに対する、ご正室の声は聞こえない。
荒い足音が近づいてくる。
葵殿の、苦痛を訴える声。その理由はすぐに分かった。
開け放たれた廊下の先から、小柄な女性が背筋を伸ばして歩いてくる。その細い手が掴んでいるのは……葵殿の耳だ。
ちらりと見た左馬之助殿の顔色がなお一層悪い。経験者か?
ご正室は、部屋の前で立ち止まって、そこでようやく手を離した。
素早く離れようとした葵殿だが、さっと着物の裾を踏まれて動けなくなる。
……なるほど。
孫九郎は、何事もなかった風に膝をつき、一礼するその女性をまじまじと見た。
予想していたような“強い武家の妻”という雰囲気ではない。葵殿の母親にしては若々しく、年齢不詳。美人というより、かわいらしい人だ。
「恐れながら申し上げます。北条左馬之助の内、静でございます。この度はご威光いよいよお盛んなる由、まことに慶賀に存じます――」
ものすごくちゃんとした挨拶だった。
まだ長々と続く口上のなか、カタリと音がしたので横目で左馬之助殿を見る。
……えっ、震えてるんだけど。
「し、静」
情けない男の懇願まじりの呼びかけを、静殿は無視した。
聞こえなかった振りではなく、完全にいない者としている。
これは……なかなか深刻そうだ。




