03.
頭痛を覚え、フィリベルトは額に手を当てた。
身体はいたって健康なので、この痛みは精神的なものだ。要因が解っているだけに、眉間に皺がよる。
「どうした、疲れたか」
書類を引き渡しにきていた騎士団長のリザンドロが様子を伺ってきた。どうやら溜め息まで零れていたようだ。
「今日の分、そんな量多かったか?」
「いや、いつも通りだ。仕事で疲れた訳じゃない」
フィリベルトは副団長なので、彼は上官にあたるが騎士団のなかでは互いにくだけた態度で接している。平民あがりでリザンドロが上下関係に厳しくないというのもあるが、二人が今の立場に就くまでに同志といえる絆を結んだからだ。性格も得意分野も真逆ながら、だからこそ互いの及ばない点を補い合う関係が築けている。
以前は会計に身をおいていた事務方のフィリベルトに、ルーティーンとなっている書類仕事は大した負担にはならない。それをリザンドロも知っているので、別の可能性に気付く。
「婚約者は、まだ起きないのか?」
「……昨夜、意識が戻った」
気遣いげな問いに、フィリベルトは喜ばしいとはとてもいえない表情で答える。
「よかったじゃねぇか。お嬢ちゃんの親御さんも安心したろ」
彼の芳しくない反応に首を傾げながらも、リザンドロは我がことのようにニナの目覚めを喜んだ。
「それが……、まだ体調が万全といえなくて、彼女の両親にいつ伝えるか悩んでる」
どう万全でないかは濁した。本人の許可なく親族以外に話していい内容ではない。それでも、リザンドロは会わせた両親が顔色を悪くする可能性のある状態だとくみ取ってくれた。
「一週間も寝込んでりゃ、そりゃなぁ。胃も縮んでそうだし、親御さんには、お嬢ちゃんの元気な面を見せてやりてぇよな」
触れられたくないところは避けて、フィリベルトの立場に寄り添った意見をくれる。感覚的に機微を読み取ることに長けているのが、フィリベルトが彼を認めている点のひとつだ。
通常通りの食事ができるようになるなど、一定の回復を目途に会わせてやった方がいいと、リザンドロは助言する。フィリベルトもそれに同意した。それぐらいが婚約者の記憶喪失が一時的なものかどうか見極めにもなるだろう。
「いずれにせよ、覚悟しないとな」
記憶の有無にかかわらず、彼女の両親にはあらためて謝罪し、二人に責められる覚悟がいる。目覚めるまでは娘の身が心配でそれどころでなかっただろうが、婚約者の立場のはずの自分が傍にいる状態で彼女が怪我をしたのだ。責任を問われるのは必至。
生真面目に思い悩む彼に、リザンドロは肩を竦める。責任を軽くみないのは長所だが、悪い方向へ思い詰めすぎている。ぽん、と彼の背中をたたき、婚約者のために今日も早く帰ってやれと声をかけておく。
リザンドロの助言の通り、フィリベルトは終業してすぐ帰宅した。
自身の夕食より先に、婚約者の世話を任せていたメイドに、彼女の様子を確認する。
「食事はとれているか?」
「はい、朝は消化のよいパンがゆにしましたが、昼食は固形物を問題なく口にされていました。夕食も汁物中心だったとはいえ、出した分は食べきられましたよ」
肉をほろほろに煮込んだクリームシチューを美味しそうに食べていたとのことだ。身体の方は順調に回復しているようで、フィリベルトは胸をなでおろす。食欲があってよかった。
「なので、夕食はすぐご用意できますが」
「いや、それよりも……、ああ、うん。やはり食べてからにしよう」
自分の分の食事をどうするか確認され、フィリベルトは一度後にしようとした。だが、考え直す。彼女の状態を確認するのは、心の準備をしてからの方がいい。
食卓につくのにあわせて、夕食が並べられる。シチューを口にすると、そのあたたかさでほっとした。自分には幼い頃から食べ慣れた味だが、彼女の口にもあったようで何よりだ。
腹が満たされてから、婚約者に宛がった客室へ向かう。普段はほとんど訪れない部屋だが、ここ一週間は毎日一度は訪れていたので日課になりつつある。
ノックをすると、現在の部屋の主からどうぞと入室の許可がでる。昨日までは返事なく控えていたメイドがあけるだけのドアだった。ドア越しに反応があるのは、これがはじめてだ。そんなことを感じながら、フィリベルトはドアノブに手をかけた。
