第三章:不招請の変数
その音は、アルプスの静寂を暴力的に引き裂いて近づいてきた。
低く重いローター音が湖面にさざ波を立て、シュロス・ローゼンの正面庭園に、深紅のプライベート・ヘリコプターが舞い降りる。巻き上げられた薔薇の花弁が、ユリアンの端正な眉を不快そうに潜めさせた。
「……約束のない客は、この城の流儀ではないのだが」
テラスで読書をしていたユリアンが、冷ややかな声を出す。その視線の先で、ヘリコプターのドアが開き、仕立ての良いイタリア製スーツを纏った男が降りてきた。ロバート・ハリソン。ヴィクトリアがかつて公私ともに「無敵のユニット」と称された投資家だ。
「ヴィッキー!こんな不便な岩山に閉じ込められていると聞いて、助けに来たよ」
ロバートは、出迎えたヴィクトリアの肩を親しげに抱き、その頬にキスを贈ろうとした。ヴィクトリアは、一瞬の躊躇のあと、それをビジネスライクな会釈でかわす。
「ロバート。連絡もなしに、私の『プロジェクト』を邪魔しないで」
「邪魔?まさか。君をこの『負債の塊』から解放しに来たんだ。契約結婚なんていう馬鹿げた遺言、僕の弁護士軍団なら三日で無効にできる」
ロバートの言葉は、ヴィクトリアの知る「効率的な解決策」そのものだった。二人はそのまま、ユリアンを置き去りにして、M&Aやアセット・マネジメントの専門用語を弾丸のように交わし始める。数字、利回り、出口戦略。それは、この古城の時間の流れを無視した、加速する現代の言語だった。
ユリアンは、その会話の輪に入ろうとはしなかった。ただ、一歩引いた場所から、銀の杖を手に、侵入者を値踏みするように見つめている。
「失礼だが」
ユリアンの低く、通る声が二人の会話を断ち切った。
「ここは私の家だ。そして、彼女は今、私の妻 だ。商談なら、他所でやっていただきたい」
ロバートが、初めてユリアンをまともに見た。小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、高級時計を光らせる。
「ああ、君がその『管理人兼、偽装夫』か。ヴィッキーから聞いてるよ、骨董品みたいな生活をしているって。君に彼女を養う甲斐性があるのかい?この城の修繕費だけで、君の年収の数百年分だろう?」
「価値とは、通帳の桁数で決まるものではない。……ヴィクトリア」
ユリアンが、ヴィクトリアの名を呼んだ。その響きに含まれた微かな熱に、ヴィクトリアの背筋が震えた。
「お客様を、せめてサロンへお通ししたらどうだ。冷え切った紅茶を出すくらいの用意はある」
「ユリアン、彼は……」
「わかっている。君の過去の『計算間違い』だろう?」
ユリアンの言葉は、ロバートではなく、ヴィクトリアの核心を突いた。
サロンへ移動しても、ロバートの攻勢は止まらなかった。彼はヴィクトリアの隣に当然のように座り、城をラグジュアリー・カジノへ改装する計画書を広げる。
「ヴィッキー、君ならわかるだろう?この男と一年間、我慢比べをするなんて時間の無駄だ。僕と一緒にニューヨークへ戻ろう」
ヴィクトリアは、ロバートの差し出した計画書を見た。それは完璧だった。合理的で最大の利益を生む。かつての自分なら、迷わずサインしていただろう。しかし、彼女の視線は、部屋の隅で無言でティーカップを磨くユリアンの指先に吸い寄せられた。
ユリアンの所作には、ロバートがどれほど金を積んでも買えない「時間」が宿っていた。
「ロバート……」
ヴィクトリアが口を開きかけたその時、ユリアンが二人の間に割って入った。彼はヴィクトリアの背後のソファの背に手を置き、まるで彼女を囲い込むような姿勢を取る。
「あいにくだが、彼女は今、この城の『伝統』を再構築するという、極めて知的な業務の最中だ。君のような、数字しか食えないハイエナに割く時間はない」
「なんだと?」
ロバートが顔を真っ赤にする。
「聞こえなかったか。私の妻の隣は、すでに予約済みだ」
ユリアンは、冷徹な瞳でロバートを射抜いた。その目は、獲物を守る猛禽類のような鋭さを帯びていた。ヴィクトリアは驚きに目を見開く。ユリアンから伝わる、かすかな体温。
(これは、独占欲……?いいえ、彼はただ、自分のテリトリーを守っているだけだわ)
そう自分に言い聞かせながらも、ヴィクトリアの心拍数は、どのランニングの時よりも高く跳ね上がっていた。
「……帰りなさい、ロバート。私は私の意志でここにいるわ。これは私の『プロジェクト』なの。外部からの介入は、ノイズでしかない」
ヴィクトリアの毅然とした言葉に、ロバートは舌打ちをして立ち上がった。
「いいだろう。だがヴィッキー、君はすぐに気づく。その古びた石壁の中で、君の才能が腐っていくことにね」
ヘリコプターが飛び去り、再びシュロス・ローゼンに沈黙が戻った。
テラスに残された二人。ヴィクトリアが何か言おうとユリアンを振り返った瞬間、彼はすでに元の「冷徹な貴族」に戻っていた。
「……勘違いするな、ヴィクトリア。不快な騒音を排除しただけだ」
彼はそう言い捨てて背を向けた。
ヴィクトリアは、遠ざかるヘリコプターの音よりも、自分の胸の鼓動の方がうるさいことに、ひどく困惑していた。




