連載第三回
五章 長太郎、訴える
この時分、大坂の町は江戸よりもはるかにお侍が少なかったのは既にお話しいたしましたが、それでなんで治まっておったかと言いますと、町人に自治を大幅に認めていたからなんですな。六百あまりの町というのが大阪にはあったと申します。それが北組・南組・天満組の三つに分けられてそれぞれの組に「惣年寄」と呼ばれる代表者が何名かづつおりまして、侍組織の末端と町人を結ぶ媒介の役を果たしておりました。
それぞれの組の下には町と呼ばれる自治組織がございました。今日でも大阪市中央区伏見町とか、名前は残っております。今日これは「ふしみまち」と読むようになっておりますが、まあこれは土地を区切ってわかりやすいようにつけた名前でございます。
このころの町というのはそういうもんよりはるかに重要なものでございまして、あくまでもその町内に土地と家を持つ「家持」のみが参加できた自治組織。そやさかい、借家人やらは町に住んどっても町人やなかったんでございます。借家人というのは「家守」と言うて、頼まれて留守番してるのと同じような扱いやったんやそうでございますな。
その町には「町年寄」と呼ばれる者が町人の互選で選ばれます。上位何名かづつが惣年寄から任命されてなるもんやったんやそうでございます。この時分の大坂では、町役というのは行政サービスのみならず司法制度の末端でもございました。そやさかい、裁判を受けたいと思うとまずは町役を通しましてお奉行所へ願書をしたためます。
普通はこれこれこういう経緯につきお裁きお願いいたしたくという内容でもって願書をしたためまして、町役を通じてお奉行所へ願うて出るというのが普通のやり方でございました。ところが長太郎の書いたもんはそうやなかった。
公儀 御裁願出
破損奉行大久保允治郎御家内之方
材木問屋木曾屋御家内之方
以上二名御隣席ヲ以 御裁願ヒタク申上候
委細 御裁之場ニテ申上候
町役はもちろんお奉行様もこんな怪体な願書いままで見たことございません。町役なんかもううろがきてしもてやたらに気を揉んどおります。
「山紀屋さん、お奉行様に何を申し上げるんか知らんが、あんな中身でほんまに大丈夫なんか。破損奉行様と、大店中の大店敵に回して、もし何ぞ事があったら儂ら町役まで皆よって罪を償わんならんようなことにもなるのやで」
噂は出回りまして当然傳次郎の方にも入ってまいります。
「兄さん、何を願うて出るのか知りまへんが、願うて出たんが町中でえらい騒ぎになってまっせ。こら大事や。一体どうしなはるおつもりですねん」
(……こら、ただではすまんな)
長太郎もそう腹を括りますと言うと、町年寄はじめ月行事まで皆会所へ集めます。そして話を切り出す。
「ええ、皆様、今日お集まりいただきましたのは他でもございません。先だって私から町役様通じてお奉行所へお出しした願書のことでございます。いまはまだその中身については何も申上げることがでけしまへん。ですが、私としては誰に恥じることもないという思いを持ってお出しした願書でございます。お上のお咎めを受けることはないと思うておりますし、万が一にも私が悪いということにならば私ひとりの首を差し出して貰うて結構でございます。悪い方へ考えましても、私ひとりが磔晒し首になればそれで良え話でございます。そういうわけでございますので、万が一雲行きがおかしくなればすべての罪は私に着せて、皆様で私に石をお投げ下さい。ただ、そうなりましても、弟傳次郎以下、山紀屋の店の者にはどうかこれまでどおりご愛顧を賜りますよう、それだけは伏してお願い申上げる次第でございます」
家に帰りましても傳次郎に同じように言いますな。
「傳次郎、このことで万が一儂が悪いことになったら、兄じゃからというて庇い立てはすなよ。お前はこの家の奉公人の暮らしを背負うとるんじゃ。ご公儀から儂に咎め立てがあったとしても遠慮のう『あの役立たずがしたことなど、こっちには一切関わりございません。煮るなり焼くなり、良えように始末つけとくなはれ』と儂の体をお上に突き出せ。お前が守らんならんのは、この店であり、この店に奉公に来てくれてる皆じゃ」
その夜、長太郎は書見台に向かいましてさらの紙を一枚取り出します。
「遺言」
そうひとこと書きますが、良う考えたら書くことなんぞひとつもない。よっぽど考えてから、二文字を墨で塗りつぶして丸めてくずかごへ放り込みます。
この時分、江戸でも大坂でも、奉行所というのはふたつございました。江戸は良う知られておりますな。北町奉行所と南町奉行所。これが大阪では東と西やったんやそうでございます。これ両方とも、管轄地域の違いではなかったんやそうで。同じ仕事を一年交替でやっておったんやそうです。
大坂の西の御番所、東の御番所というのがございます。火事やら何やらで何回か場所が変わっております。その年は西の御番所の当り年やったんやそうでございまして、原告被告双方に差し紙というのが回ってまいります。願うて出たらすぐに被告が呼びにやられるというような仕組ではなかったようです。この時分、大概の争い事は目安方という役人の方で処理をされてしまいます。大きな事件だけがお奉行様のお裁きを受けることになる。
願書に敢えて大久保様と木曾屋を名指ししておいたのも、長太郎のひとつの作戦でございました。まず、お侍様の関係する事件となれば目安方で片をつけられてしまうことは滅多となかろう、こう思って大久保様のお名前を出しておいたのもひとつの策略、大久保様と木曾屋、と連名で名指ししておけば、何も事情を知らんような下っ端が出てくることはまずあろまい、この件については良う良う知っていて、何ぞ事があれば息を合わすことのできるような、どっちにとっても子飼いの者が少のうとも出てくるに違いない。これが長太郎の読みでございました。
前の日の夜に、長太郎、お芳に言うておりました。
「お芳、いよいよ、明日がお裁きじゃな」
「はい、ご隠居様のご無事を、心よりお祈り申上げております」
「いやいや、遠くから祈ってて貰ろたらどもならんで。おまはんにはお白洲までついてきて貰わないかん」
「私には何もできることなどございません」
「何を言うのんじゃ、儂ゃひょっとしたら娑婆で夜を過ごせるのは今夜が最後になるのやわからんのやで。おまはんには最後の最後まで儂の面倒を見て貰わないかん。居ってくれるだけで良え。お白洲までついてきて欲しい」
夜が明けます。お裁きの当日。
原告被告。そして町役一同まで打ち揃いまして西の御番所までやって参ります。たまりと申します控え所に皆揃います。ここで待っておりますと、御裁きの行われる順番に呼ばれてぞろぞろぞろぞろと人が入っていきます。長太郎のこのお裁きはなかなか順番が回って参りません。後から来た人が次々と呼ばれて中へ入っていって、どうやらお裁きが終わって出て行っている様子。人が少のうなっていくに従って町役連中の顔がだんだん青うなっていきます。