客室に入ると、ニナはベッドで身を起こしており、本が膝の上で開かれていた。朝に呼んだ医者の診察で、外傷は完治しているが念のため一日ベッドで休んでいるよういわれたようだから、起きている間の暇つぶしに用意されたのだろう。
「帰られたんですね。おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
自分の家でもないのにいっていいのかとニナは迷いながら、フィリベルトも執事やメイド以外からいわれ慣れないながら、帰宅の挨拶を交わす。
「どうだ?」
ベッド脇の椅子に座り、フィリベルトが訊ねると、ニナは静かに首を横に振った。何の確認かはわかりきっていた。
「何も」
思い出せていない、と正直に答えるニナに、フィリベルトは肩を落とす。医者の診断では、後頭部を強く打ったことによる記憶障害とのことだった。
自然と視線がさがり、ニナの手元の本が目に入る。タイトルからして恋愛小説のようだ。自分の所蔵にはないジャンルなので、母親のものだろうか。
「あの、わたしはどんな人でしたか?」
もとの人物像が気になり、ニナは目の前の婚約者に訊ねた。フィリベルトは少し考えて、答える。
「ニナ嬢は、流行りものを好んでいた」
流行のものを贈れば喜び、夜会のドレスも流行に合わせて変えており、似合うかとよく訊かれた。
以降が続かないものだから、ニナは小首を傾げる。
「えっと、他に好き嫌いとか、友達とか……」
「それは、君の両親が知っているだろう」
嗜好や交友関係などを確認されたので、フィリベルトは確認先を答える。記憶が戻らなくとも、彼女の両親が教えてくれることだろう。
次の問いまで、わずかに間が空いた。
「この小説にあったんですが、思い出の場所に訪ねたりするといいみたいです」
恋人の記憶を取り戻すため、主人公が試行錯誤するラブストーリーだった。二人の思い出の場所へいくごとに、少しずつ記憶を取り戻してゆき、最後に告白した場所であらためて主人公が今の君にと告白し直すことで再び結ばれ、完全に記憶が戻るという感動ものだ。
「なら、君の両親に思い出深い場所を聞いておこう」
必要ならつれていくとフィリベルトは誠意をみせるが、思い出の説明ができない自分が付き添うより、当人に同伴してもらうべきか、と思案する。記憶回復に協力するつもりではあるが、力添えできることが存外少ない。
今後の対応をどうするか考えていたフィリベルトに、ニナがおそるおそるといった様子で問うた。
「……あの、もしかして婚約して間もないんですか?」
「いや、婚約したのは約半年前だ」
「じゃあ、お仕事忙しくてほとんど会えていない、とか?」
「この国の騎士団で副団長に就いているが、業務量は適切だ。最低週に一度は会っていたし、夜会ではかならずパートナーになってもらっていた」
「なら、家同士で決められた婚約?」
「私から君に婚約を申し出た。君も少なからず私を好いてくれていた」
ニナに契約結婚前提での婚約かと訊ねられ、自分から頼んだものであり、両家の許可はそのあとにとった旨を答える。なぜ彼女はこんな質問をするのか、フィリベルトは首を傾げる。彼女も彼女で、得た回答が腑に落ちない表情をしていた。
「そう、ですか」
ただ、納得した様子でないもののニナは頷き、それ以上追及することはなかった。
食欲があり、記憶障害以外に身体に不調はないとのことだったので、明日以降は健常者扱いでいいかフィリベルトは確認する。ニナも健康なのにベッドに横になってばかりは退屈だと、了承した。
「起床時間があうようなら、朝食は一緒にとろうか」
「あ……、はい」
ニナは、一瞬躊躇いをみせたあと、へらりと笑った。フィリベルトはその反応を意外に感じる。記憶を失くすまえにはみなかった笑い方だ。
明日の予定も決まったので、就寝の挨拶を交わして、フィリベルトは客室をでる。
「知らないんだ……」
ぽつり、としたニナの呟きは、ドアが閉まる音にかき消され、彼が気付くことはなかった。






