02.
フィリベルトの申し出から数日して、婚約の書類手続きが済んだ。
両家で相談のうえ、一年後に婚姻を予定しての婚約と相成った。婚約してからのフィリベルトは律儀に週に一度はニナと会った。どちらかの家でお茶をするか、街にでかけるか。彼と二人で過ごせる時間にニナは浮かれた。そして、月に一度は贈り物をくれた。贈り物はアクセサリーがほとんどで、ニナは贈られた次の夜会ではかならずそれを身に着けて参加した。それだけ嬉しかったのだ。
夜会にパートナーと参加するようになり、フィリベルトに直接絡む女性は各段に減った。かならず婚約者と同伴する必要はあるが、その分気疲れが減ったようで、ニナに向ける笑顔も優しいものだった。恋慕で乞われた婚約でないと知りながらも、多少は好ましく感じてもらえてるのではとニナが期待するほどには。
二人の婚約は順調に進んだ。それで、半年してからのニナの記憶喪失事件だ。
フィリベルトの邸で身支度して夜会に向かうところだったので、あまり動かしてはよくないと、彼のボーヴィ伯爵邸で療養させることになった。娘が倒れた報せをきいた両親はすぐに駆けつけたが、一日、二日と経ってもニナが目覚めないので、意識が戻り次第報せると約束してフィリベルトは帰した。娘の傍に残っても二人が憔悴する一方だと判断したからだ。
彼女が目を覚ましたのは、倒れてから一週間後のこと。
帰宅後フィリベルトが彼女を見舞っていたときに、ずっと閉じていた瞼が震え、ゆっくりともちあがった。
「よかった。痛みはあるか?」
「いえ……、あの」
「なんだ? 水なら飲めるか?」
倒れたときに後頭部などを打っていたが、さすがに一週間も休めば外傷はないに等しかった。声がかすれ気味なことに気付いて、フィリベルトはベッド脇のチェストに置かれた水差しに手を伸ばす。彼女がいつ起きてもいいようにメイドが一定時間おきに替え置いていたものだ。
「あなたは誰ですか?」
水差しを掴んだ手が、もちあげる前にぴたりと止まる。首をゆっくりと婚約者へと向ける。彼女の視線は、街で肩がぶつかった相手をみるときのそれだ。
「わたしは、一体どこの誰でしょう?」
そして、自分の名前や身元を知っているかと問うてきた。エメラルドの瞳は不安に揺れ、見返す瞳のなかに答えを探すかのようだった。
想定外の事態に固まってしまったフィリベルトだったが、一度深呼吸をして身体の緊張を解いた。それから、水差しをもちあげ、グラスに水を注いで彼女へ手渡した。
「私はフィリベルト、君の婚約者だ。ここは私の家だ」
「婚、約者……?」
こんなかっこいい人が、と彼女は目を丸くする。受け取ったグラスの水を飲んだので、声からかすれは消えていた。
「君の名はニナ・トッリ、男爵家の令嬢だ。倒れる前に階段を踏み外したんだが覚えているか?」
貴族なんだ、と意外に感じつつ、フィリベルトからの確認に首を横に振った。ニナには倒れる直前の記憶もなかった。目が覚めたら、知らない邸の一室で、知らない人がいた。そして教えられた自身の名もどこか他人の名をきいたようにしっくりこない。
ニナがグラスの水を飲み干したときには、フィリベルトは片手で口元を覆い、深刻に悩んでいた。
「君の両親に意識が戻ったら報せるといったが、今の君の状態をみたら倒れるかもしれないな」
フィリベルトは、交わした約束を違えることに眉を寄せる。ニナは自分の両親が健在なのだと知る。そして、どうやら娘想いの両親らしい。
思案の海につかり伏せられていた視線があがり、アメジストの瞳がじっとニナをみつめた。
「……一時的な症状の可能性もある。体力を回復させてからの方が君の両親も安心するだろうし、報せるのは数日様子をみてからでいいだろうか?」
「あ……、はい」
両親といわれても今の自分には知らない相手だが、心配してくれていたようなので、倒れさせるのは悪いなとニナは了承した。彼のいう通り、一時的な記憶障害の可能性も充分にある。
今後の対応を決めて、フィリベルトはメイドを呼んで、よく休むように言い含めて退室した。入れ替わりにきたメイドは、食べられる分だけで構わないと果物を用意してくれた。
口にしてみると果物のみずみずしさが身体に染み渡るようだった。一週間眠り続けていたらしいので、さすがに空腹だったのだろう。美味しかったが、皿に半分残してしまう。目覚めたばかりで急にたくさんは食べられないようだ。
体力が戻っていない状態では入浴は控えた方がいいと、メイドが身を清めるのを手伝ってくれた。記憶を失くしたニナにとって初対面の相手に肌を晒すのは、緊張した。もし既知のメイドを宛がってくれたのであれば、配慮が無駄になって申し訳ない限りだ。
用意された新しい寝巻に着替え、また朝に伺うとメイドは下がっていった。翌朝でなくとも何かあればベッドサイドのベルを鳴らして呼ぶようにとも。
夜なので眠るようにいわれても、一週間も眠っていたらしいニナに睡魔はなかなか襲ってこない。せめて身体だけでもと、ランプを消して、布団をかぶる。掛布団はやわらかく、枕の高さもマットの固さもほどよく寝やすいベッドだ。今のニナにわかるのはそれぐらいのこと。
知らない人しかいない知らない場所で過ごすというのは、こんなにも心許ないものなのか。教えられた名前すら自分のものだという実感がない。これから、その名で呼ばれてすぐに反応できるか自信がない。
世界にひとりぼっちになったみたいだ。
「早く戻るといいな……」
フィリベルトが希望的観測をしたように本当に一時的なものであればいい。記憶という寄る辺が戻るよう願いながら、ニナはその夜を過ごした。
不安に占められていたそのときは、願い通りになりすぎて記憶が戻った自分が後悔するとは思ってもいなかった。