すっかり暗ろなってかがり火が焚かれて、赤い炎に顔が照らされておりますが、それでもはっきりとわかるくらい青ざめて表情も硬い。そんな中、長太郎だけが至って平静な顔でじっと待っております。お芳も少し浮き足立ちまして、これで良えものかということでお白洲の様子を眺めに行たり、町役連中の話し相手をしたり。
「お芳、何にも焦ることはないんやで。儂が晒し首になることになっても、おまはんが何ら罪咎めを受けることはない。堂々と落ち着いて座って待っておおき」
そうするうちに声がかかります。
「伏見町五丁目、山紀屋長太郎、出ましょうー。町役一同、出ましょう出ましょうー。材木町一丁目、木曾屋呉平、出ましょうー。町役一同、出ましょう出ましょうー」
大久保様はお侍様でございますし、お奉行様から見ても謂わば上役でございます。なのでご本人はお越しになりません。側近てな人が内側から入りましてお奉行様の横手に控え居ります。呼ばれるのは町人だけ。ぞろぞろと入っていきます。
通りますと言うと玉砂利の上に茣間目むしろという目の粗いむしろが敷いてございます。それへ一同が「へぇーっ」と控える。そう言うて待っておりますと、しばらくいたしますと「しぃーっ」警蹕の声というのがかかります。正面の稲妻形の唐紙が貼られた幅の広い襖が左右へさーっと開きます。
ついっ、とお出ましになられたお奉行様。つっ、つっ、つっ、つっ、つっ、ぴたりと御着座でございます。この方が正面にでんとお座りになる。両脇には与力と名のつく方々が羽を広げたようにずらりと居並んでおります。お奉行様の斜め後ろには、おそらくは大久保様の家臣かと思われるお侍様がお控えでございます。
「山紀屋長太郎、出ておるの」
「恐れながら、ここに控えおります」
「木曾屋呉平、出ておるの」
「恐れながら、ここに控えおります」
「その他控えおる者は皆町役か」
「恐れながら申し上げます。私の隣におりますこの女子衆、名をお芳と申しますが、この者は隠居である私の世話係でございます。話の成り行きによりましては私は今日このお白洲から家へ戻ることは叶わぬことにもなりかねんということがございますので、最後の姿を皆に伝えて欲しいということで供をさせてございます。何も申し上げることはございませぬゆえ、私の最後の姿だけ見ることのできますよう、お情けを頂戴したく存じおります」
「うむ、あいわかった。さて、山紀屋長太郎、差し出されたる願面によれば、委細は御裁きの場にて申し述べるとあるが、訴えたき内容を一切書かずただその場にて申し述べるとのみ書かれた斯様な願面、奉行いままで見たこともない。申し述べたきことを、まずはまっすぐに申し述べよ。破損奉行大久保様のお名前と木曾屋を名指ししているところを考えるに、この両名のことについて何か申し述べることがあるか」
「恐れながら申し上げます」
長太郎が下を向いたまま答えますと
「苦しゅうない。面を上げよ」
とお奉行様が声をかけます。長太郎、顔を上げまして改めて話し始めます。
「恐れながら申し上げます。申し上げたきは、木曾屋さんがお上の御用達になりました経緯でございます」
「ふむ、委細を申し述べよ」
長太郎は改めて話を始めます。
「現在木曾屋さんはお上の御用達の店ということで手広うご商売をなさっておられます。それもこれも御用達というお立場あればこそ。この看板を取るように大いに便宜を図られたのが、大久保様でございます」
お奉行様の後ろに控える大久保様の家臣の顔に稲妻が走ります。
「木曾屋さんの他にも、御用達になれるほどの大店はなんぼでもございました。破損奉行の三人のお武家様のうちでも、大久保様は謂わば長老、大久保様の鶴の一声で御用達の店の看板はおそらく決まったのでございましょう。材木町の店がそれぞれ少しでも良え商売をと腕を競い合ったに相違なかろうと思います」
いまだ平伏したままの木曾屋呉平が横目で長太郎を睨みつけております。
「木曾屋さんは、大久保様に気に入られるだけの理由がございました」
大久保様の家臣、木曾屋呉平、ふたりの目がだんだんとぎらぎらして参りまして、長太郎にいまにも殴りかからんばかりでございます。
「いまから十二年前、堂島の米相場師も『悪い夢』と言う大きな出来事がございました」
この辺りから長太郎を睨みつけている四つの目には怖れの色も浮かんで参ります。
「東からの米の出来高を大坂の堂島米相場に知らせる千里山の旗振り師、そしてまた南からの出来高を知らせる天保山の旗振り師が、同じ間違いをしたのでございます。それも図ったように一日二回、同じ間違いでございます」
木曾屋はこの辺りまで来ると、怖れなのか怒りなのか、若干震えて出始めている様子。
「このふたりの旗振りが同じ間違いをした結果、昼前に底値を打った米の値段が、昼下がりには上がりに上がりました。その後正しい出来高が知れましたので、当たり前の値段に納まりましたが、不思議なことにこの日だけふらっとやってきて石建米取引をして、まるでこの米の値段の下がり上がりを知っていたかのように売り抜けて、僅かの銭を莫大な金額にしてそれ以来一度も姿を見せんという、珍しい素人がおったことを米相場師も両替商もはっきりと覚えております」
大久保様ご家臣と木曾屋の殺気がもはやこのお白洲の場を飲み込もうとしているかのようでございます。かがり火がちらちらと揺れたのも風のせいやのうてこのふたりの発する殺気に気圧されたのかと思えるくらい。
「そして、木曾屋さんはそれをご存じやった……そうでっしゃろ、木曾屋さん。木曾屋さんが御用達になったのは、そのすぐ後や。どうです、木曾屋さん」
「お奉行様、この山紀屋めに言いたいことがございます。どうかお許しを」
「うむ、差し許す。申し述べよ」
「山紀屋、黙って聞いておれば見てきたようなことをぬけぬけと。旗振り師に銭を払うたその男が儂とこの店の者やという証拠でもあるのか!」
「儂も捨て置けぬ!」
こう言うてお奉行様の後ろから大久保様のご家臣が出張って参ります。
「その大儲けをしたというよくわからぬ男が、当家の者であるという何か証拠でもあるのなら出してみよ!」
長太郎、しばらくの間黙っておりました。目を閉じて、呼吸を整えるようにゆっくりと深ぁく息を三つほど挟みました。
「お奉行様。お聞きになりましたか。今の木曾屋さんのお言葉を」
「うむ、聞いておった」
「横にお並びの与力の皆様、今木曾屋さんは何とおっしゃったか、お聞き取りになられましたか」
与力の皆様、口々に「聞いた」と言ったり頷いたり。
長太郎、改めてお奉行様に向かい、言葉を続けます。
