【28】 奇婦人メアリは身を隠す
貴族令嬢は、馬車で移動するもの。
それは、ロンディアナ王国において常識である。
しかし、ベケット家の家計は火の車。馬車を複数台用意することは、難しい。
実家から離れたロディム街で、一人暮らしをしているメアリのために馬車を手配する余裕は当然なく、いつか自分で蒸気自動車をつくって運転することが、彼女の夢の一つだった。
ちなみに、公爵夫人からは「いつでも手配しますわ」と言われている。
だが、衣食住を保障してもらっている身でさらに世話になりたくなかったため──公爵夫人に借りを作るのは嫌な予感しかしない。思い出あずかり屋以上の厄介ごとを押しつけられる気配がするからだ──メアリは「健康のためです」とお断りしていた。
「傘って便利よね」
ブツブツ独り言を言っても、おかしな格好をしていても、普段よりぐっと視線が減るのはとても快適だ。
考え事に夢中な時は視線なんて気にもならないけれど、考え事をしていない今のような素面の時は、やっぱり多少は気になってしまう。
小雨降りしきる夜、ドレス姿の令嬢が一人歩きしているのが物珍しいのだろう。
昼日中にドレス姿で歩いた時よりも注目を浴びている気がして、メアリは傘をグッと下げた。
柄が木彫りの猫になっている茶色の雨傘は、ふだん持ち歩いている日傘の次に気に入っている。
木彫りの猫といってはいるが、実際は猫とは思えない形相をしている。
耳は丸いし、目鼻はバランスが悪いし、ヒゲもなんだか変。
もともとは、メアリが赤ちゃんの時に歯固めとして母が自ら彫ったものだった。
形見となってからは傘の柄に加工して、ずっと使えるようにしている。
ところどころ噛み跡があったり、シミになっているのはメアリが噛んだせいだろう。
削って綺麗にすることもできたけれど、もう覚えていない赤ちゃんの時の自分と母の思い出が削り取られてしまうような気がして、そのままにしていた。
ちなみに、一番のお気に入りである日傘は隠し杖ならぬ隠し日傘だ。
不快な音を発したり、静電気を放出したり、麻痺針──メアリとしては麻酔針が良かったが、シェンファの協力があっても麻痺針が限界だった──を発射したりと、さまざまな工夫が施されている。
搭載された仕掛けを使ったことは未だないが、メアリはその日が来るのを心待ちにしていた。
「傘の中って、私だけの小さな世界みたい」
濡れたレンガ道を編み上げブーツで歩きながら、メアリは「私にしてはちょっと詩的だったかしら」と苦笑いを浮かべた。
こんなことを、らしくもなくスラスラ言ってしまうのは、いつも通りではない証拠である。
雨傘の柄を握る手がいつもよりも湿っぽいのも、きっと同じ理由だろう。
「あらあら」
空いている手を頰に押し当てながら、メアリは困ったように小首をかしげる。
「私ったら……浮き足立っているの?」
夜に誰かと会うのは、どれくらいぶりだろう。
舞踏会でもない場で、婚約者でもない男性と会うのは初めてのことだ。
しかも相手は、街中の女の子たちを虜にしている美貌の聖人様。
誰かに見つかりでもしたら、夜闇に紛れて刺殺されそうである。
【ロディム街の風変わり令嬢、死亡。殺人事件か。直後に女が逃走】
──なんて、新聞に取り沙汰されるのだろうか。
今更ながらに大胆なことをしていることを自覚して、メアリは肩を震わせた。
初めて彼が店を訪れた時の危機感を、どうして忘れてしまっていたのだろう。
慣れとは怖いものである。
「帰ってしまおうかしら……」
雨が降ってきたから。
そう言えば、ユリウスは仕方がないと許してくれるだろう。
そしてまた、人の良い顔で「次の予定を決めましょう」と提案してくるのだ。
「どうやって店まで来ているのか、聞いておけば良かったわ」
知っていたら、誰にも知られずにユリウスのもとへ行けるのに。
「会いに行くことがこんなにも緊張することだったなんて、知らなかった」
ユリウスはどんな気持ちで店へ来ていたのだろう。
その苦労に、メアリとの時間は見合っているのだろうか。
それを知るためにも、行かなくてはいけない気がした。
明るくて人通りの多い道と、暗くて人通りが少ない道。
メアリは見比べて、うなずく。
「……ここは慎重に、見つからないように隠れながら行きましょう」
まさかこの判断のせいで身を危険に晒すとは、彼女は思いもしない。
だからメアリは、誰にも見つからないように、明かりが届いていない薄暗い道をわざと選んで歩いた。
黒猫横丁で無事なのだから、どこへ行っても大丈夫。
メアリには、そんな驕りがあった。
遠巻きにされるばかりだった彼女は、危機管理能力が一般女性よりも低かったのである。
暗い方へ、暗い方へ。
細い路地は入り組んでいて、さらに進めば進むほど曲がりくねっていく。
迷いなく進む彼女に、注意を促す者はいない。
せめてもう少し慎重な足取りだったなら、自警団の一行に見つけてもらえたのに。
だがメアリは誰に声をかけられることもなく、彼女の姿はあっという間に見えなくなってしまった。
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