最終章:アルプスの薔薇に誓う
嵐が去り、敵が去り、シュロス・ローゼンには再び本来の静寂が戻っていた。
だが、その静寂は以前のような「停滞」ではない。城のいたるところに最新の光ファイバーが静かに潜み、屋根には目立たぬよう工夫されたソーラーパネルがエネルギーを蓄えている。ヴィクトリアがもたらした「革新」と、ユリアンが守り抜いた「伝統」は、今や一つの生命体のように完璧な調和を見せていた。
午前六時。いつものようにランニングを終えたヴィクトリアは、テラスへと続く大理石の階段を上がった。そこには、伝統の銀食器を並べ、朝食の準備を整えたユリアンが待っていた。
「おはよう、ヴィクトリア。今朝の心拍数はどうだ?」
ユリアンが、微かな悪戯心を込めて尋ねる。ヴィクトリアはスマートウォッチを一瞥もせず、ふっと微笑んだ。
「計測不能よ。……あなたの顔を見た瞬間に、すべてのデータがオーバーフローしてしまうから」
二人は、かつて宣戦布告を交わしたあのダイニングテーブルではなく、湖を一望できるテラスの小さなテーブルを囲んだ。ヴィクトリアの前には、ユリアンが自ら淹れたアッサムティー。ユリアンの前には、ヴィクトリアが選んだ最新のタブレット端末。互いの「聖域」を侵し合うのではなく、溶け合わせる。それが二人の導き出した最適解だった。
「ヴィクトリア。以前、私は君を『心のないマシーン』だと思っていた」
ユリアンがティーカップを置き、まっすぐに彼女を見つめた。
「だが、間違っていたのは私の方だ。君は誰よりも情熱的に、この城と、そして……不器用な私を守ってくれた。君の合理性は、冷たさではなく、愛するものを守るための強さだったんだな」
「私もよ、ユリアン」
ヴィクトリアは、その温かい紅茶を一口含んだ。
「伝統に固執するあなたは、ただの頑固者だと思っていた。でも、あなたが守っていたのは埃ではなく、魂だった。数字では測れない『誇り』という資産を教えてくれたのは、あなたよ」
彼女は席を立ち、ユリアンの傍らへ歩み寄った。アルプスの冷涼な空気が、二人の間を通り抜けていく。朝の光が湖面に反射し、城全体を黄金色に染め上げていた。
「祖父の遺言は、最大の『計算違い』だったわ。……でも、私の人生で最高の投資になった」
「ああ。これ以上のリターンは、この世のどこを探しても見つからないだろう」
ユリアンが立ち上がり、ヴィクトリアの腰に手を回した。かつてのビジネスライクな距離はもうない。触れ合う体温が、言葉以上の真実を伝えていた。
「ヴィクトリア・フォン・ザルム。……契約の続きをしよう。期限は、我々の命が尽きるまでだ」
「……その条件、謹んで受諾するわ」
ヴィクトリアは、凛とした強さを湛えたまま、静かに目を閉じた。ユリアンがゆっくりと顔を近づける。
重なり合った唇は、朝の空気のように清らかで、しかし心の奥底を焼き尽くすほどに熱かった。それは、二つの異なる世界が一つに溶け合う、契約ではない「真実の誓い」。
テラスに咲き誇るアルプスの薔薇が、風に揺れて祝福の香りを運んでくる。計算不能な愛の物語は、いま、最高に美しい完成図を描き出し、永遠の朝へと続いていく。
最後までありがとうございました。