「私は確かに旗振り師が旗を振り違うたと申しました。しかし旗振り師が銭を受け取ってその見返りにわざと旗を振り違えたという話は一切しておりません。木曾屋さん、なんで旗振り師が銭を受け取ってわざとやっていたことをご存じか」
「……そ、そやけど儂はこれまでの話の運びから銭が渡ったとお前が言いたいのではないかと思うたまでで……」
「雑損六両」
木曾屋は長太郎の顔をしげしげと眺めたかと思うと、はっと気付きます。
「お前あの時の漬物屋の番頭か。古い帳面がないようになったときの……」
「旗振り師にはひとり前三両渡されてた。それがふたり。そして六両というのは雑損で片付けるには大きすぎる金高ですな。どうです木曾屋さん」
「ぐぐぐ……」
「千里山の旗振り師佐平、天保山の政吉、現在の居所を調べ上げてございます。銭を受け取りわざと旗を振り違えた経緯、このように証文を取って爪印も捺させてございます。すべてはこの二名の話を詳しいに聞けば自ずと事の全容も見えてこようかと存じます。私が調べまして白状いたしましたゆえ、この二名につきましては、ご禁令の旗振りを致したることも含めまして、お裁きなるべくご憐憫の沙汰を願わしう存じます」
一段低いところに控えておりますお侍が脇に立ちます侍に命じて長太郎の持っております証文を取りに参りまして、同心から与力、そしてお奉行様に証文がわたります。お奉行様がざっと目を通すところまで、長太郎は確認いたします。
「大久保様のご家臣の方、おっしゃるように、石建米取引で大儲けをした男がお家の方かどうかはっきりさせるのは難しいかもわかりまへん。ですがこれだけいろんなものが大久保様に儲けさせたという方へ向いております。お上のお力尽くして調べられたら、逃れることはでけんのと違いますか」
「山紀屋、控えよ」
お奉行様が制止いたします。
「疑いありとは言え、本来ならばその方ら町人とは直接口をきくこともないご身分のお方である。詮議はお上のなすところである。身の程を弁えよ」
「これは失礼をいたしました。しかし、どなたかを儲けさせるためにこの木曾屋さんが旗振り師に三両づつ握らせて米相場を動かしたのはどうやら確からしう存じます。米相場とはどこまで行っても儲けた者が賢うて損を出した者が阿呆、そういう商売ではございますが、そのどなたかを儲けさせるために銭を使うてわざと相場を無茶苦茶に動かした。直に銭のやりとりをしてはおりませんが、やはりこれも道理に反することであると考えます。お奉行様のご判断をお願いいたします」
ここでお奉行様は改めてきちんと座を正されます。
「山紀屋、その方の述べたきこと、あいわかった。破損奉行の御用達の一件につきては過去帳の経緯を改めて調べてみねばなるまい。木曾屋、この件につきては追って沙汰をするゆえ、心して待て。大久保様のご家臣殿、事の次第によりてはお上に御詮議をお願いすることになるやも知れませぬ」
後ろで顔をこわばらせている大久保家家臣にお奉行様はそう伝えます。
「じゃが山紀屋、それだけではその方に何の得にもならぬように思うが、この一件、訴え出た理由は何じゃ。まっすぐに申し述べよ」
「はい。今を去ること十二年前、木曾屋から大金が大久保様へ渡り、その見返りに木曾屋が御用達の店になるという次第ではないかとお調べになっておられたお侍様がいらっしゃいました」
「ほう」
「吟味役与力の嘉納源右衛門様にございます。内々に大久保様にそういったことはお控えになられた方がというような事を申し上げたのかも知れません。おそらくは、堂島の米相場を巻き込んでの細工というようなところまではお調べがつかなかったのでございましょう。表沙汰にする前に内々にお伝えなされた。そして大久保様はこの件について闇に葬るため、嘉納様が謀反逆賊を企んでいることにし、嘉納様は切腹および財産の召し上げ、ご家族の御城下追放に処せられました」
「確かに、嘉納殿のお腹を召された記録は残っておる。じゃがそれがその方とどのような関わりがあるか」
「申し上げます。嘉納様の謀反逆賊の濡れ衣を取り、切腹の命を取り消していただきたくお願い申し上げる次第でございます」
「そうは言うが山紀屋、嘉納殿はお腹を召して既にこの世の者ではない。ご家族の行方も杳として知れぬ。今汚名をそそぎ切腹を撤回したとて、誰の得にもならぬように思うが、なぜ今それが必要か、述べてみよ」
「そのようなことはございません。たったひとり残された、嘉納様の大事なご家族は今もご存命でございます」
「ほう。居所がわかるか。ところ在所を申し述べよ」
「在所を申し述べるまでもございません。当家にて女子衆として隠居である私の世話役を務めてくれている、この私の横に控えおりますお芳が、嘉納様のご息女でございます」
「何、その方の世話役の女子衆とな。面を上げよ」
促されて、ずっと下を向いておったお芳がやっと上を向きます。
「その方が、嘉納殿のご息女か」
「……はい」
震える声でようやく一言返事をいたします。
「従いましてお奉行様」
そこへ長太郎が割って入る。
「いまさら嘉納様の濡れ衣を取り、切腹の命を撤回したところで誰の得にもならぬなどということは決してございません。お父上の汚名をいつかはそそぐという気持ちで生きてきたご息女が、確かにここにおひとりいらっしゃいます。どうか切腹のご命の撤回を」
お奉行様、しばし目を閉じてじっと考えておられました。静かなときが訪れます。かがり火の爆ぜる音だけがぱちぱちと響きます。やがてゆっくりとお奉行様が目をお開きになり、おっしゃいます。
「あいわかった。十二年前、木曾屋から破損奉行様へ何らかの賄賂の申し出があり、それによって木曾屋が御用達の座を手に入れた、少のうともそういう疑いを持つに足る怪しい動きはあったと言わざるを得まい。それを調べておったということで、謀反逆賊の咎にて切腹に処せられた嘉納源右衛門殿は冤罪であった」
ひときわ声を張ってお奉行様が言葉にいたします。
「ここに、嘉納源右衛門殿の名誉を回復す」
お芳の目から光るものがぽろぽろとこぼれ落ちます。そんなお芳に向かって、お奉行様が優しく声をかけられます。
「嘉納殿は実に忠義のお方であった。そのお方に逆賊の汚名を着せたなどということは、奉行の大失態である。これまでいろいろと苦労もあったであろう。先の奉行に代わりて詫びを申す。許せ」
「もったいないお言葉にございます」
平伏するお芳。
「山紀屋、こうなった以上、ご息女には士分にお戻りいただかねばならぬ。しかし、女子おひとりに屋敷一棟お持ちいただくわけにもゆかぬ。ご息女の処遇についてはこれより詮議いたすにより、追って沙汰をするまでその方に預け置く。くれぐれも非礼のないよう、お預かり申し上げよ」
「かしこまりましてございます」
(……勝った!)
