第四章:部外者の定義
「——まあ、この香りは。シュロス・ローゼンに、やっと春が戻ったようですわね」
サロンの重厚な扉が開くと同時に、春の草原を思わせる軽やかな声が響いた。ヴィクトリアがタブレットから顔を上げると、そこには、この古城の風景に完璧に溶け込んだ一人の女性が立っていた。
アイリス・フォン・カシュタイン。淡いラベンダー色のドレスを纏い、編み込まれたブロンドの髪には一粒の真珠が光る。彼女の佇まいには、ヴィクトリアがどれほど資産を築いても手に入れられない「正統」という名の静謐さが宿っていた。
「アイリス。君こそ、変わらない美しさだ」
ユリアンが立ち上がる。その顔に浮かんだのは、ヴィクトリアが一度も見たことのない、硬さを取り除いた穏やかな微笑だった。
「ユリアン、これを。お父様があなたに、と。家系に伝わる特別な初摘みの茶葉よ。去年の冬、あなたが心配されていた茶畑の回復を祝って」
「それは……わざわざすまない。君が淹れてくれる紅茶の味は、格別だからな」
二人はヴィクトリアの存在を忘れたかのように、古くからの共通言語で語り合い始めた。どこの領地の誰が結婚しただの、あの年のワインの出来はどうだっただの。それは単なる世間話ではなく、何世紀にもわたって血脈が受け継いできた「共通の記憶」を確認する作業だった。
ヴィクトリアは、自分が手にしている最新型のタブレットが、急にただの安っぽいプラスチックの塊のように感じられた。
「あら、ごめんなさい。あなたが『新しい奥様』のヴィクトリア様ね?」
アイリスが、羽毛が触れるような優雅な足取りで近づいてきた。その瞳には、侮蔑でも敵意でもない、もっと残酷な「憐れみ」が混じっていた。
「はじめまして、ヴィクトリアです。ビジネスの契約上、今はこの城の管理を任されています」
ヴィクトリアは意識して背筋を伸ばし、実業家としての「鎧」を纏った。しかし、アイリスは鈴を転がすような声で笑った。
「ビジネス、契約……。まあ、素敵なお言葉ですこと。ユリアンから伺いましたわ。あなたがこの城を『リゾート』になさる計画を立てていると。でも、ヴィクトリア様。この城の壁の一枚一枚には、私たちの先祖の涙と祈りが染み込んでいるの。それを『稼働率』や『収益性』という言葉で上書きできるとお考えかしら?」
「感情で建物は維持できません。私は現実的な解決策を提示しているだけです」
「ええ、その通りですわ。けれど、心というものは数字では動かせないの。特に、ユリアンのような方はね」
アイリスはユリアンの方を振り返り、親密な手つきで彼の袖の汚れを払った。ユリアンはそれを拒まない。
「ユリアン、隠し部屋の整理は進んだ?子供の頃、あそこで一緒に秘密の地図を描いたのを覚えているでしょう?近いうちに、またあそこでお話ししましょう。……二人きりで」
ユリアンが微かに頷くのを見た瞬間、ヴィクトリアの胸の奥で、何かがパチンとはじける音がした。
それは熱く、苦く、そしてひどく惨めな感覚だった。ロバートが来たときにユリアンが放った「独占欲」とは違う。これは、自分が築き上げてきた論理の城が、たった一杯の紅茶と古い思い出話によって、音も立てずに崩落していく恐怖だった。
「……失礼。仕事が残っているから、私はこれで」
ヴィクトリアは、逃げるようにサロンを後にした。背後でアイリスが「あら、お忙しいのね」と囁く声が聞こえ、ユリアンが何かを言いかけた気配がしたが、振り返らなかった。
自室に戻り、彼女はスムージーを飲み干した。冷たいはずの液体が、焼けるように喉を通る。
「……バカげてる」
彼女は震える指でスマートウォッチを確認した。心拍数は一四〇。走ってもいないのに、心臓が警鐘を鳴らしている。
これは「嫉妬」ではない。このプロジェクトにおいて、ユリアンという重要なリソースがアイリスという外部因子に影響され、計画の進捗に支障をきたすことへの「懸念」だ——。
そう自分に言い聞かせても、鏡の中のヴィクトリアは、今にも泣き出しそうな、ただの孤独な女性の顔をしていた。
彼女は気づき始めていた。シュロス・ローゼンを守るための戦いは、資金繰りや改装計画ではなく、自分の心の奥底にある「計算不能な領域」との戦いへと変わってしまったことに。




