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夏颯記  作者:
駿河編2

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108/115

12-9 志摩 神島9

 ふらりと現れた東雲は、少し離れた場所から孫九郎の様子を眺めていた。

 気づいたのは次郎三郎で、促されてそちらを見ると目が合って、相変わらず白い男が庭先で軽く手をあげる。

 額を突き合わせて、これからの事を話し合っていた会話が途切れ、皆が東雲のほうを見る。

 孫九郎は立ち上がり、狭い社務舎の壁沿いを擦るようにして濡れ縁に出た。

「やあ、孫九郎殿」

 その挨拶は記憶の中にある通りの気安さで、ひどく懐かしいものだった。

「少しええか」

「はい」

 誘われて、沓脱石から庭先に下りる。

 東雲の表情に特筆するべきものはなかったが、みぞおちの奥に固いものが沈んだ。

 良くない話だ。すぐに察した。

 身分柄、完全な人払いは難しいが、それは東雲のほうも同様だろう。

 少し距離を置いた場所に灰色の装束が見える。

 東雲はスタスタと社の敷地を出て、湊へ向かう階段のほうに足を向けた。

 どこまで行くのかと思いきや、鳥居の側で立ち止まった。

 吹き上げてくる潮風が、心地よく頬を撫でる。

 眩い海が眼前に広がり、その先に伊勢湾。

 今日は天気がいいので、遠くまでよく見える。

「愛姫のことや」

 さわさわと揺れる茂みの音に紛れて、思わず問い返したくなるような囁き声だった。

「土佐には連れて行かず、どこぞの門跡へ入れられるつもりのようや」

「……それは」

「姫も覚悟されとるやろう」

 孫九郎は何も言えずに黙った。

 せっかく生き延びたのに。必死に弁千代君を連れて祖父の元にたどり着いたのに。

 髪を失い、顔に傷を負った姫は、こういう結末を辿るのか。

 頭では理解できる。そう考える者も多いのだろうと。だがそんなものは愛姫様の価値ではない。

「孫九郎殿」

 風が吹く。夏の熱のこもった風だ。

「寒月様のお口からは言えぬことや」

 東雲の視線は遠くの陸影を見ている。

「一条家の珠を、もろうてやってくれんやろうか」

 届いた声はやけにはっきりとしたものだった。

「そのような」

 愛姫様は“もの”ではないと、反発の言葉が込み上げてくる。

 だがこちらを見ない東雲の表情が、厳しい一条家の現状を突き付けていた。

「……そうか、嫌か」

 断じて嫌だと言う意味ではない。皇子の妃になるはずだった公家の姫君が、東海の田舎武者に嫁ぐなど、それこそ愛姫様にとって酷ではないか。そう言いたかった。

「わかっておいででしょう」

 孫九郎は顔を顰め、この話が他の誰かに聞かれはしないかと周囲を見回した。

 護衛は声が届くところにいない。鶸ですら距離がある。

 何よりも、愛姫様の耳に入ってしまうのではないかと恐れた。

「一条の側室の子が後継の申し立てをしたそうや。御上も長くは留め置けぬやろう」

 東雲はそう言って、潮風に痛んだ木製の鳥居に手を置いた。

「公家はこの先、どう生き延びるかの選択をせねばならぬ」

 果たしてそれは、公家界隈の政争の話だろうか。帝の御威光そのものを飲み込もうとする、武家の風潮の話だろうか。

 しばらくして、東雲は再び口を開いた。

「土佐に、先の帝の御遺詔ごいしょうがある」

 孫九郎は息を飲んだ。

「取り戻さねば、一条家だけではなく皇家にまで障る」

 聞いてはいけない話だと思った。

 だが、東雲があえてそれを口にした理由をおぼろげにだが察した。

 中納言様は土佐に、その御遺詔とやらを取りに行ったのか。

「寒月様は、万千代君を連れて土佐に戻るおつもりです」

 孫九郎がつぶやくと、東雲がクルリとこちらを振り返った。

 長い袖が風を孕み、ぱたりと音を立てた。

「取り出せるのは、当主あるいは後継だけや」

 御遺詔はどこかに厳重に保管されているか、あるいはそれを使うことができるのは当主あるいはその後継だけという決まりがあるのだろう。

「……大内家の狙いはそれですか」

「寒月様はそうお考えや」

 孫九郎は長い息を吐いた。

 想像の斜め上だ。大内には、領地を広げること以上の野望があるということだ。

「孫九郎殿」

 寄せられた東雲の顔には疲労の影があった。

 中納言様は東雲の友人だ。先の帝は血縁上の父親だ。

 このお方にとっても、深い縁がある問題だ。

「これは公家の事情や」

 囁く声は小さいが、細くはない。

「先の帝も、武家が関わってくることなど望んでおられぬ」

 じっとこちらを見下ろしてくるのは、成し遂げなければならない何かがある男の顔だった。

「せやけど大内も細川も、土足で踏み込んで来ようとする」

 孫九郎は静かに唇を引き締めた。

 その声を、言葉の意味を、しっかりと受け止める。

「寒月様は、今川家を巻き込むわけにはいかぬと仰せや」

 だから愛姫様を娶れと言う話になってくるのだろう。

 西の大国と、東の大国。

 距離がありすぎるので直接対立することはまずないと思うが、国力で殴り合うとなればいい勝負をするだろう。

 孫九郎は目を閉じた。

 一条家を見捨てるつもりはない。

 だが愛姫様を正室に据えれば、公家の問題に近づきすぎてしまう。

 それは、目に見えないいくつもの軋轢を生むだろう。

 ……だから何だ?

 孫九郎は瞼を開いた。真正面に、東雲の深刻そうな顔がある。

 ふと、笑い飛ばしてやりたくなった。

 覚悟ならとうにできている。

 今川家の当主として生きるのは、そういうことだ。

「少し猶予を頂けませぬか」

 孫九郎の返答に、東雲は何かを言いかけて黙った。

「……愛姫様が望まぬことをするつもりはありませぬ」

 いくら兄のように慕ってくれているとしても、その相手に嫁ぐというのはまた別の話だ。

 こちらをじっと見つめる目がわずかに揺れる。

「よいのか」

「己より背の低い男子など嫌だと仰るかも」

 ふっと、東雲の唇が震えた。

 孫九郎も頑張って、笑みを浮かべた。

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― 新着の感想 ―
長い道のりでした。 はっきりと東雲様の口から縁談話が出て胸が一杯で…何度も読み返していますw 思えば何年か前に愛姫のお父上から嫁に貰う気は無いか?みたいな話出てましたよね。 寒月様も中納言様も、そし…
男やったら腹を括らんといけん時がある。 そういう話じゃなぁ。
ついに孫九郎君と愛姫様が! 嬉しすぎて何回も読み返してます。 本編もですが読者の心が一つになった感想欄もまた読んでて楽しいですね。 次話が待ち遠しいです。 あと、みんな孫九郎君と愛姫様に気を取られて…
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