長太郎、肚の中で握り拳をこさえて喜びます。
「本日のお裁きはこれまで。一同の者、立ちませい」
居並ぶ与力様の中に、ひときわ若いお侍が一番端に控えておりました。このお侍様が、ことの成り行き、その中でもことにお芳の姿をじっと見つめておりました。
さすがの長太郎もかなり冷や汗ものでございました。外へ出ますというともうかなりの夜更けでございます。
「終わったなあ」
そうお芳に声をかけますと、お芳は相変わらず目から涙を流しております。
「ありがとうございました」
そう声にするのがやっと。
「ほな、帰ろか」
黙って家路を歩くふたり。お互いに、何か言葉にして相手にかけたいという気はあるのでございますが、あまりに大きな出来事の後でございますので、何をどう言うて良えのやわからん、という気持ちでございます。長太郎の口からやっと出た言葉がこれ。
「お腹が空いたなあ」
「お店に帰りましたらすぐに御膳をご用意いたします」
「そうか。頼むわな」
その後はまた、黙って歩くふたりでございます。
店へ帰り御膳も済んで、ひと心地つきますと、長太郎は帳面を全部お芳の前に並べます。
「読んでみ、お芳。これはお父上の嘉納源右衛門様の日記の抜き書きじゃ」
恐る恐る、お芳は手に取りますというと、そこには愛娘に対するあふれんばかりの親心が縷々綴られております。
「お父上も、おまはんが可愛いて仕方なかったんや。そらそやないか。初めての自分の子ども。愛娘。そしてこんな別嬪。そやけど、万に一つにもおまはんが別嬪鼻にかけて世を舐めたような娘に育つようなことはあってはならじと、お父上も一生懸命やったんや。何と質実剛健な、良えお父上やないかいな。そして不正は不正と、上役に対しても何ら正義の手を緩めることなく大胆に切り込み、そして士分の立場を弁えていらして、それゆえに言い訳のひとつもせんとお腹を召された。これは、偉人やで」
お芳の目からは、ただひたすら涙がぽたり、ぽたり。
「お父上亡き今、士分にお戻りになることはもう叶わん。残されたたったひとりの肉親であるおまはんが、幸せに生きること、これが何よりの供養になるのと違うかえ」
「ご隠居様」
お芳が前に手をつきまして。
「私には追々何かの形で士分に戻る話が来るやろうと思います。お願いをいたします。どうかその日が来るまでは、この店で女子衆として働かせていただきとう存じます」
「女子衆暮らしも残り少しか。好きにしたら良え。お侍様のご息女を女子衆に使うて儂が怒られるかも知れんが、儂はなんぼ怒られても良え男や。思う存分働いておくれ」
「ありがとうございます」
そう言うてお芳は母屋へ帰っていきます。
六章 長太郎、嫁がせる
次の日の朝。
皆が起き出してくる前にお芳は起き出しまして布団を畳みます。続々と起きてくる奉公人に
「おはようございます」
満面の笑みで挨拶するお芳。
された方は半分寝ぼけてるもんやさかい「ああ、おはようさん」で済まして通り過ぎようといたしますがふと気がついてはっと振り返る。
「あのお芳が笑うてるで」
店の方はもう大騒動でございますな。何があったとわいわいがやがや話をしたりお芳のすることなすこと観察する者がおったり。
この日は長太郎も割に早う起きまして、母屋の方へやって参ります。
「ご隠居様。今日の朝ご飯はこちらでお召し上がりになりますか」
「ああ、そうさしてもらうわ。昨日のことについて店の皆に話をする暇も朝ご飯の間くらいしかないじゃろ」
そう言うて皆の前に箱膳が並びますというと、長太郎が話を始めます。
「皆、この朝ご飯の間やけど、食べながらで良え、ちょっと聞いて欲しい。昨日のお裁きの件じゃがな。中身について事細かにというわけにはいかんのじゃ。いまだお上の方でご詮議が続いとるさかいな。ただ、ひとつ決まったことはある。今ここにいるお芳じゃが、これは昔御吟味方与力やった嘉納源右衛門様のひとぉり娘じゃ。不幸な経緯から、嘉納様は謀反逆賊の汚名を着せられ、お腹を召された。ご家族は財産召し上げで城下追放の憂き目に遭った。そこからお芳は町人になって長屋暮らし。弱り目に祟り目、お母上も病気で早うに亡くされてな。それから方々の店へ女子衆奉公で生きてきたといういうようなわけなんじゃが、昨日、嘉納様の一件は間違いが決まった。そうなった以上、いずれは士分へお戻りいただかんといかん」
「えっ」
皆が口々にそう言います。やっぱり最初に口を開くのは主の傳次郎。
「お芳……様は、お侍様の家の方というわけですか」
「そうじゃ。まあ、細こうに言うたら、子どもの頃までお侍様の家の方やったんじゃが、不幸にして御城下から追放になった。その追放が、間違っていたということで昨日のお裁きで定まり、どういう形でお侍様の家に戻るか、今お上のご詮議中というわけじゃ。そういうわけで、お芳の身は処遇が決まるまで儂の預かりとなった。本来なら一番奥に控えて貰うておかねばならん筋合いの話じゃが、お芳本人の気持ちで女子衆でいられる間は女子衆でいたいと。これからお奉行所のお調べもちょいちょいあるやろから店を抜けることも多くなろうかとは思うが、これから店の方も手伝うさかい、どうかあんじょう面倒を見て上げて欲しい」
また店の皆ががやがやといろんなことを言います。
「この一件で、お芳は顔色を変えてはいかんと思い込んでおった胸のつかえも下りて、相好を崩さんように我慢する必要もなくなったさかい、店の前にもお立ち願えるじゃろう。お芳、何かひとことあるか」
「何かひとことて仰いましても何も申し上げることとてございませんが、一生懸命に勤めさせていただきます。旦那様、お店の皆様、よろしくお願い申し上げます」
「傳次郎、どうじゃな」
「そういうことでしたら私には何の不満もございませんわ。ほなら早速、今日は店先の方へ出て貰おうか。まずは店の前の掃除、水打ちやな。でけるか」
「喜んでやらせていただきます」
こういうわけでお芳が店の前で掃き掃除、水打ちをしておりますとだんだんだんだん人垣ができてくる。
「この漬物屋にこんな別嬪の女子衆おったかいな」
「儂ゃ何度か見たことあるで。ここの変人隠居と連れ立って出かけていくところやったなあ。隠居の世話係やったけど、店に立たせといた方が客がつくと思たんと違うか」
あまりにも人垣が寄ってくるもんやさかい何とかこれを追い払わんとなりまへん。せやけど店の者にはそれぞれに役目がある。唯一何の役目もないのが長太郎でございます。しょうがないさかい、長太郎が店の外へ出てきて追い払うことになる。
「溜まらんといとくんなはれ。見せもんと違いまっせ。こんな人垣できたらうちの店商売でけしまへん。居たいんやったらなんぞ買うとくなはれ」
そう言うたら店に列ができます。
「何をお求めで」
「醤油頼むわ」
