第七章:薔薇の城の防衛線
「——残念ですが、ヴィクトリア。数字は嘘をつかない」
シュロス・ローゼンの大広間。そこに響いたのは、ロバート・ハリソンの不愉快なほど自信に満ちた声だった。彼は数人の冷徹な弁護士と、広域開発業者の代理人を引き連れ、まるで勝者のように中央に陣取っていた。
「この城の地盤沈下と、歴史的建造物としての維持基準の未達。これらを鑑みれば、君たちが相続条件を満たす『資産価値の維持』に失敗していることは明白だ。さあ、この売却承諾書にサインを。それが、君が愛した祖父の遺産を、最悪の形 (破産)で失わないための唯一の出口だ」
ロバートが放り出した書類には、城を解体し、高級カジノホテルへと変貌させる残酷な完成予想図が添えられていた。
ヴィクトリアは、隣に立つユリアンと視線を交わした。昨夜までなら、この圧倒的な「法的根拠」の前に、彼女の理性は降伏を選んでいたかもしれない。だが、今の彼女の瞳には、かつてないほど鋭い知性の火が宿っていた。
「ロバート。あなたの言う通り、数字は嘘をつかないわ。……ただし、それは『正しいデータ』に基づいている場合に限るけれど」
ヴィクトリアは、手元のタブレットを静かに操作した。ホログラムのように投影されたのは、城の精密な構造解析データと、世界最高峰の環境認証機関のロゴだった。
「地盤沈下?それは、あなたがわざと遮断した排水システムの不具合による一時的なもの。私が昨日までにすべて復旧させ、同時に、この城の地熱を利用した最新の自立型エネルギーシステムを構築したわ。シュロス・ローゼンは今、欧州で最も『持続可能 (サステナブル)』な歴史的建造物として、ユネスコの関連機関から特別助成の承認を得ているの」
「なんだと……?」
ロバートの顔から余裕が消える。
「それだけではない」
ユリアンの重厚な声が広間に響いた。彼は隠し部屋から持ち出した、羊皮紙の古文書をテーブルに広げた。
「この城には、ハプスブルク家より賜った『永久不輸不入権』が付帯している。王室の承認なき譲渡は無効であり、同時に、この土地の下を流れる水脈は、州の保護対象となる特権的な水利権を有している。……君たちが計画しているカジノの排水量は、この条約を根底から侵害するものだ」
「そんな中世の遺物が、現代の法律に通用すると思っているのか!」
開発業者の代理人が声を荒らげる。
「いいえ、通用させるのが私の仕事よ」
ヴィクトリアが一歩踏み出し、冷徹な笑みを浮かべた。
「ユリアンが守り抜いた『歴史的特権』を、私が現代の『知的財産権』と『環境法』でコーティングした。今、この城に手を出せば、あなたたちの会社は欧州全土の環境団体と、王室ゆかりの財団を敵に回すことになる。……ロバート、あなたの投資家としてのキャリアを賭ける価値があるかしら?」
静寂が広間を支配した。ロバートの弁護士たちが、慌てた様子で書類を確認し、互いに顔を見合わせる。ヴィクトリアが突きつけたのは、単なる反論ではない。伝統という重厚な盾を、合理性という鋭い剣で磨き上げた、完璧なまでの「知の暴力」だった。
「……ヴィッキー。君は、この没落貴族と心中するつもりか」
ロバートが、呪詛のような声を漏らす。ヴィクトリアは、迷いなくユリアンの腕を組んだ。
「心中?違うわ。私たちは、この城を起点に新しい世界を創るの。……帰りなさい、ロバート。ここには、あなたの理解できる『価格』のついたものは何一つないわ」
ユリアンが静かに右手を挙げ、扉を指し示した。
「我が妻の言葉通りだ。シュロス・ローゼンに、不招請の客を置くスペースはない」
ロバートたちは、吐き捨てるようにして去っていった。ヘリコプターの音が遠ざかり、再び城に静寂が戻ったとき、ヴィクトリアは深く、深く息を吐いた。
「……勝ったのね。私たちの、勝利よ」
「ああ。君の言う『リサーチ』と、私の『埃をかぶった記憶』が、これほど噛み合うとは思わなかった」
ユリアンが、ヴィクトリアの肩を抱き寄せた。その手は、昨夜よりもずっと力強く、そして穏やかだった。
「ヴィクトリア。君が教えてくれた、数字の先にある未来。……悪くないな」
「ええ。そして、あなたが守ってきた過去。……それは、何よりも美しい資産だったわ」
二人は、夕日に染まり始めたテラスへと歩み出した。戦いは終わった。しかし、二人が紡ぐ新しい物語は、まだ始まったばかりだった。