「へえへえ、いかほど」
「いかほどでも良えねん。あれや、木戸銭分だけ」
「木戸銭分てな言い方おますかいな。量で言うとくなはれ」
「一番小さいの一瓶」
「へえおおきに、これ子ども。このお客さんに醤油一番小さいの一瓶持っといなはれ」
「何を言うねん、あの女子衆に手渡して貰うんやなかったら買わんで」
「良うそんなことぬけぬけと言いなはるなあんた。奥から子どもに持って来さして、手渡すのとお代頂戴するのだけあの女子衆でよろしか」
「できれば手ぇのひとつもぎゅーっと」
「そんなん、うちの商売と違います!」
こんな調子で醤油が売り切れる。麹味噌が売り切れる。桜味噌が売り切れる。白味噌が売り切れる。天王寺蕪の浅漬け、粕漬け、泉州から仕入れてる生姜漬け、どんどんどんどん売れていく。売るもんがなくなっていくんやないかと思うくらい。
店の外では長太郎が買うたあとの人を追い返しにかかる。
「どうもおおきに、お気をつけてお帰りを」
「んなこっちゅわんと。せっかく買うたんやさかいもうちょっと見せてえな」
「お気をつけてお帰りを!」
毎日これですわ。たまに長太郎とお芳にお上からお呼びがかかります。そうなると当然店には出ませんわな。そうなると客から不満が出る。
「別嬪の女子衆は今日は出えへんのか」
「今日は別の用事があって店におりまへんねん」
「明日は出んのかいな」
「出ますけど」
「ほなまた明日来るわ」
「なんや、漬物買うてくれるんやないんでっか」
「そら買うけどえらい別嬪の女子衆がおるちゅうから遠いとこから来てんねん。悪いけど小汚い丁稚からなんか良う受け取らんで」
「なんや見かけんお方やなと思とりました。どちらからお越しで」
「西宮からや」
「物好きな人がおったもんやなあ。まあ、明日来とくなはれ」
次の日店に出ますというとまた黒山の人だかり。店先では長太郎が追い返しにかかる。
「もうし、別嬪の女子衆が居るちゅうのはこの店でよろしか」
「そういうことで噂にはなってるようですけどなんぞ買うとくなはるのか」
「違いまんねん、うち評判記の版元でんのやけど、町娘評判記というのを出そうと思とりまして、それでちょっと見に来て……」
「去ね、阿呆!」
そんなこんなでひと月ばかりはあっという間に過ぎ去っていきます。
一方、そのころ御城内では。
「先日の裁きの場にて嘉納殿の無実が明らかとなったが、そのご息女はまだお若い。屋敷を一棟お持ちいただくわけにもいかず、どのようにお戻りいただくか奉行考えがつかぬ。その方らに名案あらば、この場で申し述べて欲しい」
お奉行様が居並ぶ与力を目の前にそう告げますが、与力の皆様もこれと言って名案があるわけでもございません。皆おし黙っております。
「恐れながら申し上げます」
言おうか言おまいか迷っておるような様子でしたが、意を決したようについ、と前へ出まして声を上げましたのが、先日のお白洲でお芳をじっと見ておりました若いお侍様。
この時分、大坂武鑑に綴じ込まれております武家屋敷町の図を見ますと、稀におふたりの名前が並んで書いてあるお屋敷がございました。これは親子なんですな。子どもの方がもうそろそろ一人前になるための修行を初めても良え頃や、ということで、見習いのような形で仕事をするようになってる、そういうお宅にふたり名前が載ります。
この若いお侍様はそういう形で仕事をするようになっておったんですが、不幸にもお父様の方がぽっくり逝ってしまわはりまして、他の与力様の預かりとなりながら吟味役与力の見習い修行をしております。この時分見習い修行のことを雇いと申しましたが、そういうお立場。もうそろそろ独り立ちをしても良えかなという二十五歳で名前を水野左近様とおっしゃいます。
「何じゃ水野。申してみよ」
「嘉納様ご息女について噂を伺うておりますが、町人に身を窶してなお気高さ失うことなく、さりとて町人を見下すこともなく、裏表なく人と接し、家事一切下仕事も厭うことなくまめまめしう務め、縫い針なども器用に相務め、華美を嫌い、日頃の生活も質素倹約を心がけ、そして不正を嫌う、大変優れたお方と伺うております」
「うむ、そのようであるが、それがいかが致した」
「つまり、良くできたお方と伺うておりますが……」
「何じゃ。思うところをまっすぐに申し述べよ」
「……つまり、当家妻女にお越し願えぬかと……」
お奉行様もちょっと子どものようないたずらな顔を浮かべてこう問い返します。
「ほう。つまり、見初めたか、水野」
どっ、と一同から笑い声。水野様は俯いてしもうて耳の後ろまで真っ赤になっております。かろうじて「はっ」とひとこと。
「いや、しかし、これはなかなか悪い思案ではない。水野ももうほぼ一人前、妻帯さえすれば与力として何ら欠けるところもない。またご息女もお輿入れで侍にお戻りいただければ懸案はすべて解決じゃ。互いに与力格で、釣り合いも取れよう。早速に見合いの段取りを整えようではないか。それで良いな、水野」
「何卒よしなにお願い申し上げます」
山紀屋の方はと申しますと。
お芳が居らんようになるまでもうなんぼも日がないということで、長太郎もちょっとだらしない生活を改めまして、毎日みんなと同じように起きて母屋の方でみんなと同じように御膳をいただいております。
ある日のお昼。先にも申し上げましたが、このころの商売人の食事でちゃんとしたおかずがつくのはお昼ご飯。一日の中で一番ちゃんとした食事です。食べておりますとお侍様が店の前についと立ちます。
「ああ、許せよ」
「はい、お越しやす」
言うて一番最初に立ち上がったのがお芳。女子衆として店先でお芳が立ってるさかいお侍様の方がかっとなってしまいまして。
「何とけしからん。隠居はおるか」
「はい、隠居ここに控えおります」
「嘉納公のご息女、その方に預けおくとお奉行様のお申しつけのはずじゃ。店の最奥にお控えいただくべきところ、女子衆として下働きに働かせるとは何たること、この上なき無礼である!」
「無礼は承知いたしております。しかしご縁あって当家に女子衆働きにお越しいただきましたゆえ、店の者にお侍様のご息女とはかく毅然たるものと教えるためにお願いいたしております。何卒、ご容赦の程を」
「違うのです。お侍様」
つっと前に出て毅然と話しかけるのはやはりお芳でございます。
「私が女子衆として働かせていただけるのもあと少し。ご縁あって女子衆勤めができるようになりまして、これまでやって参りました。士分に戻るまでは私は女子衆、残された日を女子衆として勤め上げたい、そうお願い申し上げてご隠居様に女子衆として働かせていただいております。何卒、ご隠居様をお責めあそばせぬようお願い申し上げます」
「……ご納得の上であれば致し方がない。それより山紀屋、ご息女の処遇についてのお上からの書状である。その方で十分に理解の上、返答をよこすようにせよ」
「かしこまりましてございます」
そう申しまして書状を受け取りました長太郎。お昼の御膳が済みましたらお芳をつれて隠居小屋の方で話をすることに致します。
「ほうほう、うん、なるほどなあ」
「どのように仰せでございましょうか」
「まず大事なところ押さえとくけども、おまはん若い女子ひとり、侍屋敷の中に一軒家持つことはできんのはこれはわかったあるな」
「はい」
「それで処遇についてお上の方でお話し合いがもたれたんじゃが、つまり与力格見習いでお勤めの若いお侍様が、嫁として迎えたいと、こう仰せじゃそうな」
「えっ」
お芳も目に見えて恥ずかしげに致しまして、耳の縁まで真っ赤に染めます。それを見ながら長太郎も
(うちに最初に来たときのことを思うと、顔に思いが出るようになったもんじゃな)
と思いながら続けます。
「それでまず見合いをしたいと言うことなんじゃが、今度の大安吉日未の刻というから八つ時くらいじゃな。生國魂さんにお参りの道でどうじゃと、こういうことなんじゃが、おまはんそれで良えかいな」
お芳ももじもじもじもじして畳の上に「の」の字書きながら
「はい」
とかろうじて返事を致します。
「何でも先だってのお白洲で我々から見て一番右端にお座りになっていらっしゃった若いお侍様とのことじゃ。おまはん、覚えてるか」
「私あの時は頭が真っ白で何も見えておりませんでした」
「そうかあ。儂ゃちょっと覚えてるな。なかなか男前のお侍様じゃったで。与力見習いでお勤めじゃが、もうお勤めも立派になさって、妻帯すれば一人前の与力として整うそうな。こういうこと考えたら、まあ不満はないのんと違うか」
「はい、私のような者を欲しいとおっしゃって下さるなら何の不満もございません」
「そうなってくるとあとは人間同士の相性ということになるが、こればっかりは見てみなわからんところじゃな」
こういうことで話が整います。
この時分、見合いというのは今とだいぶ様子が違います。今回のように寺社に参詣とか時期によったら花見やとか、そういうところに男方女方双方が誰かに連れ添われてすれ違うというような形で、ほんまに名のとおり「見合う」んですな。そして拒否権は一方的に女の方にあったんやそうです。男の方はどんなに相手を気に入っても、何とか色よい返事がもらえるようにということで祈るしかなかったと言いますが。
一般的には男方は父親やとか叔父さんとか、そういう人間が連れて、女方の方は叔母さんとか先輩の女子衆とか、そういう人間が連れ添うたもんやそうですが、今回はそれぞれ後見人がいるということになりますんで、水野様は預かりの与力様、お芳の方は長太郎が連れて行くということになります。そしてその当日。
大坂の生國魂神社と言いますとかなり大きなお社でございます。多くの末社がありますがその中の一番奥。鴫野神社という小さなお社がございます。これは女の守り神様であり縁結びの神様として古うから信仰を集めたそうでございます。この生國魂さんが見合いの場所とはなかなか洒落たある。
長太郎がお芳を連れまして生國魂さんへ参ります。一間ほど離れてあとをついていくお芳。奥へ奥へと参りまして一番奥の鴫野神社。
「お芳、ほれ、おまはんも良縁を祈願したらどうじゃ」
賽銭箱の前へお芳を立たす。
隣に参りましたのがお侍様のふたり連れ。中年のお侍様と若者。長太郎はわかっておりますのでお芳を肘でちょんちょんと突き、お侍様の方を見なはれ、と目の動きで合図を送ります。向こうは向こうでお芳を見る。水野様とお芳、互いに見合わす顔と顔。こうして見ますと言うと水野様かなりの長身でございます。目と目が合いますと一瞬ふたりとも何が起こってるやわからん。お互いに相手が連れ合いの候補やとはっと気付いて顔が赤うなったある。先に来ておりました長太郎の方がお芳を急かします。
「どうや、十分に良縁の祈願はでけたかえ」
「はい、お祈りを致しました」
「ほうか、ほな、帰ろか」
参道の入り口に茶店がございます。ちょっと一服しようかということで立ち寄る長太郎とお芳。長太郎の方は、お芳を急かすようなことをして大事な一生の連れ合い選ぶのにしくじったらいかんと思うさかい、敢えてその話はせんように致しますな。
「普段なら団子というようなところじゃが、何や今日は儂何とのう嬉しいわ。ちょっと張り込んで羊羹でもいただかんか」
「はい、お言葉に甘えさせていただきます」
「そうかそうか。おーい店の。羊羹ふたぁり分持ってきてくれんか。せいぜい勉強して分厚う切っとおくれ。それとお茶。渋いのでもう一杯づつおくれんか」
「そういえばご隠居様、お側にお仕えしている間、お酒を召し上がったことはこれまで一度もございませんね」
「ああ、そういえばそうやったかいな。儂、どっちかいうと甘党やさかいな」
言うてる間に四角いお皿に羊羹が二切れづつ乗ったものがふたつ出てまいります。
「ああ、おおきにおおきに。おう、なかなか張り込んで分厚う切ってくれたある。早速いただこやないか」
「はい、頂戴いたします」
「で、何の話やったかいな。そうや、お酒の話やったな。儂、ほんまはお酒好きやねんで。そやけどな、酔えさえすればどんなお酒でも良えという酒飲みではないねん。酔うた心地が好きと言うよりは、お酒の味が好きやねん。そやから、言うたら儂みたいなのがほんまの酒好きと言うのかも知れんで」
「そういうものなのでしょうか」
「そうやなあ。そこいらで酔うて潰れてるような人見ると、お酒がもったいないような気がするなあ。この人の飲んだお酒かて、造り酒屋の杜氏さんたちは一生懸命造らはったんやろうなと思たら、お酒がかわいそうな気にもなるな」
「やはりかなりお好きですね、それですと。一回ご隠居様のお酔いになっているところを拝見したくなってきました」
お芳が含み笑いで答えます。
「まあ、おまはんがいてくれてる間に、いっぺん酒盛りはしたいな。いや、したいやないな。しよう。傳次郎のやつが金は出さんと渋りよっても、儂が兄貴の名で出させるわ」
「はい、楽しみにしております」
「ほな、帰ろか」
帰りまして、母屋と離れへ分かれる際に、長太郎はお芳に言うことだけは忘れません。
「今日の見合いでどう心持ちを決めるかはゆっくり考えて良えんやで。一生を任す人を選ぶんやさかい、じっくり考えや。決まったら、儂に知らせておくれ」
「はい、ありがとうございます」
「ほなまあ、今日はお疲れさん。明日からまた店の方、良えようにやってやっておくれ」
そう言うてその日は暮れます。
二、三日後。
「ご隠居様」
お芳が神妙な面持ちで長太郎のところへ話に参ります。長太郎も(あのことやろな)とは思いますが、敢えてそれを言わんように返答を致します。
「おお、お芳、なんぞ用かいな」
「はい」
「大事なことか」
「はい」
「じゃあちょっとここの襖を閉めようか……。で、何のことや」
「この間のお見合いのことでございますが」
「おお、気が決まったか。そいで、どうする」
「はい……あの……」
(普通の若い女子に戻ったもんじゃな)
長太郎も答えの予想はついておりますが、お芳が言い出すのを敢えて待っております。
「お願いできればと……」
「そうかぁ。気持ちがそう決まったか」
「はい」
「そうなったら善は急げじゃ。お昼間はお侍様方皆お務めじゃろうから、今日の晩方、儂が行てそうお伝えしてくるわ。確かに、間違いないな」
「はい、お願いいたします」
長太郎、その晩侍屋敷町へ出向きまして、吟味役与力様の長老のところへ参ります。
「当家にてお預かり致しております、嘉納源右衛門様のご息女様のことでございます。先日吟味役の水野左近様とお見合いになられ、是非にとおっしゃっておられます」
「そうかそうか、それはめでたい。次の大安吉日を以て結納の日と致そう」
「結納は、当家と致しましてはどのようにしたら宜しうございますか」
「そうじゃな。本来、双方の両親、そして仲人の臨席を以てと言うことになるのであろうが、不幸にして新郎も新婦も両親がない。従って水野を預かっておる与力を水野の親代わりとして、儂が仲人を務める。山紀屋、その方が、新婦の親代わりを務めよ」
「えっ……私が、でございますか」
「そうじゃ。何か不服か」
「しかしそうおっしゃいましても、皆お侍様、私ひとり下の者など臨席いたしましたらせっかくのおめでたいお結納に傷がつくのではないかと」
「とは言え、山紀屋、考えても見よ。新婦の昔を知る侍は誰ひとりおらぬ。かと言うてめでとう夫婦となるふたり、結納をせで婚礼などということもあってはならぬ。その受け取り先と言えば、その方を措いて他におらぬのじゃ。心して相務めよ」
「かしこまりましてございます」
「本来、結納から婚礼まで半年ほどは空くものであるが、この度は事情が事情じゃ。結納からお輿入れとできる限り急がせるにより、その方にてもそのように心づもりをせよ」
「かしこまりましてございます」
「ではまず、次の大安吉日につつがなく結納の儀執り行えるよう、大至急整えよ」
こうして大わらわで準備を整えます。
結納の当日。もちろん長太郎にとっても初めてのことです。しかも周りはお侍様ばかり、かみずってしまいまして失敗を繰り返しながらもとりあえず終えました。それからがまた大変。とにかく急がんなりまへんさかいな。家財道具に着物、身繕いの品々まで一切合切をいっぺんに用意いたします。家財道具やなんかは作って売ってるもんやさかいこら何とかなります。そやけど着物だけは誂えなしょうがない。仕立屋を急かすだけ急かして何とか着物も整います。それが輿入れの前々日でございました。
その日は言うておりましたように、料理屋にものを頼んでの大酒盛り。ごちそうが並んで酒も良え酒が次々に出てまいります。この酒がまたぼんやりと良え具合に燗がついておりまして、長太郎もほろっと酔いが回ります。
「いやぁ、何や、嬉しいなあ。こない嬉しいことは何年にいっぺんてなもんやな」
いつになくくいくいと長太郎の杯も進んでおりまして。
「ご隠居様、ご隠居様にお酌させていただけるのもおそらくこれが最初で最後。どうぞ私のお酒もお召し上がり下さい」
お芳にそう言われるというと長太郎としても断るわけにもいかん。珍しくも目をとろんとさせました長太郎が、大皿の料理は最初は返し箸で取っておりましたが気がついたら直箸で取っております。長太郎も乱し気味でございましたが、傳次郎も何言うてるか分からんようになっております。
それぞれがそれぞれに酒盛りを楽しみました晩でございました。
その翌日ということになりますと、これが婚礼の前日
とりあえずいっぺん着てみようかと言うわけでお芳が花嫁衣装に着替えます。これもう何とも言えん、店の者一同が息を飲むほどの美しさでございます。
「まあまあまあ、何たる美しさ。何たる気品。これぞお侍様の輿入れじゃな」
長太郎がそう言いますとお芳も少しはにかんで。
「ご隠居様、そうお褒めあそばさないで下さいませ」
「きれいなもんをきれいと言うて何の悪いことがあろか」
そしてしばらく見とれておりました長太郎でございますが、言葉を続けます。
「なあお芳、儂がおまはんに主として声をかけてやれるのは今晩が最後。明日になったら嘉納様ご息女お輿入れの準備を相整えましてございますと儂は控えんならん。そやから、言うておきたいことがあるんやけどな」
「何でございましょう、ご隠居様」
「前に、不細工中の不細工を一、小野小町か楊貴妃かてな絶世の美女を十としたら、自分でいくつくらいになると思う、と訊いたことがあったん、覚えてるか」
「はい、ございました」
「あの時儂ゃ七、八じゃと言うたんじゃが、これも覚えてるかな」
「はい、おっしゃいました。確かに覚えております」
「ありゃ、嘘じゃ。あの時はおまはんが固うに心閉ざしてしもてたさかいな。不要に褒めたりしたらなおのこと心を閉ざすじゃろうと思て、七、八と言うたんじゃが、自分を信じや。おまはんほどの別嬪、そうはおらんで。見目のきれいさはもちろん、気立てのよさ、それから裏表のなさ、我々町人に対する優しさ、それでいて自分を見失わん気高さ、ほんまに外見も中身もおまはんほどの人ならば、嫁ぎ先でも可愛がってもらえるじゃろう。良うここへ来てくれた。儂からは礼を言わないかんな。ほんまに、おおきに」
「ありがとうございます。では、私からは最後のご奉公をさせて下さいませ」
「最後の奉公とは、なんぞあったかいな」
「以前ご隠居様は、私はご隠居様の良えところを探す係りであるとおっしゃいました」
「あっははは、そんなこともあったな。良う覚えててくれたな」
「お役目を務めさせていただきます。ご隠居様は、心の底からお優しうございます」
「そうか……。そうかな」
「はい、どうかこれからは、変人の役立たずのとご自分を貶めないで下さいませ」
「おおきに。そうするわ。ほな、明日はいよいよ晴れの日じゃ。お互いゆっくりと体を休めておくことにしようやないか」
こうして、お芳の山紀屋最後の夜は暮れます。
翌日が大安吉日。婚礼の当日でございます。
朝の早うに侍屋敷からお使いの方がいらっしゃいまして。
「山紀屋、婚礼の手配は整うておろうの」
「はい、嘉納様ご息女の準備、整えましてございます。嫁入り道具一式も買いそろえましてございます」
「では、参る」
こうして花嫁行列の出発でございます。露払いが先頭を行きまして、花嫁の輿、そのあとに花嫁道具が付き従います。この時分、方違えという縁起担ぎがございました。嫁入り先に吉方から入ろうということで回り道をするんですな。この上のない晴れの日やさかい選りに選った吉方。その日は午、つまり真南やったんやそうでございまして、伏見町からいったん南へ下がって東へ行き、そこから北へ行って侍屋敷に入る。これで侍屋敷町からしたら真南から入ったことになるわけですな。
いずれにせよ橋は越えんなりませんが、水の都大坂には橋が二種類ございました。公儀橋と言いましてお上が作ってくれた橋と、そうではなくて近所の人間が金出し合うたり町人でも有力者が出資して作られました民間の橋。お侍様のご婚礼に町人橋を通るわけにはいかん。というわけで長堀橋で長堀を渡りまして、さらに道頓堀を日本橋で渡ります。後に日本橋のちょっと東側から道頓堀の水を南へ流す高津入堀川というのが掘削されますがこの時分はまだなかったんですな。なのでここから東へ道を取ってお城の真南に当たる辺りから北上して侍屋敷町へ参ります。ちょうど大坂の一番賑やかなところを見せて回るような形に、たまたまなったわけでございます。
もちろんお侍様のご婚礼でございますので、道行く町人は道に控えております。そやけどそんなことのまだわからん小さい子どもは道ばたに立っておりまして「お母ちゃんあの人きれいなあ」てなことを指さしながら言うております。お芳はにっこりと笑みを返す。もうあの能面の面影はどこにもございませなんだ。
白無垢に紅葉の赤の映える、晩秋の出来事でございました
婚礼の夜のこと。
水野様のお屋敷では、若い夫婦が改めてふたりきりで話をしております。
「改めて良う来てくれた。儂を選んでくれたことを嬉しう思うぞ」
「はい。これからよろしくお願いいたします」
「儂も両親を亡くしておる。祖父祖母ももうこの世にはおらぬ。つまりこの家でお前が女子の長じゃ。女中も数人居るゆえ、上手く使うてこの家を切り盛りしてもらいたい」
「はい。力の限り、相務めます」
「うむ、頼むぞ。ところでひとつ尋ねたきことがあるが、良いか」
「はい。何でございましょう」
「なぜ儂を選んでくれた」
「お話をいただいた時に、もうほぼ心は決めておりました」
「ほう。それは何故」
「私は一度町人に落ちた身。心ないことをおっしゃる方もこれからいらっしゃるかと思います。にもかかわらず、私のような者を娶ってやろうとおっしゃって下さいました。きっとこれから困ったときにもお守りいただけるかと、そのように考えましてございます」
「そうか。儂を頼ってくれるとあらば、襟を正さねばならんな」
「よろしくお願いいたします」
「時に、山紀屋隠居長太郎の申すところによらば、お前は醜貌によりお父上の嘉納様に憎まれておるという思いが胸へつかえ、笑みを忘れておったそうじゃな」
「そのようなことまでお耳に入っておりますか。はい、能面と言われておりました」
「そのつかえももう下り、いまは心の平静を取り戻したと聞くが、間違いないか」
「はい、ご隠居様のおかげさまで、笑みも取り戻せました」
「ならばその笑みを見てみたい。少し笑うて見せてくれるか」
そう水野様がおっしゃいますというと、お芳もはにかんだようなぎこちない笑みを恐る恐るといったような具合で浮かべます。
「なるほど、美しい、良い笑みじゃ」
「ありがとうございます」
「武家の女として、みだりに笑うことはならんこと、忘れてはならん。じゃが、儂とふたりきりの時は、いつもそうして笑うておれ」
「はい」
見合わせて微笑み合うふたり。
「名を聞いて良いか」
「はい。理芳と申します」
「なるほど、理芳の芳の字を取りて芳か。これでいよいよ、お前も儂の妻となったな」
そのころ山紀屋では。
長太郎が書見をしておりますと珍しいことに傳次郎がやって参ります。さらに珍しいことにお盆の上に二合徳利が二本と皿がふたつほど並んだのを持っとおります。
「兄さん。いまかましまへんか」
「こんな時分に徳利持ってきてえらい珍しいやないか。今から飲もうということかいな」
「そうです。と言うてもあては店の漬かりすぎと余りもんですけどな。まあ、お芳の婚礼の後祝いということで、たまには兄さんと差し向かいで飲みたいなあと思うて持ってきたような具合です」
「後祝いと言われりゃ付き合わんわけにはいかんな。呼ばれよか」
お杯になみなみと酒が注がれまして。
「ほな兄さん、お疲れさんでした」
「お前にもいろいろと世話になったな。改めて礼を言うわ」
「しかし兄さん、今日のお芳のきれいなことと言ったら。あんな別嬪わたいももう二度と見ることないやろと思いますわ」
「ほんまやなあ。紅葉の赤と白無垢の白。紅白でこんなめでたいことないな」
「やけど兄さん、あんたみんなわかってはったんですな」
「何をいな」
「何をて兄さん、とぼけなはんな。お芳の身の上から何から、全部わかった上でことを運ばはったんでっしゃろ」
「儂ゃ知らんで。こうなったんはたまたまや」
「たまたまて兄さん。狙うてやらなんだら、こない上手いこと行きますかいな」
「儂ゃほんまに知らなんだんや。行きがかりでこうなっただけや」
「左様か。ほなまあ、そういうことにしときまひょか。せやけど兄さん、あない良え女子自分の物にしようと思たらでけたはずやなのに、女子のために陰の舞をした、それだけは確かでっせ」
「それも後になってみればの話やな。人のことをこそこそ調べ回る儂の嫌らしい性質がたまたま良え方に出ただけの話や」
「どこまでもそうおっしゃる。兄さんあんた見た目よりずっと良え男だんな。そのうち良え女子が惚れまっせ」
「阿呆なこと言いな。儂みたいな男に女子が惚れたらその女子に損が行くわいな」
そう言いながら月を見上げる長太郎の顔が、面白うてたまらんというような具合に笑ってるのを、ちょっと不思議な顔で見ていた傳次郎でございました。
ご詮議の結果、大久保允治郎様は破損奉行の役職を解かれ閑職へ左遷、木曾屋は御用達の店から外されました。旗振りの佐平と政吉のふたりはご禁令の旗振りを行った咎、わざと振り違いをして米相場を混乱させた咎を問われましたが、自ら名乗り出たということで量刑が勘案されまして金輪際旗振りは行わないという一筆を書かされた上で手鎖三十日の刑となったそうでございます。
山紀屋の方もだんだんといつもの暮らしに戻り始めました。
隠居の世話役は丁稚の定吉の役目となりました。
「ご隠居はん。火鉢に火ぃ入れまっせ」
火鉢にから消し入れて炭入れて火種を入れて後先も考えんと団扇でばたばたばたばた。灰と煙とで小屋の中がえらいことになる。毎朝これですわ。
「またかいな。定、お前もうちょっとあんじょう火ぃ熾すことはでけんのかいな。はぁ。やっぱりお芳嫁に出さなんだ方が良かったかいな」
ちょっとお芳が恋しなる長太郎でございました。
第一話 了